伝説のロックバンド、ビートルズの元ドラマー、ピート・ベストらメジャーデビュー前の"ザ・ビートルズ"の姿を知る関係者のインタビューと、当時のTVパフォーマンス映像を交えながら、知る人ぞ知る初期ザ・ビートルズの在りし日を回想するドキュ
メンタリー映画『ザ・ビートルズの軌跡 リヴァプールから
世界へ』が、7月5日より全国で順次公開される。
1970年に解散し、ジョン・レノン、ジョージ・ハリスン亡き
あとも、アルバムやAI技術を借りて新曲を発表し話題を集める
など、時代を超えて世界中で愛されるビートルズ。
数多くの名曲を生み出し熱狂的なファンを生んだ彼らも、
メジャーデビュー前はリヴァプールで演奏する小さな
コピーバンドだった。やがて初代マネージャーとなるアラン・
ウィリアムズとの出会い、ハンブルクでの演奏活動、
バンドメンバーの脱退と加入を経て、
1962年「ラヴ・ミー・ドゥ」でのメジャーデビュー以降、
20世紀を代表するグループへと駆け上っていく。
本作は初期のビートルズが出演していたリヴァプールのクラブ「ジャカランダ」のオーナーで、1960年そして61年に彼らの
ハンブルク巡業を手掛けた興行主アラン・ウィリアムズが、
当時美大生だったジョンとスチュアート・サトクリフに
女子トイレの修繕の仕事を頼んだ時の回想から始まる。
さらにメジャーデビュー直前に突然解雇されたドラマーの
ピート・ベストがビートルズを追い出された日やその過程などについて自ら詳細に語るほか、ビートルズ全作品をプロデュース
したジョージ・マーティンに乞われデビュー曲「ラヴ・ミー・
ドゥ」のレコーディングにリンゴ・スターの代わりに参加した
アンディ・ホワイト、初期から『ラバー・ソウル』までの
チーフ・エンジニアを務めたノーマン・スミスら、
初期のビートルズをよく知る男たちが登場。
ハンブルク巡業、リヴァプールの席巻、当時英国最大のレコード会社であったデッカ・レコードのオーディションの失敗、さらにメンバー交代劇など紆余曲折の末、1962年「ラヴ・ミー・
ドゥ」でメジャーデビューするまでを、当時のTV番組の
パフォーマンス映像やコンサートの模様などを交えて、彼らの
創造性やスターダムを上りつめていく過程を検証していく。
監督は、数多くの音楽ドキュメンタリーやCD制作を手がけ、『Dinosaurs Myths & Reality(恐竜の神話と現実)』
(1995年)をプロデュースしエミー賞を受賞した、
ボブ・カラザーズが務める。
特報は、当時全米で絶大な人気を誇っていた番組
『エド・サリバン・ショー』で、ビートルズが華々しく
演奏する映像からスタート。続いて、ビートルズの初代ドラマーだったピート・ベストが「なぜビートルズを辞めたんですか?」と問われ、「追放時に言われた理由は『リンゴのほうが腕が
いい』だった」と語る姿や、広報担当のトニー・バーロウが
「ジョンは言っていたよ。『ピートは素晴らしいドラマーで、
リンゴ・スターは“グレート・ビートル”だと』」と振り返る姿、初代マネージャーのアラン・ウィリアムズが「私とビートルズの間でやり取りされた最初のお金は、トイレの修繕代なんです」
と語る姿などを収めている。
追記( 2024/5/17 クランクイン )
なんのためのドラマ―交代? なんのためのリンゴ? 皆が口をそろえて、ドラマ―としてピートがリンゴより劣っていたわけではないと言う。ルックスが悪くないのも、皆の認めるところだ。
実のところ、腕も見た目も悪くないのに、ピートがデビュー
できなかったことに、そこまで確固とした理由はない。だが、
関係者の話すエピソードは、ビートルズはリンゴ・スターで
なければならなった、と思わせるに十分だ。
メンバーと一緒にいるときの様子や行動が、リンゴのほうが
ビートルズのイメージに合う。リンゴのキャラクター、リンゴが入ったことによって他の三人から引き出されたキャラクター、
俗にいうケミストリーというやつだ。
結局、ビートルズは最後までこの四人だったから、それ以外を
考えられなくなっているだけかもしれない。もし、ピートのままデビューしても、それはそれで成功していたかもしれない。
起こらなかったことの結果は、神のみぞ知る。
だが、それこそが、成功したグループに不可欠の条件では
ないか。誰一人とて替えが効かない、唯一無二のメンバーが
そろったように思わせてしまう。それは技術の優劣や美貌とは
それほど関係ない。ほかにもっと上手い人やグッドルッキングがいても、このメンバー以外ないのだ。
追記( 2024.6.29 WANI BOOKS NewsCrunch )
「ドラムセットを持っていたから」選ばれた男
誰もが知ってるビートルズ。そのメジャーデビュー直前に
バンドを解雇されたドラマー、ピート・ベストの心中は察するに余りある。映画は彼らが世界に羽ばたく寸前の“知られざる”エピソードを描く。中でもピートが率直に当時の出来事を回想する
シーンがかなりの部分を占める。例えば彼が他のメンバーに
抱いていた印象。
ポール・マッカートニー
……「広報マンみたい。『調子はどう?』みたいな」
ジョージ・ハリスン
……「一番若くておとなしい。誰よりも子供で幼かった」
ジョン・レノン
……「初対面で圧倒されたよ。ルックスもそうだけど、
ちょっとした冗談、一風変わったユーモアにね」
ビートルズ、デビュー前のエピソードとしてよく知られる
ドイツ・ハンブルクへの遠征についても詳細に語っている。演奏するクラブは、世界的に有名な“飾り窓”の歓楽街レーパーバーンにある。その巨大なネオン街に圧倒される若き“ビートル”たち。革ジャンを着て粋がっていても、まだ17~18歳の少年だった。ベルリンの壁が構築される直前だと思うと歴史を感じる。
最初は街一番のクラブで演奏するつもりだったけど、実際には「薄汚く古い」店に回された。そこを街一番にしてやろうと張り切ってライヴを。毎晩7時間もの長時間演奏を要求されたが、
客の反応、客足の動きを見極め、緩急つけたパフォーマンスで
乗り切った。
「プロになったよ。あそこで成長したんだ」
ハンブルクでのビートルズを当事者が誇らしげに語る貴重な
映像だ。実は彼の加入は、このハンブルクでのクラブ出演に
あたり「ドラマーを見つける」という条件を満たすためだったと音楽評論家が明かしている。ピートが選ばれた理由は
「ドラムセットを所有していた」。
楽器の所持が大事だったというわけだ。
ライヴの後にさっさと帰っていたことで……
こうして3回に渡るハンブルク遠征で実力を蓄えた。音楽に
どっぷり浸かりオリジナル曲の制作も進む。故郷リヴァプールに凱旋し、ライヴは超満員の大人気。他のバンドも彼らの革ジャン姿をまねた。満を持してレコード会社との契約にこぎつけ、
デビュー曲『ラヴ・ミー・ドゥ』の録音に取りかかった。
ところがここで問題が生じる。ピートのドラムにレコード会社のプロデューサーが難色を示したのだ。
解雇を告げられた日のことを、ピートがリアルに語る。
ビートルズの著名なマネージャー、ブライアン・エプスタインは、ためらった末にこう告げたという。
「メンバーは君を外すと決めて、後任も決まっているんだ」
「爆弾を落とされたようだった」とピート。だが口調は淡々と
して表情も穏やか。40年以上の時の流れを感じる。重要なのは、この時彼を“切った”のはレコード会社だけではない。バンドの
仲間にも見限られてしまっていた。それをよく表すジョンの
発言が紹介されている。その言葉が
「ベスト・ドラマーが去り、グレート・ビートルがやってきた」という映画のキャッチコピーにつながる。
ジョン、ポール、ジョージの3人はライヴ後も呑んで騒いで
愉快に過ごす。ところがピートは彼女と一緒にさっさと帰って
しまう。一方、後任のドラマーとなるリンゴ・スターは当時別のバンドだったが、3人と一緒に楽しんでいたという。つまり問題は腕前じゃなく、相性なのだ。それは努力だけではどうにもならないから余計に切ない。
ほんの少しの行き違いが変えた運命
ビートルズと言えば圧倒的なハーモニーの美しさ。
「声域に恵まれてとてもいいハーモニーを奏でた」
とピートも認める。最後にしみじみ振り返る。
「いつも満員だった。他のバンドがやらない境界線を越えるようなことをやっていたから。とても刺激的だったよ。その一端を
担えて素晴らしかった」
バックに流れる曲は『シー・ラヴズ・ユー』=彼女はお前が
好きなんだ、うれしいだろ。裏には「俺じゃなくってさ」という悔しさを感じる。意図した選曲だ。バンドは俺(ピート)じゃなくあいつ(リンゴ)を選んだ。ほんの少しの行き違いが、世界的大スターになるかどうかの運命を分けた。人生は計り知れない。
追記( 2024.7.10 文春オンライン )