ゴールデンウイーク真っただ中です。

 

私たちは、滋賀県に住む夫の両親宅へ行ってきました。夫の両親もいつの間にか81歳で、健康面や生活面など、いろいろ見守っていかないといけないなあと思います。

 

父の岩手時代の書類を整理している中で、夫が初めて教会へ行ったときのことを書いたものが出てきました。

 

まだ牧師になろうなどとは考えていなかった、バプテスマ(受洗)の時の証です。三浦綾子さんの本を読んで、「教会へ行ってみよう」と書かれていたのがきっかけでした。

 

牧師家庭のクリスチャンホームで育った私とは違って、一般の家庭で育った夫は24歳で初めて教会へ行きました。

 

 

 

夫が初めて教会へ行ったときの証(前半)

 

僕がイエス様に導かれるきっかけとなりましたのは、毎日を過ごす中で自分が「ただ生きているだけ」という、何か満たされない気持ちでいっぱいになったことでした。

 

面白おかしくその時を過ごしても、ただ生きているだけというのは本当に心が満たされませんし、むしろ、辛く苦しく感じるようになりました。

 

 そんな時、聖書や、クリスチャンの方が書かれた本に出会い、本当の意味での「生きる意味」について考えさせられるようになりました。

 

自分なりに聖書を手にしましたが、わからないことも多く、また三浦綾子さんの著書に「勇気を出して教会へ行ってみよう」とありまして、一度教会というところに行ってみようと思うようになりました。

 

 以前から、この内灘海岸への道の途中に教会が建っていることは知っていましたので、表にある掲示板を見て、日曜日の礼拝へ行ったらいいんだと思いました。

 

早速日曜日に出掛けましたが、その峙は中に入る勇気が出ず、入り口の前で引き返してしまいました。翌週改めて教会へ向かい、もう何も考えずに思い切って入りました。玄関では本当に暖かく迎えて下さり、中へ案内していただいたことを覚えています。

 

 今年の4月17日の礼拝日だったのですが、その日は牧師先生が(その時はまだ横山先生というお名前すら知りません)「キリストの愛我に迫れり」というテーマで第二コリントの5章についてお話しされていました。

 

先生は、ムチを打たれ十字架にかけられたイエス様の苦しまれる姿を、身をもって示されていました。

 

以前福音の箇所で、イエス様の十字架刑の所は目を通したことはあったのですが、これ程差し迫ってイエス様の苦しみを感じさせられたことはなく、いきなりびっくりしてしまいました。この時横山先生は「イエス様は、この私のために死んで下さったのです。」というメッセージをなさいました。

 

 自分の命を投げうって愛をお示しになられたなんて凄いことだ、と感心しつつ、2000年前のイエスと言う方を、今この自分とどういう関係があるんだろう?「自分のために死んで下さった」とはどういうことなんだろう?と正直に言いましてピンと来ないところもありました。

 

けれども、教会へ通ううちに、ここに来られている方1人1人のうちにイエス様の愛がいきづいているんだなあ、と感じるようになってきました。

 

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