第四章:メシヤの降臨とその再臨の目的 についてとことん書いていきます。今日も引き続き、イエス様、神様の心情について。
昨日と同じく、ヨハネによる福音書11章 2~6節、を抜粋。(この箇所を原理講論で適切に説明し、イエス様の心情が伝わってきます。洗礼ヨハネはイエス様を不信し、摂理と関係ない王の結婚問題に口を出し、牢屋に入ってしまいました。)
「:2)さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、 :3)イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。 :4)イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。 :5)盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。 :6)わたしにつまずかない者は、さいわいである」。 」
洗礼ヨハネに神様は誰よりも先にイエスは誰であるかを教えていた。このように天から恩賜(おんし)を受けている洗礼ヨハネからまさかの質問。メシヤなのですか???神様もイエス様もまさかの質問だったでしょう。この言葉で神様もイエス様もどれほど心を傷めたでしょうか。証しすべき人が摂理と関係ない王の結婚問題に口を出し、牢屋の中からメシヤですかと?イエス様はその質問に答えず、婉曲な返事をしました。それは、洗礼ヨハネが行なってきたことを思い起こさせて、自分が誰であるかを悟らせようとしました。
では、昨日抜粋した「第二節エリヤの再臨と洗礼ヨハネ (三)洗礼ヨハネの不信」の続きを抜粋します。原文とは異なりますが、便宜上、一部赤くします。
「貧しい人々が福音を聞かされている(マタイ一一・5)と言われたみ言には、洗礼ヨハネとユダヤ人たちの不信に対するイエスの悲愴な心情が潜んでいることを知らなければならない。選民として呼ばれたユダヤ民族、その中でも、特に洗礼ヨハネは、天の愛をあふれるほど受けた恵まれた者であった。しかし、彼らはみなイエスに逆らったので、イエスは仕方なく、ガリラヤの海辺からサマリヤの地を遍歴しながら、貧しい者のうちで福音を受ける者を求められたのであった。無学不識な漁夫と取税人と遊女たちは、みなこのような貧しい者たちであった。事実、イエスが探し求めようとした弟子たちは、そのような者たちではなかったのである。地上天国を建設するために来られたイエスであるから、彼には、ただ従ってくるだけの千人よりも、先に立って千人を指導できる一人の指導者の方がより必要だったのである。ゆえに、イエスは天があらかじめ備えた能力ある群れを探すために、一番先に神殿に入り、祭司長と律法学者たちに福音を伝えたのではなかったか。
しかし、イエスが親しく言われたように、あらかじめ備えられた宴席に招待を受けた客たちは一人も応じなかったので、やむを得ず町の通りに出て、彷徨する乞食どもを呼び集めなければならなかったのである。このように、招かれざる客をしか迎えに出られぬイエスの悲しい心情から、ついに、「わたしにつまずかない者は、さいわいである」(マタイ一一・6)という審判のみ言が吐かれたのである。洗礼ヨハネは当時のユダヤ人たちが、あるいはメシヤ、あるいはkエリヤ、あるいは預言者であると考えるくらいに立派な人であった(ルカ三・15、ヨハネ一・20、21)。ところが、いくら立派な人であっても、自分(イエス)につまずいた者には何の幸いがあるだろうか、という間接的な表現を通して、洗礼ヨハネの運命を審判されたのである。・・・・・・」
ノーコメント・・・・・・・・
今日は抜粋だけにします。
最後に、昨日も書きましたが、 2011-07-02 の記事「統一原理って???」で、総序に新しい真理(統一原理)に神様の悲しい心情が書いてあると言いました。求め、何度も読む中で神様の心情が深まると思います。皆さん、頑張って原理講論を読みましょう(^O^)/
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