統一原理を愛して -20ページ目

統一原理を愛して

私は文鮮明先生、統一原理に出会って神様を感じることができました。このブログをきっかけに統一原理を通して、日々の生活で皆さんが神様を感じていけたら幸いです!!

創造本然の価値について。統一思想要綱の第7章:芸術論を通して、創造本然の価値について書いていきたいと思います。

今日の抜粋場所は、6月4日の記事で取り上げた、喜び関する説明を補足説明しています。元々は、創造目的でも喜びについては取り上げました。喜びはどのようなときに感じるか?

原理講論 創造目的 P65

「無形のものであろうと、実体であろうと、自己の性相と形状のとおりに展開された対象があって、それからくる刺激によって自体の性相と形状とを相対的に感ずるとき、ここに初めて喜びが生ずるのである。」


この補足説明として、統一思想要綱 P419 

  二、芸術と美   形状の相似性   から抜粋。

「 次は、形状の相似性である。対象の形状に属するものは事物の形態、色、音、匂い、香りなど五官で感じる要素である。それらが主体である、われわれの中にある原型と一致するとき、美しさが感じられ、喜びの感情がわいてくる。

 認識論において述べるように、外的世界は人間の心を拡大させ、展開したものであるから、外界のすべての要素は原型的に人間に備えられている。すなわち事物(万物、作品)の形態、色、音、匂いなどの形状的要素は、原型的に、縮小された形態として、われわれの中にすでに備わっているのであり、それがすなわち形状の相似性である。その似ている要素が、認識において互いに一致しながら情を刺激するとき、喜びが得られるのである。」


万物すべては、人間の心を展開したもの。万物すべての要素は人間に備えられている。だから、形状の相似性、すなわち、人間は万物を通して自己の形状を感じて喜びを感じることができる。そして、人間は神様の似姿。万物は、神様の似姿に創造された人間の心を展開されたもの。だからこそ、人間は、万物を通して神様をも感じて喜びを感じることができます。


万物を通して神様を感じましょう!!!み言を信じて実践!!!


明日に続く!!!


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創造本然の価値について。統一思想要綱の第7章:芸術論を通して、創造本然の価値について書いていきたいと思います。

P419

 二 芸術と美   性相の相似性   から抜粋。

「 主体と対象が性相的に似るということは、思想、構想、個性、趣味、教養、心情などの一部分または全部が主体および対象間で互いに似ることを意味する。その中で、特に重要なものは思想である。対象の中に自分と同じような思想を発見するとき、美しく見える。したがって思想を豊富に、深くもっているならば、それだけ喜びの範囲が広がり、深い感動を受けるようになる。

 そのように性相の相似性とは、対象(作品)の中にある作者の心情、思想などの性相的な側面と主体(鑑賞者)の心情、思想などの性相的な側面が互いに似ていることを意味するのである。」




思想が特に大切。思想といいますと??やはりみ言ですかね。今日の抜粋箇所の後を読んでいきますと、芸術も万物主観の一種であり、万物主管のためには個性完成しなければなりません。要は、芸術家は、愛の人格者であり、個性完成者でなければ。芸術を堪能するには、昨日の記事にも書きましたが、心霊の清さと教養が大切。個性完成すれば心も清いですよね。

やっぱり、み言を信じて実践。み言を信じて実践し、神様の心情を体恤して、個性完成することが大切です。

私の以前書いた証しも、良かったら読んでください!!

120修の証しです。2011-03-20 神の喜びのための善の対象(後半)


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創造本然の価値について。統一思想要綱の第7章:芸術論を通して、創造本然の価値について書いていきたいと思います。

P418

 二 芸術と美   芸術と喜び   から抜粋。

「 すでに述べたように、芸術とは美の創造すなわち喜びの創造である。それでは喜びとはいかなるものであろうか。

 『原理講論』に「無形のものであろうと、実体であろうと、自己の性相と形状のとおりに展開された対象があって、それからくる刺激によって自体の性相と形状とを相対的に感じるとき、ここに初めて喜びが生ずるのである」(六五頁)と書かれているように、対象の性相と形状が、主体の性相と形状と互いに似ているとき、喜びが生じるのである。

 存在論と認識論において述べるように、人間は宇宙を総合した実体相であるから、人体の中には宇宙のすべての性相と形状が潜在的にある。それゆえ、例えば花の場合、その花の色、形、やわらかさなどの原型がわれわれに備わっているのであり、その原型と現実の花が授受作用を通じて一致する体験がまさに認識であって、その一致から喜びの感情が生まれるのである。したがって対象の美を感知しようとすれば、まずその原型が心の中に浮かんでこなければならない。

 それでは原型はいかにして浮かんでくるだろうか。第一に必要なのは、心霊の清さである。心霊が清ければ原型は自ら直観的に浮かんでくる。次は、教養である。美の様々な形態を体験的に理論的に学ぶことによって、認識に際して、潜在意識の中にあった原型がたやすく刺激され表面化されやすいのである。」






人は対象を通して、自己の性相と形状を相対的に感じて喜びを感じる。そして、人体の中には宇宙のすべての性相と形状が潜在的にある。だから、その対象を通して、私自身が備えている美しさ、荘厳さ清らかさ・・・・・・・などなど感じることができる。その、私の心の中に備わっている性質と現実の対象とが一致したときに喜びを感じる。ここで重要なのは、原型、私の心の中に備わっている性質が心の中に浮かんでこなければならない。

では、いかにしたら原型、私の中に備わっている性質が浮かんでくるか??


①心霊の清さ、②教養です。教養を身につけるのは、この世の常識だけではない。この世の常識で留まっていては、ある意味低いかもしれません。教養を身につけるとは、対象を通して、私の、神様の性相と形状を相対的に感じることができる。神体験ができる。



私、愛知人、今日の抜粋に出てきた花はさっぱり。教養なし。花はみんな一緒。どんだけ教養がないんだ!!これでは、花を通して私の、神様の性相と形状を相対的に感じることはありません(>_<)

頑張れ、愛知人!! 教養さ~、身に付けろ、愛知人!!


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以前にも書きましたが、創造本然の価値について、再び書いていきます。今回からは統一思想要綱の第7章:芸術論を通して、創造本然の価値について書いていきたいと思います。

P416

「次は喜びと相似の創造について説明する。すでに述べたように、神は喜びの対象として人間と万物を造られた。主体の喜びは自己の性相と形状に似た対象からくる刺激によって得られる。したがって神は、神の二性性相に似るように形象的実体対象として人間を造られ、また象徴的実体対象として万物を造られたのである。これを芸術論に適用すれば、芸術家は喜びを得るために、自己の性相と形状に似せて作品を作るのであり、鑑賞者は作品を通じて自己の性相と形状を相対的に感知して喜ぶという論理になる。」


芸術という観点で書いてありますが、これと似た内容は以前も見たことがあるのでは!?

そうです。原理講論の創造目的の(二)神の喜びのための善の対象。P65

「無形だろうと、実体であろうと、自己の性相と形状のとおりに展開された対象があって、それからくる刺激にによって自己の性相と形状とを相対的に感ずるとき、ここに初めて喜びを感じるのである。」


芸術家は喜びを得るために自己の性相と形状に似せて作品を作る。そして、鑑賞者は、その作品を通して、自己の性相と形状を相対的に感じて喜びを感じる。作者の創造本性、つまり、神様の二性性相に似たものが作品に展開。そして、鑑賞者は、作者の創造本性(神様の二性性相に似たもの)を感じて、神様をも感じる。もちろん、作者も自分の作品を通して、神様を感じるのです。



これから、芸術論についてとことん書いていきます。これからもよろしくお願いします。


創造目的の(二)神の喜びのための善の対象の説明、証しも良かったら見てください。

2011-04-24 人生の目的(創造目的)④ 神の喜びのための善の対象

2011-04-25 人生の目的(創造目的)⑤ 神の喜びのための善の対象 <証し>




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責任分担の続きを書きたいと思います。人間の責任分担はみ言を信じて実践すること。み言を信じて実践すれば、個性完成し、直接主観圏に入っていく。

今日も、父が聞かせてくれる愛の話ー3 エデンの光と影 から抜粋します。責任分担の説明をわかりやすく書いてあると思うので、興味があったならば読んでください。神様の心情も垣間見ることもできるかもしれません。





三、愛の豊熟(P17~20)

なぜ人間には「人生」 という成長期間が与えられているのでしょうかつ生まれながらに神様と一致するように創造されてもよいのに、どうして成長過程を経ながら神様と一致するように創造されたのでしょうか?

もしも責任を遂行する期間がなかったならば、わたしたちは生まれながらに結婚しなければなりません。しかし、結婚が何であるかも分からない幼い時に、結婚することができるでしょうか?結婚するには成熟すべき期間を通過し、成人になるまで待たなければなりません。女性としての器
官、男性としての器官が完全に成熟するまで待たなければならないのです。

人聞は成熟すると自分からパートナーを求めるようになります。イナゴでさえ自分で相手を見つけるのですから、人間にそれができないはずがありません。ア、ダムとエパは成長すると、エパの子はやわらかく、アダムの手はがっしりとしていることに気づきました。手と手が触れると、お互いに心地よい何かを感じました。このように、成熟しさえすれば「愛しなさい」と教育する必要がありません。「愛するな」と言っても、愛するようになっているのです。成熟するまで待ちさえすればいいのです。

ところが、アダムとエパは成熟しないうちに堕落してしまいました。それが問題となったのです。それはまるで実のないイガグリのようなものです。お盆のころのイガグリは、外見はクリそのものでも、剥いてみると皮ばかりで中身がないのです。アダムとエパもそれと同様でした。神様との愛の紳が結ばれなかったために、実がないのです。完全に成熟すべきだったのに、熟さずに落ちてしまったのです。

神様、がアタムとエパに、「取って食べるな」という責任履行の期間を与えたのは、彼らが成熟するのを待つためでした。愛の力は、彼らが成熟すればするほど大きくなっていきます。成熟した二人が一体となれば、愛はますます大きくなって、さらに大きな愛の主体||神様を求めていくようになるのです。そうなれば、大きな愛の主体である神様の前に、彼らは大きな対象になります。最高の種本然の種に至っていくためです。花が咲いたり香りを放ったりするのは、そのこと自体に目的があるのではありま
せん。実を結ぶことに目的があるのです。

しかしアダムとエパは、「取って食べるな」と言われたその責任を果たせずに、堕落してしまいました。堕落とは何でしょうか?それは責任分担を完遂できなかったことを意味します。もしもアダムとエパが堕落しなかったならば、彼らは幼年期を経て、思春期を迎え、自然に結ばれたはずです。自然に一つになるのです。だれに教わるのでもなく自然に一つになるのです。

一つになるとき、だれを中心に一つになるのでしょうか?それはアダムでもなくヱパでもありません。神様を中心として一つになるのです。花は咲くとき、花自体の力によって咲くのではありません。「根」 を通して咲くのです。それと同様に人間は,愛の根H である神様を通して、完全な相対理想を確立し、愛を完成していくのです。もしもアダムとエパがそのようになっていたならば、何もかも公認され、天国生活は瞬く聞に始まっていたのです。

人間は与えられた責任を完遂すれば、神様のような完全な立場になります。神様が九五パーセントの責任を果たし人聞が五パーセントの責任を果たせば、100パーセント天地創造が完成して、人間にも「創造主」 という資格が賦与されるようになります。それは人間の完成を意味すると同時に、神様の創造の完成を意昧します。天地創造の偉業の完成、神様の理想の完成となるのです。






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