昨日のブログの中で、

甚大な被害を蒙らなかったとはいえ、
私自身も阪神大震災を経験した身、

と書きました。


大阪府南東部の実家にいたので、
揺れはしましたが、

棚からお皿が飛び出したり、
タンスが倒れるというような
被害はありませんでした。

軽い人形が落ちたくらいで、
その横に置いてあった木彫りの熊は
微動だにしていませんでした。くま


昨日、そのことを思い出してたら、
やたらと脳裏に“木彫りの熊”が
浮かんできて。。。(笑)


(こういうのです。)


今日も“根っこを掘り出す”堀美和子のブログに
お越しくださり、ありがとうございます。
あなたに感謝ですっ!






今から思うと、よくもまあ
あんな重い木彫りの熊を、
飾り棚の上の方に置いてたもんだなぁ・・・
と冷や汗タラタラ。。。汗

もし地震であれが飛んできたら、
間違いなく大ケガものです。十字架


(こういうのが頭突き的に飛んできたら凶器です。)

 



そんなちょっと冷や汗な工芸品、
実はたくさんありました。ハッ

その事実を知ったのは昨年、
実家を片付けてた時。

なぜか納戸から木彫りの熊がゴロゴロと。。。(^^;


弟や妹、甥っ子と、
「なんでこんなのが
 こんなにたくさんあるのぉぉ~!?
とお腹抱えて笑ったくらい。

(想像してください、、、
 納戸を開けたら木彫りの熊がゾロゾロ・・・
 って光景を!くまくまくまくまくま


(こういうのが出るわ出るわ・・・。)

 



一つは確実に、
父が北海道観光の折に買ってきたもの。

残りの熊たちは、
両親が知人・友人からもらったもの。

昭和の一時期、
北海道土産≒木彫りの熊、でしたからねぇ。あせる





昭和は遠くなりにけり・・・な令和の今、
木彫りの熊って売れてないんだろうなぁ、

木彫りの熊の産地、
どうしてはるんかなぁ・・・、
なんて考えてたら、

 

朝日新聞にこんなタイトルの記事が。

「私のイチオシコレクション
 ~八雲町郷土資料館・木彫り熊資料館
  学芸員 大谷茂之」


函館の北約70kmに位置する
八雲町という所にある郷土資料館
学芸員さんに話を聞いてまとめられた記事。



(八雲町郷土資料館 Wikipediaより)


記事によると、
木彫りの熊の“発祥地”はこの八雲町なのだそう。


右矢印 右矢印 右矢印 右矢印 引用ここから 右矢印 右矢印 右矢印 右矢印

尾張徳川家の旧藩士らが入植した徳川農場で、
農閑期の副業と趣味として
大正後期に作られたのが最初です。

左矢印 左矢印 左矢印 左矢印 引用ここまで 左矢印 左矢印 左矢印 左矢印


19代当主・義親が、旅行先のスイスで
ペザントアート(農民美術)に出会い、

農民らの物心両面の豊かさを目指して
徳川農場で木彫り熊作りを奨励したそうな。グッ


当初こそ、見よう見まねだったけれど、
徐々に、今私たちが見るような木彫りの熊に
なっていった、と。


その過程では、
日本画の技法も応用され、

より立体的に見せるために、
わざと実際の熊の毛の生え方とは
違う彫り方になっていったそうです。


(熊の背中の盛り上がりから放射状に
 広がる「菊型毛」がその例。)

 

 

 

この木彫りの熊があったからこそ、
大正時代の戦後恐慌や農閑期も
乗り切ることができたんですねぇ。OK


 

 



納戸からゴロゴロと出てきた熊たちには、
そんな背景や重み・思いがあったなんて

全く知りませんでした。びっくり

 

 


モノがモノとして存在する奥には、
たくさんのコトが紐づいている。

 

 



伝統工芸品と呼ばれるものの多くが、
今、売れない苦境に立っています。




しかし、「売れない」と嘆く前に、
私は問いたい。

 


そのモノの奥にあるコト、
ちゃんと伝えていますか?

そしてそのコトに共鳴してくれる人の
思いやニーズ、
聞いてますか?取り入れてますか?



それをせずに、ただ「売れない」と
嘆いていても、何にもなりません。

 

 


自分達の、モノの、ルーツをひも解いて
お宝を見つけしっかり伝える。

まずはここから。
上差し




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