「中島さん、、スイスの脱進機のパーツ、買っていいですか? 今見たら、去年買った残りがそんなに無いんで、、。」
地下のストックルームに潜ってごそごそやっていた篠原(那由多)が、お小遣いのおねだりをする子供みたいな調子で切り出した。
あんな工具が欲しい、こんな材料を買いたい、っていうのはうちでは日常のこと。
そういう時、普通はみんなそれぞれ欲しいものをリストアップして、まずは時計学校の先輩格の寺田に伝える。
あっちで買うと早いけど割高、こっちだと時間は掛かるけど安いしポイントも使える、なんてことに滅法詳しい寺田は一通りの購入先を決めてから私のところに来て、「中島さん、カードいいですか? みんな色々欲しいみたいなんで。」といった感じになる。
でもそれとは別に、篠原は那由多モデルの製作に必要な工具や材料を私に直接頼みに来ることがあって、、これが最近非常に頻繁で、感覚的にはほぼ毎日?なんだかしらを注文している感じ。
だから奴が私の方に忍び寄って?くると、、私は「あ、またカネか!」と身構えた感じになってしまうのだ。
もっとも無駄なものを買っているわけではなくて、ほとんどは必要なものなんだから、まあ仕方がないんだけど、。
「ん? ああ、いいよ。何個くらい? あれ確か、一つ¥30,000くらいだったよな?」
「ええ。確かそのくらいだったと思います、、、じゃあ、20個くらい買っていいですか?」
「うん、まあいいよ。」
¥30,000×20個で、¥600,000か、、まあ必要なんだからな。
それにしても、何年か前まで¥7~8,000だった部品が¥30,000か、、ずいぶんと高くなったなぁ、、なんて思いながらMP1のテンプを調整していたら、「中島さん!」
顔を上げると、、浮かない顔をした篠原が立っていた。
「ん? どした?」
「頼もうと思って今見たら、、あのパーツ、値上がりしてます!」
「あ、そう。でもまあしょうがないよな、昨今、なんでも値上がりしてんだから。 俺がアトレで買ってくる弁当だってよ、最近はもう1000円以下なんてほとんどなくなっちゃったしな、タバコも来月値上がりだし、ははは。 で、いくらになってんの?」
「えーと、日本円にすると、、¥80,000くらいです!」
「えっ、ホントかよ!」
「高いですよね。」
「ありえねー、去年の3倍近いじゃん!」
60万くらいの出費だと思ってたのが、、なんと160万!
まあ無いものはしょうがないけど、、しかしスイスは滅茶苦茶だなぁ。
ご存じの通り、わが国の物価も日々、上昇している。
金をはじめとした資材、食材、電気、燃料、、値上がりしているものは枚挙にいとまがないが、このインフレに対応すべく、賃金も上昇している。
賃金が上がらなきゃみんな生活ができなくなるからこれは当然だけど、、こうなると厳しいのは、うちのような零細事業を営んでいる者、つまり給料を払う側にいる私だ。
まあそれはともかく、、やっとデフレから抜け出しかけた日本の値上がりは、まだまだ緩やか。
一方、アメリカやヨーロッパのインフレは桁違い。
うちの主な取引き先はスイスやアメリカ、イギリスあたりの業者だけど、向こうはなんの前触れもなく倍々ゲームみたいに値段が上がるから、まったく気が抜けない。
次買う時はいくらになっているか分かったもんじゃないから、どうしても一回に買う量も多くなりがちで、支払いが大変なのだ。
なんてしょうもない嘆き節はこのくらいにして、、ここからが本題。
ご多聞に漏れず、今月末に抽選応募を開始する「那由多モデル 2025」も、新価格になった。
昨年550万円(税抜き)だったModel Aは650万円(税抜き)に、275万円(税抜き)だったModel Bは300万円(税抜き)に。
実のところこれは、去年から今年にかけて実際に一年間やってみて、各種コストの上昇分が一本あたりの実質的コストにどの程度影響したか、試算し直した結果なのだ。
実に頭の痛い話しだけど、、来年にかけて更にコストが上がっていけば来年もまた試算のし直しが必要になるし、那由多モデルだけじゃなくてMPシリーズに関しても同様に、おそらく今後、値段が上がることはあっても下がることはないんじゃないかと思う。
初年度より2年目、2年目より3年目。
製作を続けることで、それまで気が付かなかった点を改良したり、材料を変えたり、より良い時計にしていくことは可能だし、その努力を惜しむつもりは毛頭ない。
でもインフレという流れに逆らって時計の価格を据え置こうとすれば、仕上げの手間を省くか、材料の質を下げるか、あるいは従業員の給料を据え置いて意欲を削ぐか、、いずれにしても、より良い時計にはならない。
そもそも、安くて実用性の高い時計は、世の中にいくらでもあるのだ。
作りたいのは、一点一点気持ちを込めて、入念に仕上げた特別な時計。
耳障りの悪い話で恐縮ながら、時計愛好家の皆さん、この点に関しては、何卒ご理解いただきたい。