9月の始め、東日本大震災で被災した岩手県沿岸部(大槌・釜石・陸前高田)にボランティアとして行ってきました。その感想を記します。

私はボランティアとして、用水路のヘドロ・ガレキの除去やガレキ撤去後の土地の整地というハード面の支援と、仮設住宅での聞き取りという、人の心と正面から向き合わねばならないソフト面の支援を行いました。

中でもやはり特に印象に残っているのは仮設住宅での聞き取りです。船をなくした、家をなくした、そして家族をなくしたつらさが、涙や淡々とした言葉から生で伝わってきました。最初はどう問いかけ、どう答えればよいか分かりませんでした。そして、ようやく、分かりかけたところで帰る日となり、なんとも言えず悔しい思いが残っています。

なお、僕が行った地域は調査が始まったばかりであり、これから訪問の充実が望まれますし、また、ガレキの撤去などハード面の支援ができなくなる雪の季節も、これは継続する必要のある支援だと思います。

また、私自身、全日を通して津波の恐ろしさを感じました。テレビで津波被害の映像を見ていたものの、自分が何か他人事のように捉えていたことに気づきました。実際に被害の大きな場所に行くと、半年を経た今も震災直後とあまり変わらない光景が広がっており、記憶には残しておきたいとは思うものの、写真はほとんど撮れませんでした。見ている景色の意味を考えると、シャッターが押せませんでした。

なんだか、沈んだ感想になってしまいましたが、私は心から復興を願っています。

これからもできる限りのことをしていきたいと思います。
如何せん原発問題に関する議論では、ほぼすべてが正確な科学的論拠に乏しい。

よく言われることだが、公平を期する研究者と言えども雇用先や研究費の出どころの団体が喜ぶ結果を導きがちである。

特に世界で国家的プロジェクトや反対運動が展開される原子力については尚更だ。これらのデータにすがり、いかにも「科学的」だとして、賛否を論じるのは甚だ馬鹿馬鹿しい。

ただし比較的客観的なデータといえるものはある。その一つがチェルノブイリ原発事故に関して国連が発表したデータである。これには、子どもの甲状腺ガンが有意的に増加したことのみが極めて明確に記されている。

だが、皆がこれを見て議論したところで結論は出ない。私は被害者が多いと感じたものの、少ないと感じる人もいるだろう。詰まるところ、現在議論の根拠としているデータの凸凹が平らにされたとしても、抜本的な解決には至らない。加えて、いまだに研究途上の放射性物質の影響についてなぞ、公正であるからといって「科学的」とも言い難い。

ここまで、私は「科学的」という言葉を「真理は1つ」という概念のもと成り立っている「自然科学」の意味で用いた。原子力は化学や物理に由来し、極めて正確な1つの「科学的」真実があるといえる。しかし、上述したように、今はまだこの言葉を用いるに相応しくない。

その場合、これらのデータはバラつきのある統計的事実と位置付ける必要がある。つまりこれらを見て判断する際、自分にとっての損得や感情に流されることなく、総合的かつ客観的に理解し、自分の意見として昇華しなければならない。

但し、「総合的かつ客観的」というのは難しく、その過程で再び多様な解釈が生まれてしまう。

そこで、私は一つの基準を提案する。それが「倫理」である。クローンや再生医療問題と同様に、「倫理的」に議論すべきなのだ。

チェルノブイリや福島原発事故を筆頭に、原発が人間を含む自然界全体に与えている影響は計り知れない。まさに、生命に直結するテーマであり、しばしば医療倫理問題で語られるような宗教的な視点がなくとも、個々の人間、社会、地球の将来をも揺るがす問題であることは明らかといえる。

化学工学を専攻する私が記すのはいささか心苦しいが、「科学的」な欠陥は、「倫理的」に補完するしかない。決して私利私欲や偏見感情に依って判断してはならないし、そもそも無視してはいけない。


関西電力大飯原発1号機と北海道電力泊原発3号機が再稼働に向けての手続きに入ることを明確にした。

この2機は定期検査中でありながら、調整運転という名目で実質的には4ヶ月もの間、フル稼働してきた。これに対しての批判を受けて実稼働を目指すという。

これは非常に汚い手ではないだろうか?

電力会社
「きちんと定期検査しています」
国民
「実質的に動いているじゃないか!!」
電力会社
「じゃあ、実際に動かします」
国民
「………」

まさに唖然とするしかない。政府及び地元自治体は利権に目を奪われず、冷静に電力会社を糾弾すべきだ。絶対にうやむやな再稼働を認めてはならない。