(G.W.F.ヘーゲル)
1.『精神現象学』における人間の本質としての精神活動
『精神現象学』では人間には意識があり、自己意識があることを精緻に文章を組み立てながら述べている。
カントは『純粋理性批判』で、人間の認識ははたして正しいのだろうかと疑いを差し挟み、「物自体」には到達しえないということを前提とした上で、認識が陥る誤謬について展開した。ヘーゲルはさらに「絶対的真理」「絶対的精神」「世界精神」というものを想定し、そこに至る精神の運動を『精神現象学』で考察している。
Ⅰ 意識
Ⅱ 自己意識
Ⅲ 理性
Ⅳ 精神(ガイスト)
Ⅴ 宗教
Ⅵ 絶対知
6つの章立ては、ヘーゲルが人類の思考(あくまでヨーロッパという地域のことだが)を歴史的な到達点として順に追っているのだろう。
去年、NHKの「100分de名著」でこの『精神現象学』が取り上げられた。講師は斎藤幸平というマルクスの研究者だったが、ヘーゲルの本を読むよりわかりやすいと思った。今回、『経済学・哲学草稿』を読んでわかったのだが、すでにマルクスが『精神現象学』を理解し、批判しているが、斎藤幸平の理解はマルクスの『経済学・哲学草稿』のヘーゲル理解そのものだと思う。
マルクスは決してヘーゲルの精神活動を歪めて理解しているわけではない。
ヘーゲルによるこれまでの哲学批判は「絶対知」というものを前提としている。そこから抜け出ることはない。カントが「物自体」というものを想定したように、ヘーゲルは人間が到達しようとする「絶対知」というものを想定している。それは宗教の絶対的真理であり、世界精神であるのだが。
マルクスは『経済学・哲学草稿』で人間の本質は労働であると考えた。
そこからの疎外が人間疎外を生むのだ、それは私有財産制の世界であるからだと。
(1)労働を外化することにより生産物として人間を疎外する物の疎外
(2)労働が自分に属さない疎遠な活動となった自己活動としての自己疎外
(3)労働により類的生活を個人的生活の手段にしてしまう類的疎外
ヘーゲルが人間の本質と考えたのは、人間の精神活動だ。
人間には意識するという精神活動の機能がある。
何かの物体を物として意識することを「即自存在」と呼んだ。
これは人間以外の動物にもあるかもしれない。
そしてさらに人間には「即自存在」としている自分を意識することできる。
ヘーゲルはこのことを「対自存在」と呼んだ。
物を見ている「私」を意識することである。
他人ではない「私」でもある。
マルクスが人間の本質として考えた「労働」は、ヘーゲルにとって分析の主要概念ではなかった。
精神現象学が叙述するのは、世界精神が遍歴してきた形態のすべてである
学〔精神の現象学〕が叙述するのは、この形成する教養の運動がその細部にわたって必然的に展開するさまであり、また形態化することですでに精神の契機となり、所有物となって沈殿しているものである。〔この学の〕目標となっているところは、精神が「知とはなんであるか」を見とおすことなのだ。忍耐力に欠けた者たちは不可能なことを要求して、中間段階を経ずに目標に到達しようとする。ひとつには、この〔目標へといたる〕みちゆきの長さが耐えしのばれなければならない。どの契機も必要なものであるからだ。いまひとつには、それぞれの契機のもとで立ちどまっておく必要がある。というのも、それぞれの契機はそれじしん個体をなして、しかも全体をかたちづくる形態だからである。つまりおのおのが他とは切りはなされたものとして考察されるのは、ひとつひとつの契機が有する規定されたありかたが、全体的なもの、もしくは具体的なものとして考察される場合にかぎられる。ことばをかえれば、当の全体がその規定をともなう特有なありかたにあって考察されるかぎりにおいてのことなのである。個人の実体であるもの、世界精神でさえ、忍耐をもって、〔諸契機をかたちづくる〕これらの形式を、ながい時間をかけて遍歴することに耐えたのである。だから世界精神は、世界史の巨大な仕事を-この労働をつうじて世界精神は、その形式のおのおのにあって、当の形式に可能なかぎりでのみずからの内実の全体を外化して形態を与えてきたのだ-引きうけることに耐えてきた。また世界精神であっても、支払われた労苦がこれよりもちいさなものであったなら、みずからにかんする意識へと到達することができなかったのである。そうした理由があるからには、ことがらからすれば、個人が、よりすくない労苦しか支払わずにじぶんの実体を概念的に把握することがかなわないのは、たしかなところである。しかしそうはいっても、個人にとっての苦労は同時に軽減されている。なぜなら、それ自体としては、ことはもはや完遂されているからだ。つまり内容からすればすでに、〔かつて〕現実的であったものは廃滅されて可能なものとなっており、直接的なありかたも克服され、形態化の過程はあらかじめその省略形へと引きさげられて、思考の単純な規定となっている。すでに思考されたものとして、内容は〔個人の〕実体にとってその所有物となっているのである。そうである以上はもはや、現にあるありかた(ダーザイン)を自体的存在(Ansichsein)という形式へと転換することが問題ではない。もはやたんにもともとのかたちで(ウアシュブリユングリッヒ)いまだ現にあるもの(ダーザイン)のうちへと沈みこんでいるにすぎないものでかえってすでに内化されている自体的なものを、自覚されたありかた(Fursich-sein)の有する形式へと転換しなければならないのである。
※太字はパトラとソクラによる
『精神現象学 上』(ちくま学芸文庫)p.54~56
ヘーゲルにとって、ここで意味する「労働」とは、世界精神に至る人間の思考の形態を与えてきた労苦のことなのだ。
ヘーゲルは人間が「自己意識」により自己と対象を区分し、対象を支配し、手足を通じた労働により自然の形を変える。作り上げた対象は自己とは疎遠なものとして意識に対立する。
これは人間が個人で経験する成長の過程とも言える。
ヘーゲルはこれを人類の歴史としても位置づけ、主と奴の弁証法として考える。
それはヨーロッパで起きた民族の対立と、奴から主への自己意識の確立とも重ねる。主と奴の意識の弁証法は命がけの闘いだったとヘーゲルは捉えている。