統一原理を愛して -14ページ目

統一原理を愛して

私は文鮮明先生、統一原理に出会って神様を感じることができました。このブログをきっかけに統一原理を通して、日々の生活で皆さんが神様を感じていけたら幸いです!!


第四章:メシヤの降臨とその再臨の目的 についてとことん書いていきます。今日も引き続き、イエス様、神様の心情について。


昨日と同じく、ヨハネによる福音書11章 2~6節、を抜粋。(この箇所を原理講論で適切に説明し、イエス様の心情が伝わってきます。洗礼ヨハネはイエス様を不信し、摂理と関係ない王の結婚問題に口を出し、牢屋に入ってしまいました。)


「:2)さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、 :3)イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。 :4)イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。 :5)盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。 :6)わたしにつまずかない者は、さいわいである」。 」



洗礼ヨハネに神様は誰よりも先にイエスは誰であるかを教えていた。このように天から恩賜(おんし)を受けている洗礼ヨハネからまさかの質問。メシヤなのですか???神様もイエス様もまさかの質問だったでしょう。この言葉で神様もイエス様もどれほど心を傷めたでしょうか。証しすべき人が摂理と関係ない王の結婚問題に口を出し、牢屋の中からメシヤですかと?イエス様はその質問に答えず、婉曲な返事をしました。それは、洗礼ヨハネが行なってきたことを思い起こさせて、自分が誰であるかを悟らせようとしました。


では、昨日抜粋した「第二節エリヤの再臨と洗礼ヨハネ  (三)洗礼ヨハネの不信」の続きを抜粋します。原文とは異なりますが、便宜上、一部赤くします。


貧しい人々が福音を聞かされている(マタイ一一・5)と言われたみ言には、洗礼ヨハネとユダヤ人たちの不信に対するイエスの悲愴な心情が潜んでいることを知らなければならない。選民として呼ばれたユダヤ民族、その中でも、特に洗礼ヨハネは、天の愛をあふれるほど受けた恵まれた者であった。しかし、彼らはみなイエスに逆らったので、イエスは仕方なく、ガリラヤの海辺からサマリヤの地を遍歴しながら、貧しい者のうちで福音を受ける者を求められたのであった。無学不識な漁夫と取税人と遊女たちは、みなこのような貧しい者たちであった。事実、イエスが探し求めようとした弟子たちは、そのような者たちではなかったのである。地上天国を建設するために来られたイエスであるから、彼には、ただ従ってくるだけの千人よりも、先に立って千人を指導できる一人の指導者の方がより必要だったのである。ゆえに、イエスは天があらかじめ備えた能力ある群れを探すために、一番先に神殿に入り、祭司長と律法学者たちに福音を伝えたのではなかったか。
しかし、イエスが親しく言われたように、あらかじめ備えられた宴席に招待を受けた客たちは一人も応じなかったので、やむを得ず町の通りに出て、彷徨する乞食どもを呼び集めなければならなかったのである。このように、招かれざる客をしか迎えに出られぬイエスの悲しい心情から、ついに、「わたしにつまずかない者は、さいわいである」(マタイ一一・6)という審判のみ言が吐かれたのである。洗礼ヨハネは当時のユダヤ人たちが、あるいはメシヤ、あるいはkエリヤ、あるいは預言者であると考えるくらいに立派な人であった(ルカ三・15、ヨハネ一・20、21)。ところが、いくら立派な人であっても、自分(イエス)につまずいた者には何の幸いがあるだろうか、という間接的な表現を通して、洗礼ヨハネの運命を審判されたのである。・・・・・・」





ノーコメント・・・・・・・・

今日は抜粋だけにします。


最後に、昨日も書きましたが、 2011-07-02 の記事「統一原理って???」で、総序に新しい真理(統一原理)に神様の悲しい心情が書いてあると言いました。求め、何度も読む中で神様の心情が深まると思います。皆さん、頑張って原理講論を読みましょう(^O^)/


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第四章:メシヤの降臨とその再臨の目的 についてとことん書いていきます。今日も引き続き、イエス様、神様の心情について。


ヨハネによる福音書11章 2~6節、から抜粋。この箇所を原理講論で適切に説明し、イエス様の心情が伝わってきます。洗礼ヨハネはイエス様を不信し、摂理と関係ない王の結婚問題に口を出し、牢屋に入ってしまいました。では、抜粋します。


「:2)さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、 :3)イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。 :4)イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。 :5)盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。 :6)わたしにつまずかない者は、さいわいである」。 」




P200、201 第二節エリヤの再臨と洗礼ヨハネ  (三)洗礼ヨハネの不信  から抜粋。

「洗礼ヨハネは、その中心が天の方にあったときには、イエスをメシヤと知って証した。けれども、彼から霊的な摂理が切れて、人間洗礼ヨハネに立ち戻るや、彼の無知は、一層イエスに対する不信を引き起こすようになったのである。自分がエリヤである事実を自覚できなかった洗礼ヨハネは、特に、獄中に入ってから、他のユダヤ人たちと同じ立場で、イエスを見るようになった。したがって、イエスのすべての言行は人間洗礼ヨハネの目には、一様に理解できないものとして映るばかりであった。そればかりでなく、彼もやはり、エリヤが来る前に現れたイエスをメシヤとして信ずることができなかったので、結局、自分の弟子たちをイエスの方に送って、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」(マタイ一一・3)と質問して、その疑いを解決してみようとしたのである。しかし、このような洗礼ヨハネの質問を受けたイエスは、マタイ福音書一一章3節から19節に記録されているように、悲憤やるかたない思いで、警告の意味を強く込めた内容で答えられた。洗礼ヨハネはイエスに仕えるために胎内から選ばれ(ルカ一・75)、彼の道をまっすぐにするために、荒野で苦難の修道生活をしたのであった。さらにまたイエスが公生涯路程を出発されるときに、天はだれよりも先に、イエスがだれであるかを彼に教え、また、それを証言させてくださった。このような天の恩賜をそのまま受け入れなかった洗礼ヨハネから、そのような質問を受けたので、イエスは改めて、自分がまさしくメシヤであるとは答えられなかったのである。彼は、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている」(マタイ一一・4、5)と、婉曲な返事をなさった。もちろん、洗礼ヨハネがイエスのこのような奇跡を知らないはずがなかった。それにもかかわらず、イエスがこのように言われたのは、自身が行われたことを、洗礼ヨハネに再び想起させることによって、自分がだれであるかを知らせるためであった。」




洗礼ヨハネに神様は誰よりも先にイエスは誰であるかを教えていた。このように天から恩賜(おんし)を受けている洗礼ヨハネからまさかの質問。メシヤなのですか???神様もイエス様もまさかの質問だったでしょう。証しすべき人が摂理と関係ない王の結婚問題に口を出し、牢屋の中からメシヤですかと?イエス様はその質問に答えず、婉曲な返事をしました。それは、洗礼ヨハネが行なってきたことを思い起こさせて、自分が誰であるかを知らせようとしました。

これを踏まえて、明日も今日抜粋した原理講論の続きを書いていきます。


最後に、昨日も書きましたが、 2011-07-02 の記事統一原理って???で、総序に新しい真理(統一原理)に神様の悲しい心情が書いてあると言いました。求め、何度も読む中で神様の心情が深まると思います。皆さん、頑張って原理講論を読みましょう(^O^)/


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第四章:メシヤの降臨とその再臨の目的 についてとことん書いていきます。今日は、イエス様、神様の心情について。

P199 第二節エリヤの再臨と洗礼ヨハネ  (三)洗礼ヨハネの不信  から抜粋。


「・・・・・・・・・このように、神は、イエスがメシヤであるということを、洗礼ヨハネに直接教示された。洗礼ヨハネ自身も、またそのように証した。また、ヨハネ福音書一章23節を見れば、自分は彼の道をまっすぐにするための使命をもってきたと証した。それだけではなく、ヨハネ福音書三章28節には、自分はキリストに先立って遣わされた者であることを言明した記録がある。それだから、洗礼ヨハネは、当然自分がエリヤであるという事実を、自らの知恵で悟らなければならなかった。たとえ、洗礼ヨハネがその事実をまだ自覚できなかったとしても、既に、天からイエスがメシヤであるという証を受けて知っていた上に(ヨハネ一・33、34)、イエスが親しく自分をエリヤであると証言なさったのであるから、そのみ言に従い、私こそ、まさしくエリヤであると、遅ればせながらでも宣布するのが、当然の道理であった。しかし、彼は神のみ旨に対して無知であったので(マタイ一一・19)、イエスの証言を否認したばかりでなく(ヨハネ一・21)、そののちにも、摂理の方向と道を異にして歩んだのである。このような洗礼ヨハネを見ているイエスの心情や、またこのような困難な立場におかれたイエスを見ておられる神の心情は、いかばかり悲しかったであろうか。」


この抜粋箇所の前のところで書いてありましたが、洗礼ヨハネの不信がユダヤ人のイエスへの道をふさいだ主な原因となったと。これにより、イエス様は、メシヤではなく、洗礼ヨハネの立場に立って、サタンから試練を受ける立場におりてしまいました。そして、神様が準備されていた立法学者など、ユダヤ民族ではなく、聖書も読んだこともない人たちを伝道していった。

これでは、神様の願う世界へ復帰していくことは非常に困難になってしまいます。だからこそ、不信した洗礼ヨハネを見ているイエスの心情や、またこのような困難な立場におかれたイエスを見ておられる神の心情は、いかばかり悲しかったであろうか。私は、何度も原理講論を読むことを通して、イエス様、神様の心情に触れることができました。原理講論を読むだけでしたが、私にとっての神体験でありました。

この内容を聞いただけでは、皆さんの中には、頭では分かっても心情までは感じることができないという人も多いかもしれません。私がこの箇所で神様の心情に触れることが出来たきっかけは、原理講論と聖書を照らし合わせて読んだことです。この前編第四章は、時間をかけて聖書と照らし合わせて読むことをお勧めします。そのような土台の上で原理講論を読んでいく中で、悟ることがあると思います。頭での理解でなく、心で分かる瞬間があります。

今日は、愛知人はこの箇所で神様を感じることができたと心の片隅に留めといていただければ。いつか読み返していく中で神様の心情が分かるときがあると思います。私自身も、今日とは違う箇所でしたが、この箇所に神様の心情が書いてある講義で言われても、その時はピンときませんでしたが、後で何ども読み返していく中で感じることができたときがありました。それこそ、教わって、1,2年は経ってましたけど。

統一原理って???( 2011-07-02 の記事)で書きましたが、総序に新しい真理(統一原理)に神様の悲しい心情が書いてあると。皆さん、頑張って原理講論を読みましょう(^O^)/


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(六)十字架の死が必然的なもののように記録されている聖句  

この原理講論の箇所は、最初はイエスの十字架の死は必然ではないと説明しています。その後を抜粋します。

「 我々が正しい信仰をもつためには、第一に祈祷により、神霊によって、神と直接霊交すべきであり、その次には、聖書を正しく読むことによって、真理を悟らなければならない。イエスが神霊と真理で礼拝せよ(ヨハネ四・24)と言われた理由はここにある。」

イエス様は正しい信仰を持つためには、第一に祈祷、第二に聖書を正しく読むことをあげています。私たちも正しい信仰を持つためには、第一に祈祷、第二に統一原理を正しく読むと言ったところでしょうか。正しく読むのに私、愛知人のブログをご利用ください。



続きを抜粋。今回も便宜上、原文と異なりますが、一部赤くしました。

「イエス以後今日に至るまで、あらゆる信徒たちは、イエスは十字架の死の道を行かれるために、この世に降臨されたとばかり考えていた。しかし、これは、イエスがメシヤとして来られた根本目的を知らず、霊的救いがイエスの帯びてこられた使命の全部であるかのように誤解していたからである。生きてみ旨を完成するために降臨されたのにもかかわらず、ユダヤ人の不信によって、願わざる十字架の道を行かれたイエスの悲痛な心情を晴らし、彼のみ旨に協力する新婦が、もし地上に現れなければ、イエスはいったいだれと共にそのみ旨を完成しようとして再臨されるであろうか。「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ一八・8)と言われたイエスのみ言は、まさしくこのような人間の無知を予想されて慨嘆されたみ言であった。ここで我々は、聖書を中心として、イエスはあくまでも死ぬために降臨されたのではなかったという事実を明らかにしたが、霊交によって、イエスに直接聞いてみれば、一層明白にこの事実を知ることができる。もしも、自分が霊通できないならば、他人の証を通じてでも、正しい信仰をもって初めて、終末において、メシヤを迎えることができる新婦の資格を備えることができるのである。



赤い部分にさらりとイエスの嘆きが書いてありましたが、その次の赤い箇所で、イエスが十字架にかかりに来たのではないことを、霊交すればイエスが直接教えてくれると。祈ればわかるのでしょうか???たとえ祈って分からずとも、他人の証しを聞くのも良い。周りの兄弟姉妹の証しを謙虚に聞くことは大切かもしれません。

しかし、祈ればわかると!!!驚きです!!!

愛知人、み言を信じて実践!!!



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今までいろいろ書いてきましたが、そもそも統一原理には何が書いてあるのでしょうか???


原理講論P31 総序  から抜粋。便宜上、原文と異なりますが、分かりやすくするために、一部、赤くしました。

「それでは、その新しい真理は、いかなる使命を果たさなければならないのであろうか。・・・・・・・

堕落人間にとって、「知ること」は命の光であり、また蘇生のための力でもある。そして、無知は死の影であり、また破滅の要素ともなるのである。無知からはいかなる情緒をも生じ得ない。また、無知と無情緒からはいかなる意志も生ずることはできないのである。人間において、知情意がその役割を果たすことができなくなれば、そこから人間らしい、人間の生活が開かれるはずはない。人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか。しかし、神の実在性に対しては、聖書をいかに詳しく読んでみても、明確に知る由がない。ましてや神の心情についてはなおさらである。それゆえ、この新しい真理は、神の実在性に関することはいうまでもなく、神の創造の心情をはじめとして、神が御自身に対して反逆する堕落人間を見捨てることができず、悠久なる歴史の期間を通して彼らを救おうとして心を尽くしてこられた悲しい心情をも、我々に教えることのできるものでなければならない。」


この新しい真理とは何か???



統一原理ですよね。

では、統一原理には何が書いてあるか???

抜粋した赤い部分のところに書いてあります。

①神の実在性

②神の創造の心情

③神が御自身に対して反逆する堕落人間を見捨てることができず、悠久なる歴史の期間を通して彼らを救おうとして心を尽くしてこられた悲しい心情


統一原理を理解すれば、神様の創造の心情や、悲しみの心情がわかるのです。つまり、統一原理を通して神様の心情が分かり、神体験出来るのです。

私、愛知人は、皆さんがこのブログを通して、統一原理を深く理解し、神様を感じていけるように書いてきたつもりです。これからも、私自身が日々精進して、神様を証していきたいと思います。


これからもよろしくお願いします(^O^)/



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