ポール・マッカートニー 語録 1164 ポールが語る『Band On The Run』 | ポール・マッカートニー 語録

ポール・マッカートニー 語録

Paul McCartney In His Own Words

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「ビートルズを離れてからの僕のキャリアで

一番良いレコードを作ってやろう」

としか考えていなかった  ―― ポール・マッカートニー

ロック史に燦然と輝く金字塔『Band On The Run』。

ポール・マッカートニーのアイデアを詰め込んだ

傑作を生んだ背景をポール自身が語る。

なぜアフリカでレコーディングしたのか? メンバーが二人も

欠けた状態でなぜレコーディングを敢行したのか? 

失われたデモテープを記憶を頼りに作られたというエピソードやダスティン・ホフマンとのやりとりにはポールの天才っぷりが

垣間見えてくる。

 

―― 史上最高のアルバムの一つに数えられる『Band on the Run』が発表から50周年を迎えました。

まずは少しだけ、制作経緯に関するお話を伺いたいと思います。1973年当時、『Red Rose Speedway』が発表され、

「My Love」と「Live And Let Die (007 死ぬのは奴らだ) 」がヒットするなどウイングスの活動はとても順調でした。

それでもあなたは、敢えて変化を求め、アフリカでの

アルバム制作を行いましたよね。これはなぜですか?

ポール・マッカートニー あのころはストーンズが『Exile on Main St. (メイン・ストリートのならず者) 』を

作ったときみたいに、国を飛び出して南フランスで

レコーディングするのが流行っていたんだ。つまり、

どこかへ出向いてレコーディングをする風潮があったんだよ。

 

僕も、当時所属していたレコード会社のEMIが

各地にスタジオを所有していることを知っていた。それで、

所有しているスタジオのリストをもらえないかと頼んだんだ。

 

実際に目を通すと、そのリストはかなり面白かった。

リオも一つの候補だったし、中国も候補として考えていたよ。

そして、その中にラゴスの名前があるのを見つけた。

「ラゴスってことは、アフリカか。いいね」と思った。

アフリカの音楽やビートが大好きだったんだ。


僕はこんな風にも考えていた。

「リオに行けば、ラテンっぽさを取り入れられるかもしれない。ラゴスに行けば、アフリカらしいリズム感を取り入れられるだろう」ってね。

 

いま思えば、あのときの僕はその考えにこだわりすぎていた。

だって実際に現地に行ってみたら、ほとんど

僕の思い描いていた通りにアルバムを作るだけだったからね。

確かにいくつかの曲にはアフリカの音楽からの影響を少し

取り込めたけれど、当初考えていたほどではなかったと思う。

 

結局のところ、単に現地へ行って普段通りにウイングスのアルバムを作っただけだったんだ。でも、それはそれで仕方がないさ。リストに目を通して「アフリカ、いいね。ラゴスに行くなんて、冒険じゃないか。さあ、やってみよう!」と思ったんだから。
 

―― ラゴスへと旅立つ直前、ウイングスのメンバー構成は

思いがけず変わることとなりました。

その危機をどのように乗り切ったのですか?

ポール フライトの前夜に二人から電話があった。

ドラマーのデニー (・サイウェル) とギタリストのヘンリー 

(・マカロック) から「僕らは行かない」とだけ伝えられたんだ。どうしてなのかよく理解できなかったよ。

もしかすると、アフリカは遠すぎると思ったのかもしれないね。
 

僕はだからといって「何てこった、考え直さなきゃ」なんて

思うような人間じゃない。どこかへ向かおうとしているときは、当初の計画を曲げたくないんだ。だからそのときは、

「ビートルズを離れてからの僕のキャリアで一番良いレコードを作ってやろう」としか考えていなかった。

「デニーがギターを弾けるし、リンダも歌えるし、

デニーも歌えるし、僕も歌える。ドラムはよく叩いているし、

僕がやればいい」と思っていたんだ。
 

とはいえ正気の沙汰じゃなかったよ。

手に負えないような状況だった。

ほかの人だったら諦めていただろうね。だって現地に着いたら、スタジオは半分くらいしか完成していなかったんだ。

自分たちでなんとかするしかなかったけれど、

そこにはデニー、リンダ、僕の三人と、

ビートルズのエンジニアでもあったジェフ・エメリックがいた。
 

可笑しいことに、帰国したらEMIから手紙が届いていたんだ。

そこには「親愛なるポールへ。ナイジェリアではコレラが大流行しているから、絶対にラゴスへ行ってはいけない」と書いて

あった。僕らはたまたま感染せずに帰ってこられたんだ! 

出発前にその手紙を受け取っていたら、

僕らは行っていなかったと思う。

なんでもありのすごい時代だったよ。

 

―― スタジオが未完成だったんですか?

ポール アフリカでは素晴らしい音楽が作られている。

でもあのころ、現地の人たちは当時の僕らほどスタジオ技術に

精通していなかった。僕らはEMIが管理するきちんとした

スタジオを想像していたけれど、実際にはヴォーカル・ブース

すらなかった。

 

だけどある意味では、あのスタジオのちょっとした手作り感が

アルバムを作る上での僕らの姿勢にも影響を与えたと思う。

僕らはレコーディングの技術レベルをその環境に合わせて、

アルバムを作り上げたんだ!
 

―― つまり、アフリカに着いた時点でウイングスのメンバーは減り、スタジオの環境も思い描いていたようなものでは

なかった。その上、強盗にも遭ったんですよね?

ポール スタッフの家を訪れたあと、「家まで送ろうか?」と

聞かれたんだ。でも僕らは「夜空がこんなに綺麗だから、

歩いて帰るよ」と言った。道に出てから気づいたんだ……

忠告はされていたんだけど、僕らは命知らずだから聞く耳を

持たなかったのさ! とにかく、僕らは歩いちゃダメだと

言われていた道を歩いていた。

 

僕のバッグにはカメラや、テープ・レコーダー、

カセットが入っていて、リンダも撮影機材を持っていた。

そのとき一台の車が近づいてきて、男が窓を開けた。

僕は勝手に、車に乗せてくれようとしているんだと思った。

 

だから「いいんだ。本当にありがとう。気持ちはとても嬉しいんだけど、歩いていくよ」と言って歩き出した。すると、

その車も走り出した。地元の男たちが5、6人乗っていて、

彼らは少し困惑したような表情に見えた。

 

車はそのまま通りを進んでいったので、

僕は手を振って「親切な人たちだね」と言ったんだ。

そうしたら、その車がまた突然止まった。今度は

全員が車から降りてきたんだ。一人はナイフを持っていた。

 

僕は「なんてこった。待ってくれよ、乗せてくれるつもりじゃ

なかったんだ」と思わず口にした。謎が解けると同時に、

僕はナイフを突きつけられたってわけさ。


持ち物を全部渡してやると、彼らは車に戻っていった。

車は急発進していったよ。でも道を間違えたようで、

また戻ってきた。だから僕らは「まずい、戻ってきた。

僕らを消すつもりだ!」とパニックになった。

 

結局のところ、彼らは走り去っていって、リンダと僕は

家にたどり着いた。僕らの家には老いた警備員がいたけど、

あまり助けになるようには思えなかった。

彼の装備は、南北戦争の時代から飛び出してきたような

オンボロのライフルだけだったからね。

 

僕らは早々とベッドに入り「もう忘れよう」と言って、

実際にそうしたんだ。

翌日スタジオに入ると、スタジオの管理人にこう言われた。

「きみたちは白人だったのが幸運だったよ。黒人だったら、

顔を知られている可能性があるから殺されていたかもしれない」ってね。
 

―― 『Band on the Run』のホーム・デモが入ったカセットも盗られてしまったのですか?

ポール そうなんだ。自宅で録ったデモが入ったカセットは

全部盗られたよ。もちろん、彼らはその価値を少しも分かって

いなかっただろうし、何かの役に立つものだってことも知らな

かっただろう。きっと、上書きして別の何かを録音したか、

単に捨ててしまったか、空のカセットとして売ったかの

どれかだろうね。

 

いずれにしても、僕はアルバムの中身を一から思い出さなきゃ

ならなかった。でも、曲を覚えておくのがジョンと僕のあいだ

での決まり事だったから問題はなかった。

あのころはカセットみたいな録音機器はなかったし、

全部頭で覚えておかなきゃならなかったからね。

「自分で覚えられないなら、みんなに覚えてもらえるわけが

ない」って二人でよく話していたんだ。

 

―― そうした様々な障害に苦しみながら制作した『Band on the Run』は、あなたのキャリアを代表する名盤になりました。

軋轢や苦難がなければ優れた芸術は生まれない、と世間では

よく言いますが、このアルバムもその一例だと思いますか?

ポール うーん、そうだと思うよ。

だけど、その考え方はあまり好きじゃないんだ。

僕はできるだけ楽な方法を選びたいタイプだからね。

そういうものが実際に物事に影響するのか、

僕にはよく分からない。

 

ただ、『Band on the Run』の場合は確かにそうだったって

いうだけだ。逆の主張をすることだってできるよ。

例えば、「Live And Let Die (007 死ぬのは奴らだ) 」は

なんの苦労もなく完成した。スムーズに出来上がったのに、

大成功を収めたんだ。

 

それにビートルズの曲も、ほとんどは大きな緊張感もなく

作ったものだ。緊張状態にあったからといって、良い曲が

出来るとはあまり思わないよ。

単に、張り詰めた感じのトラックが出来上がるだけさ。

張り詰めた感じのするトラックを作りたいなら、

それも良いアイデアかもしれないけれどね。

 

―― 多くの人は、『Band on the Run』をコンセプト・

アルバムとみなしています。リスナーがそう考えるのは、

同じメロディーが繰り返し登場するからだと思いますか?

ポール うん、きっとそうだね。知っていると思うけど、

あのころはそういうやり方が流行っていたんだ。僕らが音楽活動を始めたころ、曲はどれも3つのコードで出来上がっていた。

バディ・ホリーやエルヴィスの曲はとてもシンプルだよね。

ビートルズとしてもそういう曲をよく録音していたよ。

 

でも時が経つにつれて、曲自体が少々複雑になっていった。

中には重層的なものや、組曲的なものが生まれ始めたんだ。

例えば、曲の途中で展開がガラリと変わる、というようにね。

シングル曲の最後に意外な展開を加えるとか、そういう捻りを

加えるようになったのは僕らが最初だったんじゃないかな。

 

フェード・アウトするところでどこからともなく

"She's got a ticket to ride, and, I don't care, my baby don't care (彼女は列車のチケットを取ったらしい/でも僕は気にしないし、彼女だって僕を気にかけていない) "なんてまるで別の

メロディーが出てくるのもその一例だ。そういうものが、

コンセプト・アルバムの登場に繋がっていったんだと思う。

僕らはLPというフォーマットであれこれ楽しんでいたんだ。


通常、片面7曲ずつで計14曲を収録できたわけだけど、

これは良い形式だったと思う。7曲聴いたら、

レコードを裏返すあいだ、嫌でも休憩を挟むことになるからね。だから、一息置いてからB面に入ることも出来る。

パート1、パート2に分かれているような感じさ。

 

そのうち、僕らもそれを念頭に置いてアルバムを作るように

なった。それまでより自由な発想で、「最後はこの40分の作品のフィナーレなんだから、それらしくしなきゃいけないな」なんて考えるようになったんだ。

 

そのあと、『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』では

さらにアルバム全体を一つの作品として意識するようになって、そのアイデアを突き詰めたら満足のいくものが出来た。

 

でも僕は、その可能性を追求し尽くしたとは思っていなかった。だから『Band on the Run』にもその要素を少し加えたんだ。

おかげで全体としての纏まりが出て、コンセプト・アルバムと

呼ばれるようになったんだと思う。

 

―― リンダ・マッカートニーは『Band on the Run』の

収録曲のほとんどで共作者としてクレジットされていますよね。二人で作曲に関して話し合うことはありましたか? また、

歌詞は二人でピアノの前に座って書いていたのでしょうか? 

二人でどのように曲作りをしていたのか聞かせてください。

ポール いや。どちらかというと、僕が曲を書いているとき、

リンダがそばにいることが重要だった。行き詰まったとき、

僕はいつも彼女に意見を求めていた。そうやって、

二人で曲を完成させていたんだ。

 

紙とペンを持って二人で座って、

一から曲を書いていたわけじゃない。

曲の大半は僕が書いていたけれど、

誰かに手を貸してほしいとき、

リンダがそこにいてくれたというのが実際のところだと思う。

 

「これはどう思う? あれはどう? 別の表現はないかな?」

なんて彼女に聞いていたんだ。そういう意味で、

彼女は共作者としてクレジットされるに相応しい。

聞けばアドバイスをもらえるのは楽しかったよ。

 

彼女はジョンみたいなソングライターじゃないから、

これは当然、彼とのコラボレーションとは別物だ。

とはいえ、良き相談相手がいるのは喜ばしいことだ。

二人で曲を作っていくのは楽しかったな。

 

―― タイトル・トラック「Band on the Run」での

彼女のシンセサイザー・パートは素晴らしいですよね。

ポール 「Band on the Run」でのリンダのシンセサイザー・

パートや、「Jet」での彼女のヴォーカルはそれぞれの曲に

不可欠だよね。近年のライヴではウィックス (ポール・

"ウィックス"・ウィッケンズ) がそのパートを再現しているよ。このころまでにリンダはミュージシャンとしてかなり成長して

いたけど、彼女はとても直感的に演奏するタイプだった。
 

リンダのすごいところは、初めはほとんど何も知らないも

同然だったことだ。まるで大学生のバンドみたいだった。

「ツアーをやってみたい?」「うん、やってみたい」

ってそんな感じだったんだ。

 

でも、僕らはそのことについてあまり深く考えていなかった。

友達を何人か集めて音楽を作ってみよう、というくらいの

感覚だったのさ。ビートルズを結成したときも、

そんな感じでしかなかった。ごまかしながらやっていくうちに、上達していったんだ。

 

リンダの場合、あまり鍵盤楽器を弾いたことがなかったから、

初めのうちは演奏もすごくシンプルだった。

でも彼女は僕が教えたことをすぐに吸収していった。

ヴォーカルのパートを用意すれば、彼女はそれを歌ってみせた。ちょっとは手を加えていたかもしれないけれどね。

特に、モーグ・シンセは彼女のお気に入りだった。

最近もまた流行っているよね! 

彼女はああいう一風変わったものが好きだったんだ。


僕らはいつも、リンダはパンク・ロッカーとしても大成できた

だろうって話していた。彼女はそういうエッジの効いた感覚を

持っていたんだ。実際、僕らはあのころに自分たちで

パンク・ロッカーとしての芸名を考えていた。

彼女はヴァイオリンをもじったヴァイル・リン (卑劣なリン、

の意) で、僕はナクシャス・フュームス (有毒ガス、の意) だ。それで何かをやったわけじゃないんだけどね。

 

とにかくそうやって活動を続けていくうちに、彼女は

多くを学んで、やがて本当に腕のあるプレイヤーになった。

バンドに欠かせない存在になったんだ。

『Band on the Run』のころには歌もすごく上手くなっていたし、歌声にも個性が強く出るようになった。

 

それから何年も経ってマイケル・ジャクソンと仕事をしたとき、「あのハーモニーは誰が歌っているの?」と聞かれたのを

覚えている。それで「うーんと、ほとんどは僕とリンダだね。

あとはデニーも少し歌っているよ」と返すと彼は

「そうなんだ、彼らはすごいね」と言った。

活動を通して、彼女は自信を深めていったんだ。

 

―― 『Band on the Run』というタイトルに

由来はあるのですか?

ポール もともとは曲のタイトルとして考えついたものだった。当時は"Desperados (ならず者) "とか"Renegades (反逆者) "

とか、そういう名前の曲がたくさんあったよね。

多分、何かから逃げ回っている人が多かったんだろう。

70年代前半には、何らかの理由で社会から身を引いている人が

多かったんだ。

 

世の中にそういう雰囲気があった中で、"band on the run 

(逃走する集団) "というタイトルをつけるのはクールだと思った。この表現だと音楽の"バンド"だけじゃなく、脱獄囚みたいな仲間たちの集団とも取れる。そういう考えを集約して、

『Band on the Run』というタイトルにしたんだ。

 

―― ダスティン・ホフマンから「この場で曲を書いてみて」

と言われ、その挑戦を受けて作ったのが

「Picasso's Last Words (Drink To Me) [ピカソの遺言]」

だったというのは本当ですか?

ポール 「Picasso's Last Words」は挑戦を受けて書いたものだ。ダスティン・ホフマンに「何に関する曲でも書けるの?」

と聞かれて、「分からないけど、多分ね」と答えたんだ。

 

すると彼は「ちょっと待ってて」と言って上の階に行った。

そして彼は、ピカソの死亡記事を持って下りてきて

「そこにピカソの最期の言葉が書いてあるだろう?」と言った。ピカソが友人に遺したその言葉というのが"Drink to me. 

Drink to my health. You know I can't drink anymore. 

(僕のために、僕の健康状態を想って乾杯してくれ。

僕はもう酒を飲めないんだから) "だったんだ。

 

それでダスティンは「これを曲にすることは出来るかい?」

と言った。僕はそのときちょうどギターを持っていたから、

その言葉をメロディーに乗せて歌い始めた。彼は仰天して、

確かアニーに対してだったと思うんだけど、こう言った――

いまはもう別れてしまっているけど、アニーは彼の当時の奥さんだったんだ――。「アニー、こっちへ来て、これを聴いて! 

見てくれよ! これを渡しただけで、曲にしちゃったんだぜ!」ってね。

 

―― 2022年のグラストンベリー・フェスティヴァルでは、「Band on the Run」をデイヴ・グロールと演奏しましたね。

リリースからかなりの歳月が経ちましたが、

このアルバムの功績や影響についてどのように考えていますか?

ポール 僕にとっては本当に喜ばしいことだよ。

ビートルズを辞めてバンドを組むことにしたとき、

僕は"何か別のことをしたい"という大きな目標を持っていた。

でもそれは簡単なことじゃなかった。それまでずっと

ビートルズのスタイルで腕を磨いてきたわけだからね。

だけど同じことを続けたくはなかった。

 

だから、あまりにビートルズらしいサウンドは避けて、

新しいスタイルを作り上げないといけなかった。

それが最終的にはウイングスのスタイルになったんだ。

『Band on the Run』を制作していたころには、

それを完成させられたような気がしていた。

ビートルズとはまったく違うものを確立できていたんだ。

 

確かに、似ている部分はあったと思う。どちらも僕が

やっているんだから、きっと仕方のないことだよね。それでも、ウイングスとしての独自のスタイルを確立できたんだ。

 

それから何年も経って、ローリング・ストーン誌だったと

思うんだけど、僕らは誰かのインタビューを受けた。そこで『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』の話をして

いたら、その記者が「私にとっての『Sgt. Pepper's…』は『Band on the Run』です」と言ってくれたんだ。


その世代の人たちにとっては同じくらい大切な作品なんだと思ったら、すごく嬉しくなったよ。彼らのような人たちにとって、

ビートルズと同じくらい大切な何かを作り上げる――

それこそが僕の目指していたことなんだからね。

 

それと、言ってくれたように、デイヴ・グロールは

グラストンベリーで僕と一緒に「Band on the Run」を

見事に演奏してくれた。彼の歌は素晴らしかったし、しかも

彼は僕のバンドと一緒にそれだけの演奏をやってのけたんだ。

あの曲が人気なのは僕にとっても喜ばしいことだよ。

あの曲は、当時僕らが成し遂げようとしていたことの

"最終テスト"のようなものだったんだ。

 

―― "Got Back Tour (ゴット・バック・ツアー) "では

『Band on the Run』の収録曲がたくさん取り上げられて

いますが、どれもいまの時代に合ったサウンドですよね。

若年層のファンの中には、『Band on the Run』の50周年記念エディションを聴いて、

「ポール・マッカートニーの新作は素晴らしいな」

と思わず勘違いするような人もいるのではないですか?

ポール どうだろうね。そのあたりは、あまり気にしていないよ。音楽の流行りも何周かしたんだと思うと少し不思議な感じがする。ファッションだって音楽だって何だって、流行が繰り返すものだよね。80年代にはディスコやテクノに人気が移ったけれど、いまでは原点回帰が進んでいる。みんな色々な楽器を使って、素朴なサウンドを作っているんだ。『Band on the Run』はそういう時代によく合っていると思う。だから、そうだね。

「ポールの新作か。おお、今風じゃないか!」なんて思う人も

いるかもしれない。

 

―― 『Band on the Run』の50周年記念エディションには、

初収録となるアルバム全曲分の"アンダーダブド"・ミックスも

収められていますね。

"アンダーダブド"とはどういったものなのでしょうか?

ポール これは、いままで誰も聴いたことがないような

『Band on the Run』だ。

曲を作って、追加のギターなどのパートを足すことを

"オーヴァーダブ"って言うだろう。このヴァージョンは

"アンダーダブド"、つまりその逆の状態のものなんだよ。

 

2024.3.04 DONUT