葬儀とは、故人その人のことだけを思って共に過ごす時間(の長さ)ではないか。 | 目の付け所から広報まで一気通貫で考えるPRコンサルタント 堀 美和子のブログ

目の付け所から広報まで一気通貫で考えるPRコンサルタント 堀 美和子のブログ

大切なのは「売り込む」のではなく「欲しくなってもらう」仕掛け。
だって人は、心が動かなければ行動しませんもの。
それはB to CでもB to Bでも同じ。
人間心理からストーリーマーケティング、新聞記者の経験もプラスして、あなたのビジネスを応援します。

2日のお休みを頂きまして、
滞りなく父を送ることができました。

皆々様から頂戴しましたご弔意の数々、
誠にありがたく心より感謝申し上げます。



親族の葬儀は2000年に祖母を送って以来。

その折に喪主を務めた父を今回送ることになり、
当時と現在の親族の変化(高齢化)を実感すると共に、

「そっかー」としみじみ感じたことがありました。




(実家の梅の木が馥郁と咲いていました。
 父に「お帰り」と言ってくれてるようでした。)


今日も広報ジャーナリスト・堀美和子のブログにお越しくださり、
ありがとうございます。あなたに感謝ですっ!






祖母の時は、父やその兄弟たちも現役ということで、
会葬者をお迎えした一般の葬儀にしたのですが、
今回はこじんまりと家族葬で送りました。


(余談ですが、祖母の時に導師を務めて頂いたご住職が
 代替わりし、息子さんがいらしてくださいました。
 なかなかに“お坊さんらしくないお坊さん”で
 仏教界も変わっていくんだなぁ・・・を実感しました。)




葬儀と一口に言いますが、
その間には本当にいろいろなことが詰まってますよね。(^_^;)

会葬者への御礼や食事はどうするのから始まって、
祭壇はどれにするか、

移動の際のタクシーは何台必要?etc.まで。あせる



その間、親族はそのことに付きっきりになります。
ほぼ3日間、普段の諸々をうっちゃって、
故人を送ることに専念します。

なので、日曜昼に父が逝ってから昨日迄、
まあ、“濃い”日々だったなぁ・・・と。(^^;



妹がポツリと漏らした一言

「まだ2~3日しか経ってないのに、
 もう5日も10日も経ったように感じる」

が如実に表してるな、と思いました。


  




同じようなことを叔母も
通夜ぶるまいの時に言ってました。


(亡き父が)あーだったの、こーだったの、
あれが好きだったの、嫌いだったの、
子どもには厳しかったけど孫にはデレデレだったの・・・etc.

久しぶりに集まった面々で
とりとめのない話をしていた時にふと、

「(ここでの会話を)お兄さんも聞いてるかもしれんね」と。




「精進落とし」のお膳を囲んでいる時も、遺影の前で
親戚や父の長年の友人達と

あれこれ昔話から近況にまで花が咲いてました。
 

 

  
  (精進落としのご膳です。)




親しい人が集まって、亡き人のことをあれこれ言う。

平たく言えば、「偲ぶ」ということ。

葬儀の最大の目的って、
この時間の長さであり、
他愛のない話なのかもしれない

って思いました。



亡き人のことを語り合うのが弔い、なんだなぁ。




覚えていること。
記憶するということ。
それを取り出して共有すること。
そして思い出を深めること。


葬儀会場も、
祭壇も、
一連の式次第も、
ことによったら僧侶の読経も、

実はすべてがこの「偲ぶ時間・会話」を
セッティングし、というか、引き立てるための
脇役でしかないのかもしれない。



 
 

 



すごくそれを感じました。

こういう感覚って、恐らく私だけじゃないと思います。

葬儀って、見てくれナンボやない。


 

 


じゃあ、過当競争と言われる葬儀業界において、
自社の強みとして訴えるべきは、
豪華な祭壇や多種多様なお膳じゃないですよね。




親族や会葬者が個人を偲ぶ。

その時間、空間を最大限心地よくするために
あらゆる“不”を排除すること。


例えば帰り遅い時間のタクシーの手配まで。


 




痒い所まで手の届く、徹底的な場と時間の介助役を
務めるのが葬儀社としての私たちの役目だと、
言い切れるかどうか。


そこにこそ独自化の源泉が隠れていると、
相変わらずエクスマな視点で考えていました。
(*゚ー゚)( 。_。)





(写真は浄土真宗大谷派の本山・東本願寺。Wikipediaより。
 父の法名は、浄土真宗の経典に出てくる
 「正真道意」から「釋真道」といただきました。)




ご訪問ありがとうございました。m(_ _)m
人気ブログランキングの応援をして頂けると嬉しいです。