先週の日曜日に、
自省を促す機会に遭遇したことを書きました。

人は知らず知らずのうちに、
心ないことをしたり言ったりしてしまう
生き物なのかもしれない、と。


そうならないよう、

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」的に
生きられる人になりたい。




加えて、もっと思慮・配慮ができる

人間にならねばと反省させてくれる
投稿に出会いました。


今日も“根っこを掘り出す”堀美和子のブログに
お越しくださり、ありがとうございます。
あなたに感謝ですっ!



 

 



それは1月上旬の朝日新聞「声」欄に載っていた
会社員女性の投稿。

思春期に阪神大震災に遭遇し、
今は別の県に住むこの方は、

「神戸出身」と言う度に、
「震災の時はどうだった?」という質問が
まるで定型文のように繰り返されるのに、
「胸の詰まる感覚」を覚えた、と。


(神戸の震災メモリアルパーク)

 



多感な当時に経験したこと

~とりわけ、避難所となっていた小学校で
 「お父さーん」「お母さーん」と呼んでいた
 子供たちの声~

が、今でも耳に残っている上に、

友人を亡くしたショックから
「私が生きていてごめんなさい」という感情さえ
抱いてしまうこの方は、

当時のことを聞かれても、

「曖昧な表情で笑ったり、
 言葉を濁したりするだけ」と。



だから自分は、
何らかの災害にあった人に対して、
「あいさつ代わりのような聞き方はしない」と。


クローバー クローバー クローバー クローバー ここから引用 クローバー クローバー クローバー クローバー

その人には、失ってしまったものが
あるのかもしれない。

その想像力を、
私自身が傷んだ代わりに
持ち合わせておきたい。


クローバー クローバー クローバー クローバー 引用ここまで クローバー クローバー クローバー クローバー



(神戸市東遊園地の希望の灯)



この投稿を読んで、考えさせられました。

こちらはあくまで悼みや労りの意味で
言ったとしても、
そうとは取られないこともある。
それも大いに。




お互い長くor深く知り合った後で、
そういう悲しい体験を共有し、

その人が背負うものを
ほんの少しでも軽くして
あげられるならいいけれど、




少なくとも初対面では
触れるべきではない。

いくらこちらに労りの気持ちがあったとしても。



甚大な被害を蒙らなかったとはいえ、

私自身も阪神大震災を経験した身。

つい、「あの時は大変でしたよね」と
言いたくなりますが、


・相手が言い出さない限りは触れない
・もし触れるなら、まず自分のことから


ということに、気を付けたいと思います。



阪神大震災に限らず、
大きな災害は頻発している。

その数だけ、
悲しく辛い思いをした人がいる。



(津波によって浸水した宮城野区沿岸
 [2011年3月12日] Wikipediaより)



長く生きた者として、
心得なければいけないこと、

また一つ教えてもらえました。




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