高校生の時、読書感想文のために遠藤周作の「沈黙」を読み、日本にキリスト教が広まらない理由の一つは日本のキリスト教史(歴史)にあると思いました。

 

江戸時代からのキリスト教禁教策があまりにも過酷だったため、そして250年と、あまりにも長かったため、日本人が意識しないところにもしみついている精神構造があると感じます。

 

簡単に言えば、「キリスト教の教えはよい。けれども深入りするのは危険だ。彼らの仲間になってはならない。」そういったところがあるのだな、と思っています。

 

 

 

 

前回の記事の続きです。

 

新年聖会の中村敏先生のお話の中でも、この「日本キリスト教史が日本人に与えた影響、精神構造、行動基準」についての説明がありました。

 

 

なぜ日本でキリスト教が嫌われたのか?

 

「徳川幕府は、神の前の万人平等を説くキリスト教が、自分たちの封建支配と相容れないものとみなし、徹底した禁教政策をとりました。

それらは宗門改め、寺受け制度、五人組の連座制、絵踏み、キリシタンを訴えることを奨励する報奨制度、そして鎖国体制等実に徹底したものでした。

こうした政策が約250年ほど続いたわけです。

こうした徳川幕府によるキリシタン禁制策は、当然ながら日本人の国民性に強い影響を与えました。」

(新年聖会 中村敏師レジメより)

 


ちょうど今週1月21日(土)に公開予定の遠藤周作「沈黙」の映画は、そのことをはっきりと映し出すことになるでしょう。

 


日本に伝わることわざや格言

 

日本に伝わる「ことわざ」や格言には、上(すなわち御かみ)に対して服従し、自己主張を戒め、大勢に従うことを求めるものが多くあるとして紹介されました。

 

「泣く子と地頭(地域の有力者)には勝てぬ」

「長いものには巻かれろ」

「寄らば大樹の陰」

「出る杭は打たれる」

「沈黙は金、雄弁は銀」

「バスに乗り遅れるな」・・・1930年代に、日本が満州事変を契機に軍国主義に突き進んでいったときに流行った言葉。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」


以上は紹介された言葉ですが、なるほどと思います。

 

この世でうまくやっていくためには、日本人なら誰もが心にとめている言葉ではないでしょうか。

 

クリスチャンであっても、「伝道していくためには、人々に好意を持たれなければならない。」「うまくやっていかなければならない。」と考え、上記のような「同調姿勢」を非常に重んじ、「それこそが大切」と考える方がいらっしゃるように思います。

 


再び中村敏先生のレジメ文章より引用します。

 

「つまり、日本の社会で処世していく術としては、自分が確信するものを貫くより、絶えず周りを気にし、大勢からはみ出ないことが大切なこととされます。

自分を強く主張する者は、協調性がないと叩かれます。

昔も今も、日本では人と違ったことをするには、非常な勇気がいります。

こうした、本音と建前を巧みに使い分けながら大勢につき、自分を守る国民性は、とりわけ徳川250年の治世において、上からの統制と五人組等の相互監視と長い鎖国の中で身に着けてきたものといえるでしょう。

今でも地方社会に典型的に見られるように、日本では大多数の人と異なる言動を批判し、抑制する「同調圧力」が強力です。」


「同調圧力」というものは現代にも見られるもので、私たちは知らず知らずに「ノー」と言いにくい環境であったり、そういう場面に多く出くわします。

 

同調圧力の強さは、日々、私たちも日常生活の中でも感じることがあると思いますが、禁教時代のそれは格別に強いものであったことを思わされます。

 

映画「沈黙」は必ず見てきたいと願っていますが、映像で見ると、かなり考えさせられるだろうなと思っています。
(実は楽しみな半面、どんな内容かわかっているので心は重い…。)

 

私ももしクリスチャンではなかったら「触らぬ神にたたりなし。キリスト教には関わらないでおこう。」と思いそうなものです。

 


けれど、今なぜ「沈黙」が映画化されるのか?

 

映画「沈黙」では、普通の弱いキリシタンたちが殺されても、つぶされても、信仰を捨てず、全滅せずに隠れながら信仰を守っていった様子が映し出されます。

 

もちろん、あまりの重圧に棄教してしまったキリシタンもいます。

 

一度、棄教して、「やっぱり神を裏切ることはできない。」と、またわざわざ役人の前に名乗り出たキリシタンもいたということです。

 

このような過酷な状況にありながらも、日本でキリシタンが途絶えなかったこと自体が驚くべきことです。


映画「沈黙」公開前に思いをはせながら、新年聖会で学んだことを思い起こしてみると、キリスト教が広まらない日本にあっても、私はなぜか「暗闇」や「絶望的な感覚」だけではなく、「ひとすじの光」と「希望」すら感じます。

 

日本の精神構造や行動基準に逆行するキリシタン(クリスチャン)の在り方が、「一粒の麦」として映るからです。

 

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』(ヨハネによる福音書 12:24)


 

クリスチャンの一人一人は「一粒の麦」のように弱くても、そこに「真のいのち」があるならば、たとえ一粒の麦が踏まれても、地に落ちて死んでも、時が来れば芽を出し、豊かな実を結ぶ、そんな希望を帯びていると思えるのです。

 

遠藤周作の小説「沈黙」が発行されたのは1966年。今から50年前です。禁教の時代は約250年。

 

それなのに、なぜ今になってもキリシタンの信仰が語り継がれているのか?

 

そこには、やはり「なぜ信仰を捨てようとしない?」「命を捨ててまで信仰を守ると言うのか?」という疑問を起こさせ、未信者の方々に対してもメッセージ性があるからだと思います。

 

神への信仰を自分の命よりも大切に思い、身を持って神への忠誠と愛を示したキリシタンたち。

 

それは弱さを自覚していたキリシタンたちが「真のいのち」を知っていた証であり、同調圧力を感じている現代の日本人にも訴えうるメッセージを持っているからだと言えます。

 

 

 

 

 

 

 

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