思いがけず続編になってる この話。
ここまでは、
たっ君の個性にクローズアップしたが、
ここからは、若さゆえの思考について。
少し大きな物事を決める時、
何とか自分で決めて欲しいと頑張ったが、
「うんそれでいい
」
で全てが終わるたっ君。
そうやって、結局
進学する高校までも決まっていった
高校についても、いくつかの選択肢を考えた。
当時のたっ君が
これまでの遅れを取り戻すために
バリバリと受験勉強を始める風でもなく、
そこまでして、行きたい!と思える学校もなく、
ましてや、もし落ちた時、たっ君の自尊心がまたしても
だだ下がりする可能性も考えた。
そして、たっ君の高校生活で一番優先すべきは
信頼できる友達と出会う事。
たくさんの友達や仲間ができる事。
大人になっても付き合えるような長い友人ができる事。
そして、「ざ・青春」的な思い出をいっぱい作ること。
これだと思った。
長く不登校があり、
人間不信も経験したたっ君が諦めずに望んでいた
「友達」。
ここ無くして、あり得ない。
そうやって、最終的に決めた学校。
そんなに?と言いたくなるほど
学校大好きたっ君になって、
とてもエンジョイしていた。
そうして、高校2年も終わろうとする頃には
仲間に囲まれた生活も当たり前になり
部活のキャプテンになって信頼されたり
彼女もできたりして
たっ君の自尊心は一気に駆け上っていく。
そして、自分の可能性を感じると
「もっとやれたはずなのに。」
という思いも湧き出る。
そうなると、
もっとこう出来ないのか、
今からでも、こっちに行けないか
などの思いも出てくる。
それが現実的に難しいとなると、
次に考えるのは
「あの時、もっとこうしたら良かったんじゃないか…」
のような後悔。
これはねー
私も若い時、経験あります。
みなさんの中にも、大なり小なりあるんじゃないかと思います。
特に悪い事が起こったとかじゃなくても、
「もっとこうだったら、もっと違う人生が送れたんじゃないか」
的な事?
そして、若く、幼く、浅はかだった私は
「でも、あの時の私は、そこまでの事が分かっていなかった。
もっと、親が全力で言ってくれていたら、もう少し考えられたのに…」とか、
「小さい頃から、こんな風に言われて育ったから、
自尊心が欠けてる部分があって、それが影響したんだ」
など、問題の原因を他に押し付ける方向に思考が向かっていった。
だけど、その時、同時に「ハッ」としたんです。
「ああ、たとえそうだったとしても、
もう、それが自分なのだ。」と。
例え、外からの影響で「性格がこうなった」的な事があったとしても、でも、もう、それが「私」なんだ。
だから、もうこれは、私の問題なのだ。
私自身で、「私に向き合っていく」しかないのだ。
たっ君とは真逆で
誰が何と言おうと我が道を突き進んできた私は
自分の視野の狭さ、思い込みを痛感してきた。
だから、親はあの時こう言ったのか…全然分かってなかた…
と思う事はいっぱいあった。
そして、もっと強く言ってくれれば…とか
もっと詳しく教えてくれれば…とか
思ってしまったけど、
聞く耳持たない態度をとってきたのも自分で、
誰かの意見を聞こうと聞くまいと
最終的に決めたのも動いたのも自分なのだ。
私は、この時の
雷に打たれたように「ハッ」とした気付きの瞬間を今でも忘れていないし、時々思い出して自分を戒める。
当時のたっ君の反発は
私が言った事と真逆の事をするということで、
「あの時もっと…」という後悔や怒りを表現しているのだろう。
でも、これって素晴らしい事でもある。
たっ君が自分で決めれないのは、
見た事ない未来、経験した事ない未来、
を決める事。
例えば、旅行先を決める時、
ほとんどの場合、行った事ない場所だ。
やった事ない事を体験しに行く場合もある。
そんな事をどう思う?と言われても
「知らんし。行った事も、した事も、見た事もないし」
ってな感じで、思考が停止して、
「うん。いいよ」
になる。
そんで、実際、その場にくると、
「こんなのしたくなかった…」となったりする事も…
こっちにしてみれば、
「えーーー!!!!あんなに説明したのにーー!!」
となる。
「やってみたら、思ったほど楽しくなったねー」
なら分かるけど、やる直前で
「こんなのしたくなかった」となると、
え、なんで私が責められてる感じなってる?
ここに来て嫌だと判断できるなら、
なぜ写真を見せた時に想像できんかったん?
これって、側からみれば、
嫌だと言い続けてた息子を無理やり連れてきた
身勝手な親って感じやん?…となる。
しかし、その事を言っても
「ママが楽しいって言ったから…」的回答になる…
たっ君は私の事を超能力者バリに
なんでも分かる人だと思っていたのだ。
いや…だから…と、説明しても、永遠のループだ。
まあ、このように「まだ見ぬ未来」についての判断が
物凄く不得意で、
思考が停止するタイプのたっ君が
「あの時もっと…」に行き着いて後悔するのはいい事なのだ。
問題に向き合う一歩手前まで来たのだ。
そして、まだ見ぬ未来を決める事の重要性を身をもって知る事は
とても大切なのだ。
「あの時ママがこう言ったから…」だけじゃなく
「あの時もっとこうだったら…」に行き着いたのは大きな前進だし、
「もっと」という、「自分の可能性」を信じてみたくなったのも、
高校生活でたくさんの自信を獲得した証拠だ。
だから、あとは、
私が雷に打たれ「ハッ」と気付いた事のように
自分の苦手も含めて真正面から受け止めて
自分の問題として、考えて行く事ができるように
彼の成長を見守り、
チャンスがあれば気付けるように導いてあげなければ
と思った。
反抗や反発という形で成長が表に出る事がある。
反抗や反発を受ける側は
「はーーー??」
って事もいっぱいあると思う。
家族の場合、甘えが出る分、辛辣な態度になる事もあるだろう。
でも、感情が噴き出すほどの何かがあるならば
「お互いに向き合う」、それぞれが「自分に向き合う」
チャンスでもあるのかもしれない。
私の場合は、勝手に一人で吹き出して
勝手に雷に打たれて撃沈した。笑
たっ君は、
「決める事ができない自分に対する怒り」が
「ママの言うことを聞かなきゃ良かったんだ」に一旦変わり、
と言うことは
「ママの言った事と真逆の事をすれば正解なんだね」
と言う方向に向かった…単純かよ
たっ君の不思議な反発は
怒りを爆発させるとか、乱暴になるとかではなく
「じゃあ、逆に行くね」と言う
不可思議な形で現れ、
その後、社会に出てもしばらく続いていおり、
その間の生活も何だかいい加減な感じになってきていたが、
私は、じっとチャンスを待った。
ひたすら待った。
今のたっ君に何を言っても
雷に打たれる前の私だ。聞く耳を持たない。
ひたすら耐えてじっと獲物を待つワニの気分だった。
でも、自分の人生にいい加減になると、
いずれ自分自身が困った事になる。
そうなると、親である私の元に来るしかないのだ。
そして、少し弱った獲物に食いつくmiwaママ←最低かよ
たっ君の言い分をしっかり聞いて、
手を引いてもう一歩階段を登らせ、
そこから見える景色を見せるのだ。
自分の視野の狭さ、本当に向き合うべきは自分だった、
本当に怒っているのは、自分自身に対してだったと
気付かせるのだ。
たっ君は雷に打たれて帰って行った。
そして、一歩大人になり、
しっかりと人生を歩み出した。
誰のせいでもない、自分の人生を。
親子であっても、
様々な事を乗り越えて信頼関係を構築していく。
もちろん、今でもたっ君は「まだ見ぬ未来」については苦手だ。
でも、自分の思いを口にして説明するようになった。
自分にとって必要な方向で助言を貰うために。
子供は必ず成長します。
ある部分では時間がかかるし、
辛い思いもするかもしれない。
でも、生きている限り、最後まで
我が子を見つめ、見守り、導いて、自らも成長し、
それがまた、次の世代に受け継がれ
そうやって、この世はあるのかもしれませんね。
結局長くダラダラ書いてしまった。
最後まで読んでくださった方がいたら、すごいです
ありがとうございます
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