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統一原理を愛して

私は文鮮明先生、統一原理に出会って神様を感じることができました。このブログをきっかけに統一原理を通して、日々の生活で皆さんが神様を感じていけたら幸いです!!

創造本然の価値について。統一思想要綱の第7章:芸術論を通して、創造本然の価値について書いていきたいと思います。

美。よく反応しなければ、美にならない。相手が私を愛そうとしても、私がそのことに対して反応しなければ、愛は成立しない。逆に言えば、相手が私を愛そうとした時、私自身がよく反応すれば、美を返せる。

愛することが大切とよく言いますが、しかし、相手の愛そうとする行為など、相手の行動によく反応すれば、相手を多いに喜ばせることができる。すなわち、私がよく反応すれば、相手が愛そうとする行為が成立するわけですから。私が反応しなければ、愛も美も成立しません。



統一思想要綱 P421

  四、創作要件 (一)主体の要件   対象意識  から抜粋。

「 創作とは、芸術家が対象の立場に立って美の価値を表すことによって、主体である神や全体(人類、国家、民族)を喜ばせる活動であるから、作者はまず対象意識を確立しなければならない。そのとき、最高の主体である神を喜ばせ、神の栄光を表す姿勢が対象意識の極致となる。その内容を見てみよう。」




神様に対して対象意識。神様に対象意識を持って、神様のため、人類のために歩むこと。その歩みは、神様との共同作業、共に歩むことに。最高の主体である神を喜ばせ、神の栄光を表す姿勢が対象意識の極致。


神の対象意識に立って、芸術を人のために歩んだ芸術家であるべートーヴェンが残した言葉が統一思想要綱に書いてあります。短いですが、抜粋します。

P805

(10) ベートーヴェンは「神性へ近づいて、その輝きを人類の上に拡げる仕事以上に美しいことは何もない」(R. Rolland, Vie de Beethoven, 1927. ロマン・ロラン、片山敏彦訳『べートーヴェンの生涯』岩波書店=岩波文庫、一九六五年、一三六頁)と語っている。またロマン・ロランはベートーヴェン記念祭の講演で次のように語った。「自分の芸術を他人のために役立てようという考えは彼[ベートーヴェン]の手紙の中で絶えず繰り返されている。……彼は自分生活にただ二つの目的を決定している。それは聖なる芸術への(an die goャttliche Kunst )献身と、他人を幸福にするための行いとである」(同上、一五九―一六〇頁)。


芸術家はすごいですよね。感動です!!



ベートーヴェン - 交響曲第6番「田園」~第1楽章
https://www.youtube.com/watch?v=N6TXIKKy9LE


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創造本然の価値について。統一思想要綱の第7章:芸術論を通して、創造本然の価値について書いていきたいと思います。

昨日に引き続き。

美。よく反応しなければ、美にならない。相手が私を愛そうとしても、私がそのことに対して反応しなければ、愛は成立しない。逆に言えば、相手が私を愛そうとした時、私自身がよく反応すれば、美を返せる。

愛することが大切とよく言いますが、しかし、相手の愛そうとする行為など、相手の行動によく反応すれば、相手を多いに喜ばせることができる。すなわち、私がよく反応すれば、相手が愛そうとする行為が成立するわけですから。私が反応しなければ、愛も美も成立しません。





統一思想要綱 P421~422

  四、創作要件 (一)主体の要件   対象意識  から抜粋。


今日の抜粋部分は長いです。読むことが大変な人は赤い部分だけでも読んでください。原文はすべて黒文字で書いてあります。

 

「 創作とは、芸術家が対象の立場に立って美の価値を表すことによって、主体である神や全体(人類、国家、民族)を喜ばせる活動であるから、作者はまず対象意識を確立しなければならない。そのとき、最高の主体である神を喜ばせ、神の栄光を表す姿勢が対象意識の極致となる。その内容を見てみよう。

 第一に、人類歴史を通じて悲しんでこられた神の心情を慰める姿勢をもたなくてはならない。神は喜びを得るために人間と宇宙を創造され、人間に創造性までも与えられた。したがって人間の本来の目的は何よりも神を喜ばせようとすることであり、創造活動も、まず神を喜ばせるために行われるべきであった。ところが人間は神から離れ、神を喜ばせようという意識をなくしてしまった。それが今日まで、神の悲しみとして残されてきたのである。それゆえ芸術家は、まず何よりも、神の歴史的な悲しみを慰める立場に立たなくてはならない。

 第二に、芸術家は神とともに復帰の道を歩まれた、イエスをはじめとする多くの聖人や義人たちを慰める姿勢をもたなくてはならない。彼らを慰めることは、彼らと苦しみと悲しみを共にされた神を慰めることになるのである。

 第三に、芸術家は過去と現在の善なる人々、義なる人々の行為を表現しようという姿勢をもたなくてはならない。すなわち芸術家は、罪悪世界の人々によって迫害され、今も迫害され続けている人々の行いを作品に描くことによって、神の摂理に協助しようという姿勢をもたなくてはならない。

 第四に、芸術家は来たるべき理想世界の到来を人々に知らせなくてはならない。したがって芸術家は未来に対する希望と確信をもって作品を作らなくてはならない。そういう行為を通じて神の栄光が表現されるのである。

 第五に、芸術家は自然の美と神秘を描くことによって、創造主たる神を讃美する姿勢をもたなくてはならない。神は人間の喜びのために自然を造られたのであるが、人間は堕落によって自然の美を通じて喜びを得ることが少なくなってしまった。だから芸術家は神の属性の表れである自然に対して畏敬の念を抱きながら、自然の深くて玄妙なる美を発見して、神の創造の神秘を讃美し、人々を喜ばせなくてはならない。

 芸術家がこのような対象意識をもち、創作に全力を投入するとき、神からの恩恵と霊界からの協助を受けることができる。そしてそこに真なる芸術作品が生まれるのである。そのとき、その作品は芸術家と神との共同作品ともいうことができる。

 実際、ルネサンス時代の芸術家たちの中には、そのような対象意識をもって創作活動を行った者が少なくはなかった。例えばレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci, 1452-1519)、ラファエロ(Raffaello, 1483-1520 )、ミケランジェロ(Michelangelo, 1475-1564)などがそうであった。古典主義音楽の完成者ベートーヴェン(Beethoven, 1770-1827)もそのような対象意識をもって作曲を行った(10)。それゆえ彼らの作品は不朽の名作となったのである。」



神様に対して対象意識。神様に対象意識を持って、神様のため、人類のために歩むこと。その歩みは、神様との共同作業、共に歩むことに。最高の主体である神を喜ばせ、神の栄光を表す姿勢が対象意識の極致。


神の対象意識に立って、芸術を人のために歩んだ芸術家であるべートーヴェンが残した言葉が統一思想要綱に書いてあります。短いですが、明日、載せます。

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創造本然の価値について。統一思想要綱の第7章:芸術論を通して、創造本然の価値について書いていきたいと思います。


統一思想要綱 P421~422

  二、芸術と美    美とは何か  から抜粋。


抜粋部分で赤文字の部分がありますが、これは、分かりやすくするために赤くしました。原文はすべて黒文字で書いてあります。


 「 『原理講論』によれば、愛とは「主体が対象に授ける情的な力」(七二頁)であり、美とは「対象が主体に与える情的な力」(七二頁)である。対象が鉱物や植物の場合、対象からくるのは物質的な力であるが、主体(人間)はそれを情的な刺激として受け止めることができる。ところがたとえ対象が主体に刺激(力)を与えたとしても、主体がそれを情的に受け止めない場合がある。その場合、そのような刺激は情的な刺激とはなりえない。問題は、主体が対象からくる要素を情的なものとして受け取るかどうかという点にある。対象からくる要素を主体が情的に受け取れば、その刺激は情的な刺激となるのである。したがって美とは「対象が主体に与える情的な力であると同時に情的な刺激」であるということができる。美は真や善とともに価値の一つである。したがって、別の表現でいえば、美とは「情的刺激として感じられるところの対象価値」である。

 先に主体が対象に与える情的な力を愛とし、対象が主体に与える情的な刺激を美としたが、実際には、人間同士では、主体と対象が共に愛と美を与え合い、受け合うのである。すなわち対象も主体を愛するのであり、また主体も対象に美を与えるのである。なぜかといえば「主体と対象とが合性一体化すれば、美にも愛が、愛にも美が内包される」(『原理講論』七二頁)からである。主体から対象に、あるいは対象から主体に、情的な力が送られるとき、送る側ではそれを愛として送り、受ける側では情的な刺激すなわち美として受け止めるのである。・・・・・・・・・」




美。よく反応しなければ、美にならない。相手が私を愛そうとしても、私がそのことに対して反応しなければ、愛は成立しない。逆に言えば、相手が私を愛そうとした時、私自身がよく反応すれば、美を返せる。

愛することが大切とよく言いますが、しかし、相手の愛そうとする行為など、相手の行動によく反応すれば、相手を多いに喜ばせることができる。すなわち、私がよく反応すれば、相手が愛そうとする行為が成立するわけですから。私が反応しなければ、愛も美も成立しません。


相手の言動に良く反応しましょう!!美ですね、美!!


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創造本然の価値について。統一思想要綱の第7章:芸術論を通して、創造本然の価値について書いていきたいと思います。

今日の抜粋場所は、6月4日の記事で取り上げた、喜び関する説明を補足説明しています。元々は、創造目的でも喜びについては取り上げました。喜びはどのようなときに感じるか?

原理講論 創造目的 P65

「無形のものであろうと、実体であろうと、自己の性相と形状のとおりに展開された対象があって、それからくる刺激によって自体の性相と形状とを相対的に感ずるとき、ここに初めて喜びが生ずるのである。」


この補足説明として、統一思想要綱 P420 

  二、芸術と美   相補性   から抜粋。

「 さらに喜びの内容である相似性には、相補性という一面もある。つまり、主体は対象の中に自分に不足している特性を見て喜ぶのである。例えば、男性は女性の中に、自分に不足しているやわらかさや美しさを見て喜ぶのである。

 それは第一に、人間は単独では全一者にはなりえず、神の陽性を属性としてもつ男性と、神の陰性を属性としてもつ女性として分立され、両者が合性一体化することによって、神の二性性相の中和の姿に完全に似るように造られたからである。

 ところで、この相補性を一種の相似性として見るのは、人間は誰でも、心の潜在意識の中に自己に不足している部分が満たされることを願う映像をもっているので、現実的にその映像どおりの対象に対するとき、不足した部分が実際に満たされ(相補性)、喜びを感じるようになるからである。そのとき、その対象は鑑賞者の心の中にあった映像と同じであるために、その点において相補性は相似性の性格をもつようになるのである。

 そして第二に、神は人間が神の一つ一つの個別相を分けもって、自己に不足した面を互いに他人を通じて発見し、互いに授受することによって喜ぶように創造されたからである。美のこうした側面も相補性といい、広義の意味で相似性に含まれる概念である。それは本来、人間が神において一つであったものが二つ(陽と陰)あるいは多数の個別性に分立、展開されたものであって、彼らが合一してより完全なものとなるからである。

 机と椅子のように、互いに相補って、二つのものが一つの完全なものになる場合も多い。より完全なものになるということは、それだけ創造目的がより多く実現することを意味し、そこに満足と喜びが生じるのである。ただし、そのような相補性が成立するためには、その根底により深い次元における相似性がなくてはならない。共通目的や相似性のような共通性のない、単純な差異からは、美や喜びは生じえないのである(5)。」


本然の世界では、自分にないものを感じて喜びを感じる。み言を信じて実践だ~!!!

明日に続く!!

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創造本然の価値について。統一思想要綱の第7章:芸術論を通して、創造本然の価値について書いていきたいと思います。

今日の抜粋場所は、6月4日の記事で取り上げた、喜び関する説明を補足説明しています。元々は、創造目的でも喜びについては取り上げました。喜びはどのようなときに感じるか?

原理講論 創造目的 P65

「無形のものであろうと、実体であろうと、自己の性相と形状のとおりに展開された対象があって、それからくる刺激によって自体の性相と形状とを相対的に感ずるとき、ここに初めて喜びが生ずるのである。」


この補足説明として、統一思想要綱 P420 

  二、芸術と美   相補性   から抜粋。

「 さらに喜びの内容である相似性には、相補性という一面もある。つまり、主体は対象の中に自分に不足している特性を見て喜ぶのである。例えば、男性は女性の中に、自分に不足しているやわらかさや美しさを見て喜ぶのである。

 それは第一に、人間は単独では全一者にはなりえず、神の陽性を属性としてもつ男性と、神の陰性を属性としてもつ女性として分立され、両者が合性一体化することによって、神の二性性相の中和の姿に完全に似るように造られたからである。

 ところで、この相補性を一種の相似性として見るのは、人間は誰でも、心の潜在意識の中に自己に不足している部分が満たされることを願う映像をもっているので、現実的にその映像どおりの対象に対するとき、不足した部分が実際に満たされ(相補性)、喜びを感じるようになるからである。そのとき、その対象は鑑賞者の心の中にあった映像と同じであるために、その点において相補性は相似性の性格をもつようになるのである。

 そして第二に、神は人間が神の一つ一つの個別相を分けもって、自己に不足した面を互いに他人を通じて発見し、互いに授受することによって喜ぶように創造されたからである。美のこうした側面も相補性といい、広義の意味で相似性に含まれる概念である。それは本来、人間が神において一つであったものが二つ(陽と陰)あるいは多数の個別性に分立、展開されたものであって、彼らが合一してより完全なものとなるからである。

 机と椅子のように、互いに相補って、二つのものが一つの完全なものになる場合も多い。より完全なものになるということは、それだけ創造目的がより多く実現することを意味し、そこに満足と喜びが生じるのである。ただし、そのような相補性が成立するためには、その根底により深い次元における相似性がなくてはならない。共通目的や相似性のような共通性のない、単純な差異からは、美や喜びは生じえないのである(5)。」


本然の世界では、自分にないものを感じて喜びを感じる。み言を信じて実践だ~!!!

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