「ハロウィン」と同じ10月31日はキリスト教会にとって歴史的な出来事となった「宗教改革記念日」です。

 

それで、マルティン・ルターのことを書きたいと思っていたのですが、ルターの生い立ちを調べている中で、ルターの父は厳格な人で、ルターがかつて「冷酷で厳格な神」というイメージを持つ上で強い影響を及ぼしたということが気になりました。

 

神様に対して、どんなイメージを持っているかということは、その人の考え方や行動、信仰生活にも大きく影響があります。

 

 

「天の父なる神」は「星一徹」みたいなんだろうか?

 

クリスチャンでも、「天の父なる神」について「巨人の星」の「星一徹」みたいに思っている人が実は少なくないと思います。

 

「星一徹」は「昭和の父親像の代名詞」みたいな感じですが、「怖い」「すぐ怒る」「殴る」「蹴る」「ちゃぶ台ひっくり返す」というようなことがお約束のパターンです。

 

 

アニメ「巨人の星」星飛雄馬の父・星一徹 画像出典;Youtube

 


懐かしい動画を見つけました。


「巨人の星」主題歌

 

 

「星飛雄馬(ほし ひゅうま)」の父「星一徹」も、マルティン・ルターの父「ハンス・ルダー」も、「さらに上を目指す」向上心や上昇志向が強く、「子供に厳しい」という特徴の強い人だったようです。

 

おかげで「星飛雄馬」は苦しい練習と父からのしごきに耐えて、野球の腕がみるみるアップし実力をつけて行ったし、ルターはと言えば厳格で敬虔で非の打ちどころのないような修道士になりました。

 

「全ての戒律は誰よりも守っている」と自信満々に言えるほどの生活で、聖書に出てくる「使徒パウロ」に似ていると思いました。


けれどもルターが行き着いたところは「絶望」でした。

 

どんなに難行苦行を積んでも、「自分で自分を救うことはできない」と悟り、その自慢だった「非の打ちどころのないような修道士生活」は日々、ルターを苦しめ、悩ませ、そのまま続いていたら「死んでしまっていたことだろう」と回顧しています。

 

ローマ人への手紙3章20節

「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」

 

 

感覚的に「厳格であること」や向上心、上昇志向を好む人もおり、「さらに上を目指す!」というそれ自体は悪いことではないのですが、課題をクリアできれば良いですが、もしクリアできない場合は挫折感や劣等感を味わうことになり、いつまでたっても平安がないのです。


ルターの心を捉えて離さなかったのはパウロの「ローマ人への手紙」のところで、いくら禁欲的な生活をして罪を犯さないように努力し、できる限りの善行を行ったとしても、神の前では「自分は義である」、「正しい」と確実に言うことはできないと気づいたのでした。


ルターはこの現実に苦しみ続けたのですが、あるとき突然のように新しい理解が与えられる経験をしました。


ルターは人間は善行ではなく、信仰によってのみ 義とされること、人間を義とするのは、すべて神の恵みであるということを理解し、ようやく心の平安を得ることができたのです。

 

これは「塔の体験」と呼ばれるルターの転機となりました。


ここでルターが得た神学的発想は、のちに「信仰義認」と呼ばれるようになりました。

 

 

私自身も、よく「神様、怒っているだろうなあ。」とか、「こんな自分は受け入れられていないだろうなあ。」と考えたことがあり、そんな時は信仰生活にも喜びがなかったなあ、と思いだします。

 

 

こうして考えてみると、神は私たちのことを「失敗するのではないか?」と上から常に見張り、失敗したとたんに雷を落とす「星一徹」のようなイメージを持つか?恵みと慈愛に満ちた神のイメージを持つか?というのは、聖書理解やその人の持つ「神観」へ大きく影響があると言えます。

 

 

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