日本人の宗教観

 

前回の記事の続きです。

 

歴史家として知られる「阿部謹也(きんや)」氏は「日本人の宗教観」についてこのように分析しています。

 

「『世間』は社会の現在の秩序を前提としているから、現在の秩序に従って暮らさなければならない。
協調的な姿勢を常に示し、極端な感情的な行動は慎まなければならない。
・・・神仏に対しては敬虔な態度を維持し、神社仏閣でもそのような態度を示さなければならない。
しかしどのような宗教にせよ、熱中してはならない。
どのような思想でもそこに自分を賭けてはならない。
適度の距離をとらなければならない。
特に自己を恃(たの)み、正しいと自分が考えることのために大勢と異なった行動に出ようとする者がいるが、そのような人はその行動のために『世間』からはみ出ることを覚悟しなければならない。」

 

 

人と違ったことを嫌う「日本人」がクリスチャンになるということ自体が大変なことであり、信仰を持ったその後も大変なことが多く、『世間からはみ出る覚悟が必要』とのことです。

 

ある意味、やはり日本でキリスト者であり続けようとするなら、覚悟が必要なことだと思います。

 

今は信教の自由があり、比較的、平和な中にありますが、いつまでもこのような状況であるとは限りません。

 


「なぜ日本にキリスト教が広まらないのか?」

 

日本人クリスチャンは、阿部謹也氏が指摘するような宗教観の中にあり、「世間とうまくやっていきながらクリスチャンであり続ける」というあり方を重視し、どちらもうまくやる、というのが最も賢い選択のように感じているのではないかと思うことがあります。

 

けれど、「熱中してはならない」「そこに自分を賭けてはならない」「適度の距離をとらなければならない」そのような宗教や「ほどほど」の姿勢、伝道だとしたら、広めたいのか広めたくないのか?よくわからない、なまぬるい信仰と行動で終始するよりほかありません。

 

「日本人の精神構造や行動基準」が生み出した「日本人クリスチャンの柔らかな信仰姿勢」も「日本にキリスト教が広まらない理由」につながっているのではないかと思われます。

 

 

 

 

 

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