「マサさんさー、俺、いい時計一つ買おうと思ってんですよー。」
「ん? 時計? ふーん。 そうなんだ、、。」
帰り道に立ち寄った、いつもの飲み屋。
カウンターに腰かけておしぼりで顔を拭いていると、顔見知りのYが話しかけてきた。
大学を卒業して広告代理店に就職してから10年ほどが経ち、ちょっと懐に余裕ができたか。
確か知り合った頃はまだ新入社員の若造だったような気がするけど、、時間が経つのは早い。
「いいんじゃない。 俺と違ったスーツも靴もパリッとしてんだから、時計もそれなりのにしたら。」
「そうなんですよね。 でも何がいいかなーと思って。 パネライとかフランクなんかいいなーと思ってるんですけど、、、マサさん、お勧めないですかね?」
Yに限らず、知り合いからこう聞かれることは多い。
まあ、巷で会う連中はみんな私が時計屋だと知っているからだけど、、、そのたびに私は心中 「やれやれ」 と思ってしまうのだ。
相談に乗るのが面倒なのではない。
それにどうせ飲みながら無駄話しするのが目的で来ているようなものだから、そういう意味ではちょうどいいと言えなくもない。
ただ単に 「困ってしまう」 と言えばいいか。
そもそも、 「お勧めできる時計」 が思い浮かばない。
当人の予算が数万円程度の話しであれば 「好きなブランドや気に入ったデザインのものを選べばいいんじゃない」 なのだが、、Yのように 「予算100万程度。 一生使える時計」 となると、逆に難しい。
ちなみに、30そこそこのYが平均寿命に達するにはまだ50年ほど掛かるが、、、実際、50年以上メンテナンスを引き受けるメーカーはほんのごく僅か。
ほとんどのメーカーが50年どころか20年、場合によってはもっと早期に 「部品の製造が終わってしまっているので修理が出来ません」 と受付けしなくなるし、、、「引き受ける」 という一部のメーカーの場合は、スイス本国への送料その他ひっくるめて何十万もの費用を提示してくるから、おいそれとはお勧めできない。
ちなみにパスタイムには毎日のように 「メーカーで断られた時計」 をお持ちになる方がいらっしゃるが、、、残念ながらそう言った近年の時計はうちでも修理できないから、若き頃からの想い出の詰まった時計を諦めるか、、いつまでもつかは分からないけど 「とりあえず動くように」、といった修理を引き受ける店をお教えするしかなくなるのだ。
ちなみに、300年以上前の古の時計が直せるのに、たかだか30年や50年の時計がなんで直せないのか。
実際のところここが一番説明に苦労するところなのだが、、、簡単に言えばその違いとはこういうこと。
主要部品が極めて頑丈で、消耗部品だけを作りながら修理できるように想定されている100年も200年も前の時計。
それに対して、短期間で消耗する主要部品を定期的にユニット交換する想定になっている近年の時計。
早い話、限界まで傷んでしまった近年の時計は、部品をごっそり取り換えるか、ムーブメント(機械)ごと取り換えるしかないのだ。
「一生使える、か、、。」
「ええ。 爺さんになるまで自分で使ってー、その先出来れば子供とかにも引き継げたら最高だと思うんですよねー。」
酒のまわり出したYの声は、ちょっと熱を帯びてきた。
「うーーん、余計に難しくなったなー。 あ、リコちゃん、焼酎のお湯割りお代わりね。 」
「あ、リコちゃん僕はロックにして。 んー、そっかー、、じゃあ、ロレックスとかでもダメですか? 一生物って聞きましたけど。」
「無理。 確かにセイコーやシチズンほど早くはないけど、、、今もう1970年代のモデルも断り始めてるからね。」
「そうなんだー、、。 じゃあパテックフィリップは? あ、でも100万じゃあ買えないか 笑 」
「ははは、ちょっと無理かな。 でも確かにパテックはどんなに古いモデルでも受け付けてるよ。 うちのお客さんでも面白がって100年前の懐中時計出した人がいたんだ。 一年以上経ってから、分解掃除一式88万円ちょっとの請求が来たって笑ってたけどね。 」
「88万ですかー。 ちょっとそれは厳しいなー、、。」
「ちなみにマサさんのところには腕時計ないんですか? ずっと使えて、俺が買えるようなのは?」
「んー。 うちはアンティーク懐中時計の店だからね。 まあ腕時計もうちで作ってるのがあるにはあるんだけど、、Yには勧めないな。」
「え、なんで? マサさんて、商売熱心じゃないっすねー!」
「ははは」
基本的に、私は夜の街で時計の宣伝をすることはない。
いくらうちのカスタム腕時計が防水仕様で日常使用できる、一生どころかその先もずっと直しながら使える時計だと言っても、、無頓着に落っことしたりぶつけたりすればその度に修理が必要になって仕方がない。 綺麗なエナメルのダイアルなんて、割れてしまったら取り返しがつかないし。 なによりも、Yのような一般的な若者が求めているのは、友達や職場の人たちにも馴染みのあるブランド品の腕時計であることが解っているのだ。
「まあなんていうのかな、、うちの時計は、本当に時計自体が好きな人向けなんだよな。」
「なるほど。 そうなんですねー。 あ、ミノちゃんこんばんは。 しばらくー。」
「Yさん久しぶりー。 あ、マサさんもいるんだ」
「おお、あいかわらず飲んでるねー」
時計の話しはそこで終わり、、3人はマスターを挟んで賑やかに飲み始めた。
いつも通り、、でもちょっと自分はなにか乗り切れない。
「リコちゃん、俺お勘定ね。 Yくん、俺はそろそろ引き上げるよー。 まあさっきの話しだけど、、とにかく少しでも長く使いたいなら自動巻きの時計だけはやめとくことだね。 巻き上げ装置の関連部品はどうやっても長くはもたないから。」
「わかりました。 っていうか、、そんな感じなら別に安いのでもいいかなと思い始めましたよ。 使い捨てになるものに100万も出さないでも。」
「そうそう。 俺なんかそもそも時計してないしな 笑」
「ははは。 じゃマサさんまたー。」
「おやすみー」
その店を出ると、もう帰り道に飲み屋はない。
「いい時計、か、、。」
なぜか酔えずにいた私は一旦帰りかけた足を止め、、、踵を返して駅の方に向かったのだった。
