能登半島地震で被災された方々、どうか頑張って命を長らえて下さいませ<(_ _)>
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2011,3,11の大津波を経験した私の体験談です。
津波から10日ほど経った釜石市の自宅周辺の様子です。
大津波に襲われた当日や翌日から、生き残った人たちは、それぞれの判断で
避難先を求めて右往左往し、その多くは、被害を免れた高台にある寺院や、病院、
大広間のある料亭など、スペースがあると思える場所へ向かった。
行き着いたその多くの場所は、1ヶ月ほどは、想像もできないほどの過密状態に
置かれました。
その後、徐々に公的援助が始まり、2次避難場所が振り分けられ、多くの人は
学校の体育館へ移動し、集団生活が始まったようです。
私が幸運にも避難出来た高台にある某宗教団体の大広間には、被災は免れたものの
ライフラインが絶たれた近隣の人達が約30人ほどおられ、スペースに恵まれた
お陰もあり
お互いに協力して和気あいあいの避難生活が送れました。
約1ヶ月後にはライフラインが復旧し、近隣の人は自宅に戻られましたが
困ったのは我が家族。
津波で幸運にも建物は倒壊せず残ったものの、2階まで浸水したために生活は
出来ない。
しかも、被災住宅が東北全体に渡る半端ない規模の為、頼みの綱の仮設住宅が
出来上がるのは数か月先とのこと。
でも、皆さんが出て行ったため、私たちだけが居残っているのは申し訳ないし・・・
で、公的機関から提案された一つが、仮設が出来るまでの間、内陸の温泉旅館などで
過ごすか、民間のアパートなどのみなし仮設へや、体育館へ移るか、などなど・・・
だが、我が家には、津波に生き残ったちゃんが4匹もいて、家族同様なので
毎日その世話は欠かせないし、建物の片付けもしないといけない。
温泉好きの私としては、温泉付きの宿は・・・垂涎の的でしたが・・・😅
で、出した結論は、
経営していたAPがあり、偶然にも、1DKの部屋が2つ空いていた為、そちらでの
生活を選択。
しかし、いわゆる自主避難先なので、公的機関からは把握されず、仮設住宅には
完備の無料のエアコンや暖房機具、冷蔵庫などの設備や、食糧などの様々な援助とは
無縁・・・
自分で選択した避難先なので、それも仕方がないなと、必要な家電や食料は自力で
購入し、自宅の大規模改修が終わるまでの約1年間を過ごしました。
そうこうしているうちに、半年後あたりで、そのような援助から見過ごされた
被災者が大勢いることに気づいた民間の援助団体から、ポイント制で限定的ながら
家電や衣料などの必要物資が支給されることになり、大いに助かりました
今思えば、いろんな避難先を渡り歩いても、設備が整い、様々な援助が
行き渡っていた仮設住宅にお世話になった方が正解だったかなと、
ちょっぴり後悔しています。
事程左様に、被災者にも様々な事情があり、究極の避難先を決めことは
容易ではなかったし、その決めた避難先に寄り、その後の生活状況の劇的な
分かれ道にもなりましたから。
3,11と同様、能登地方も寒さが厳しい季節です。
あらゆる手段を駆使して、どうか、暖かくしてお過ごしされ、その後の生活先の
選択肢を自治体などが豊富に用意し、被災された方々が、この先、安寧に暮らせる
ようにと願うばかりです。