走るおっさんライダーのブログ -12ページ目
『神』の存在証明について 1
http://ameblo.jp/part-one/entry-11467083676.html
『神』の存在証明について 2
http://ameblo.jp/part-one/entry-11467085942.html
 
前述した前者の著者は、
「『神』が存在する事の証明の為に、『神』が自分を長者番付の10年連続1位にした。」と書いている。
この著者は、株取引、相続などによらず、事業収入だけで納税額が1位になったそうだ。つまり所得が高額と言う事。

会社から日本一高額の報酬を取っていた。・・・では、その企業の収益はどのようにしてもたらされたものか?
自社商品の販売においてであろう。つまり消費者が商品の対価として払った。
これは「商品が良くて、たくさん売れただけ。」と言う単純な話しではない。
企業なら、そこに従業員がいるし、商品の製造には原材料の仕入れ業者もいる。
もっと高い売上をあげている企業が他にもあるにもかかわらず、それらの企業の代表者は、長者番付に上がるような所得は得ていないのだ。
企業が『利益』を上げるためには、単純化すると高い売上額、低い原価率(高い利益率)、低い経費(人件費や福利厚生等を含む)となる。
そして最終的に高額の役員(代表者)報酬を得るには、他の企業に比べ、報酬の比率が売上げに対して高いと言う事になろう。
言い換えると、「安い原材料費と人件費の製品を、消費者に高く売って、その多くを役員(代表者)の報酬に充てる。」と言う事。
 
もちろんこれは他企業との、比率の“比較”であって、必ずしも「仕入れ業者が安く買い叩かれている。」とか、
「従業員が安い賃金でこき使われている。」と単純に言う事にはならないが、そうではないのに、利益率が高いなら、「消費者は(比較的に)割高の金額で商品を買っている。」と言う事にはなるだろう。
しかも、高い企業収益が上がっているにもかかわらず、仕入先や従業員、商品価格への還元より、役員報酬にまわしているだけの話しだ。
 
“走るおっさんライダー”は、このことも批判の対象だとは思っていない。
もし仕入先も従業員も消費者も、一般水準の適正価格の範囲内であり、誰も文句を言わないなら、優れた経営力によるものだと思う。
ただ、これはあくまでもビジネスの話しであって、『神』の存在証明にはならない。
逆に『神』の存在を主張する事で、誰からも文句を言わせないようにしているとしたら、とんだ食わせ者であると言う疑いが出てくる。
これは構造的には、霊感商法に似ている。
それに、自分や、自社製品を取り扱う者が高い報酬が得られるようにして賛同者にしつつ、そう言ったいわゆる“幹部”を目標にさせる形で、末端に自社製品を再販売したり、販売させたりする手口は、ネットワークビジネスに似ている。
 
 
著者は言っている。「上に行くほど楽になる。」
まさに、ネットワークビジネス(マルチ商法)では上位であれば上位であるほど、下位の会員が働く事で、何もせずに収入が得られる構造になっている。
やはり、『神』の名を借りて、自己正当化をしているのではないだろうか・・・。

 
では、ネットワークビジネス(マルチ商法)の問題点とは何か?
この手のビジネスモデルに”走るおっさんライダー”が注意喚起する理由は、『末端に行くほど負担が大きい』と言う点だ。
そのあたりを本質的に見極めなければならないのでは無いだろうか?
これは『不当な格差』を生むだろう。
「『神』を持ち出すことで、上位の者の高い報酬(利益率)を正当化し、さらにその高い報酬を目標とさせ、実は末端にその負担を科す。」
となると、霊感商法とマルチ商法のあわせ技だ。
 
“走るおっさんライダー”は、『格差』自体は問題視しない。適正な努力や能力の差は、報酬の差になって当然だと思う。
適正な努力や能力の差とは、社会に対する貢献度の差である。社会から対価を得る以上、それが評価対象になるのは自明だ。
 
“走るおっさんライダー”は『機会不均衡』を問題だと思う。努力や能力=社会への貢献度が、正当に評価されないと言う事。
つまり『機会不均衡』が『不当な格差』となり、社会にとってマイナスになり得ると思うからだ。
「高い税金を納めることで、社会に貢献している。」と見る向きもあるかも知れない。
しかし、“正当な納税”と“正しいビジネスモデル”に関連は無い。
納税の原資が、末端に大きな負担をかけることで生み出されたものなら、“正しいビジネスモデル”とは呼べないのではないだろうか。

しかも、末端に大きな負担をさせるビジネスを、『神』が奨励するのだろうか?
 
(つづく)
『神』の存在証明について 1
http://ameblo.jp/part-one/entry-11467083676.html
 
「まず自分が“幸せ”を感じ、“幸せ”になってから、さらに“余裕”が出来たら誰かを助ければ良い。」と言うのも、この手の書籍などには共通している。
何の“余裕”なのだろう・・・?その“余裕”とは“物(金銭)”的“余裕”を言っているのでは無いだろうか?
“物(金銭)”が無くても“幸せ”を感じられるなら、“物(金銭)”が無くても“余裕”はあると言えるはずだ。
ならば「まず」ではなく、直ちに誰かを助ければ良い。しかし、そうは言わないのだ。

「助けたくても“物(金銭)”の余裕が無いから・・・。」と言うならそれでも良い。
最初から素直に「“物(金銭)”的な豊かさが無ければ“幸せ”ではありません。」と言えばいいのだ。
 
“走るおっさんライダー”は、そもそも
他人を助けるのに、自分の現状を条件に加える必要など無いと思っている。
例えば、自分に悩みがある時でも、他人の悩みを解決する手助けが出来るかもしれない。
自分が金銭的に苦しくても、友人にチャンスを与えることも出来るだろう。
「そんなのは長続きしない。」と言うかもしれない・・・。
しかし、長続きしなければならない理由があるだろうか?
できる時に、できる事をすればいいだけだ。
 
もう一つ、“物(金銭)”を別のものに置き換えて例を出そう。
「あなたに恋人がいなければ、まずあなたが恋人を作り、それが出来てから、恋人がいない友人がいたら誰かを紹介しなさい。」
「自分に恋人が出来ないうちは、人の世話を考えなくて良い。」となるのではないか?
自分とは合わないが、友人にはぴったりだと思う人と出会ってもだ。なんとも身勝手な事だと感じてしまう。
「恋人が出来ずに落ち込んでいる友人とは縁を切り、大勢の異性(恋人候補)が周りにいる人と友人になりなさい。」と言う訳だ。
確かにそうすれば、恋人が出来る確率は上がるだろう。
しかしだからこそ、利己的で弱者切捨ての論理だと言うのだ。
いや、それを批判しているのではない。そこまでして利己的に、自分の事しか考えないなら勝手にそうすればいい。
ただ、それと『神』の存在や『宇宙の法則』だと言うのは、どこにも関連性が無いし、
まるで『神』の意思や『宇宙の法則』の伝道者のような風で、自分の強い欲求を、自分以外のもの(神など)に転嫁して誤魔化しているだけでは無いだろうか?
しかも、こういったまやかしに、簡単に乗せられている人が多い事も、嘆かわしいと感じる。
 
これをビジネスに置き換えると、
1 自分が取り扱う“商品”のビジネスを、喜びと感じる事。
2 その“商品”を販売して、利益を得る事。喜びを持ってセールスすれば、そこに説得力が生まれる。
3 利益を得られるようになったら、別の誰かを誘って同じようにその“商品”の販売させ、利益が得られるようにする事。
4 このように行われたビジネスで、もし自分が利益を上げるまで行かなくても、不平・不満を言ってはいけない。
 
一般的な代理店制度のビジネスなら問題ないが、この“商品”が『再販売』の形式をとるなら、ネットワークビジネス又はマルチ商法と呼ばれる形態であろう。
そしてこの形態のビジネスは、注意が必要なのだ。
 
(つづく)
先日紹介した本、
『変な人の書いた世の中のしくみ』斉藤一人著 を読みながら気づいていたのだが、内容的にほぼ同じ事が書かれている本を、以前に読んだ事があった。
『宇宙につながると夢はかなう』浅見帆帆子著 2009年4月22日発行 である。
前者は『神(の意思?)』を持ち出していたが、後者は『宇宙の法則』と言っている。
 
あらかじめ断っておくが、これは個人的意見、感想である。
 
この両者に限らず、似たような内容を書いている本が溢れているようだ。
○普通の日常に幸せを感じましょう
○幸せだと思うことで、さらに幸せを呼ぶ
○まず自分が幸せになれば、周りも幸せになる
○ツイている人の周りに、ツキが寄ってくる
○全ては運命に導かれている
○見えない世界が存在する
○“物(金銭)”による幸せより、“心”の幸せが大切
などなど・・・
そしてそれらは『神の意思』とか『宇宙の法則』だと言う。
 
残念ながら、どれ一つとってもそれが『神』や『宇宙の法則』の証明になっていないと思う。
「実際に起こっていることは、科学では説明できないが、『神(或いは宇宙の法則)』から考えると説明が付く。」
と言うように考えているようだ。
本人が本当にそう思っているのか、単に対外的にそう主張しているだけかは解らないが・・・。
いずれにしても、「このように考えて生活している私は“豊か”である。」と言う場合が多いように思う。
 
変に思わないだろうか?まず第一に・・・
「“物(金銭)”によって幸せは得られない。」と言いながら、結果的に自分が“物(金銭)”的に豊かである事を、その主張(『神』の存在)の妥当性の証明のように扱っている。これは矛盾だ。
そして、こういった主張の本を読んで、同意する者もまた、結果的(潜在的)に“物(金銭)”の豊かさを求めていると思われる。
 
それから、こう言った論理は、利己的で弱者切捨ての論理だと思う。言い換えると、
「どうしようもなく落ち込んでいる人を視界から排除し、元気で幸福(豊か)な人と親しくなれば、おこぼれに預かれますよ。」
・・・と言う事にもなる。
「落ち込んでいる人は、考え方を変えて前向きになれば、おのずと幸運が寄って来る。」と反論されそうだ。
しかしこれは空論だ。
「戦争を無くすには、全ての人が全ての武器を捨てる事。今までの不満や恨みを全て忘れる事。」ぐらいのレベルだ。
この理屈が間違っているかどうかではない。そうするための具体策が無いのだ。これだけでは現実性が無い事に気づかなければならない。
このような主張を振りかざしても、全人類が「それはそうだ。じゃあ武器を捨てよう。不満や恨みを忘れよう。」とはならない。
 
しかも、強者・幸運の持ち主だけが集まれば、そしてその中に入れれば、確かにその人はおこぼれに預かれるだろうが、世界には、そうしたくてもそうできない、ぎりぎりの環境に置かれている人が大勢いる。
食うや食わずの難民や、ストリートチルドレンたちに、
「今を幸せだと思えば幸運が舞い込みますよ。」
「“物”があっても“幸せ”ではありませんよ。」と言うのだろうか・・・?

それが『神の意思』なのだろうか・・・?
 
(つづく)

『永遠の0』 百田尚樹著 2006年8月発行

160万部売れたベストセラー小説を読んだ。
ゆえにストーリーやレビューなどはネット上で多く見られるだろう。
しかし、多くの人が読んだ方が良いと思う。恐らく感想は人それぞれではないかと思うからだ。

 

とても素晴らしい小説だった。名作だ。
心を揺さぶられ、読了後も様々な事を考えさせられる。


主人公である宮部久蔵の生き様は、第二次世界大戦中の日本においては異端だった。
自らの価値観に従い、まわりの空気や評価・評判に流される事なく、その意思を貫こうとした。
死を覚悟して当然の戦時の軍人の中にあって、“勝つ”事よりも“死なない”事を優先したのだ。
しかし、彼は終戦間際に“特別攻撃隊”、いわゆる“特攻”でその命を落とした。なぜか・・・?

この物語は、一人の航空兵の短い生涯を追うと共に、大戦当時の日本、軍司令部、前線の兵、国民の生活など、様々な状況が“描かれ”ている。“書かれ”ているのではなく“語られ”ている。
小説だからフィクションなのだが、史実上の人物も登場しており、それらは事実に基づくものではないかと感じる。


この大戦以前からの世界情勢や国内情勢が大きく関わってただろうから、なぜ開戦に至ったかは様々な意見があると思う。
最初は誰かの私利私欲によるものかもしれないし、本当に国のためと言う動機だったかもしれない。
自らの主義主張や価値観や正義、他者・他国に対して、力によって押しつけようとする姿勢が争いを生み、
それに対する怨みが、報復の連鎖となったとも考えられる。
もしかしたら、人それぞれ違う動機が、手段としての戦争に収束して行ったのかもしれない。
となると、原因を一つに絞るのは困難ではないかと思える。

 


2月3日の『そこまで言って委員会』では、アメリカ人コメンテーターの発言で、
「従軍慰安婦問題を、民間の慰安所設置を認める形で“従軍”を否定する論法は、“その慰安所が設けられた原因としての、日本の侵略戦争まで正当化しようとしている”と欧米に受け取られている。」
と言うような発言があった。おかしな発言だと思った。
論点を拡げて「侵略戦争だったのだから、民間の慰安所だとしても、日本軍が設置させたのと同義である。」とは暴論である。
(この話題は後日に回したいと思う)

 


とにかく戦争は多くの犠牲を強いる。

戦争は政府が起こすのだろうが、戦うのは政治家ではない。軍の司令部でもない。
前線の兵であり、彼らはそれぞれが一人の人間である。
しかし本書では、日本のほとんどの軍司令部や士官が、兵を人として扱っていなかったであろう様子が“語られ”ている。
一部のエリートが、その他大勢を自分より下に見て、将棋の駒、道具や備品のように扱っていた当時の状況は、現在の、国民に誤った情報を与え、騙し、誤魔化そうとする一部の組織や政治家、官僚らの姿勢に共通していると感じてしまうのだ。

 

“走るおっさんライダー”は、「だから政府、政治家、官僚を信用するな。」と言うつもりはない。
「信用できる政府、政治家、官僚に出来るかどうかは、我々国民にかかっている。」と言いたいのだ。
「あの人が賛成するから自分も賛成。」「この人が反対するから自分も反対。」
「テレビ(新聞)が言っていたから・・・。」などの思考停止の判断がいけないのだと思う。

 

ある宗教団体では、「全世界の人が、私たちの教義に従うなら(教団に帰依したら)、世界は平和になります。」と言う。
またある人は、「上手に外交をして、友好的に他国と付き合えば、日本に軍隊(自衛隊)は必要ない。」と言う。
しかも同意しなければ「平和を願っていないのか!」「戦争がしたいのか!」と、こう来る。

そして「出来ないと思うから出来ないのだ。出来ると思えばいつか実現できる。」とまで言う。
「だから入会して多くの人を勧誘しなさい。」だの「とにかく外交しかない。」などと言う。

「私の言っている事が理解できないのは、勉強不足だからだ。」と自分の意見を絶対視している。

 

これらは、全く具体性の無い空論だ。そして他人の価値観を尊重していない。
この程度の空論なら“世界中の人が武器を捨てれば戦争は無くなる”と言っているのと同じなのだ。同様の空論なら幾らでも言える。

”走るおっさんライダー”の意見は、

まずは“騙されないようにする事”“誤魔化されないようにする事”
それぞれが“本質を見極めようとする事”からだったら、始められるのではないだろうか・・・?と言うことだ。

(異論・反論大歓迎です。)

『仏教ビジネスのからくり』 井上暉堂著 2010年10月30日発行
この本の著者は、慶應義塾大学卒。プロボクサー、新聞・経済誌記者、慶應ビジネススクールにてMBA修得などの経歴が並ぶ。
臨済宗の老師でもある会社経営者ということだ。

内容は
序 章 「知らぬが仏」では済まされない
第一章 知られざるお寺のガバナンスシステム
第二章 戒名・お墓・お布施の真実
第三章 ビジネスマンも顔負けの仏門ビジネス
第四章 ボーズ・ビー・アンビシャス(坊主よ大志を抱け!)

である。

宗教・・・特に仏教の歴史背景と現在の制度の概略、宗教法人が、いかに税金面で優遇されているかが最初に紹介されており、更に、どのように運営されているか・・・や、収益の構造も示されている。
宗教を信仰する人の心理やきっかけは様々だと思うし、その信仰の強さも人それぞれだろう。
“走るおっさんライダー”は、特に新宗教・新新宗教の問題に興味は強いが、既存宗教の問題点も多いと思う。

この本で述べられているのは、信者の信仰の姿勢や、オカルト的な部分ではない。
『寺』及び『宗教法人』というシステムの問題点
や、今後の道筋を示すものと言えるかもしれない。

宗教が、宗教としてあるべき姿とは一体何なのか・・・?
既成の仏教が、葬式仏教と呼ばれるようになって久しく、多くの坊主、僧侶も、仏教を心の拠り所としてではなく、職業の一つ、生活の糧として扱っているように思える。
各人の思いとは別に、法律制度もそう言った扱いを助長していると感じられるのだ。

そして、既成宗教の問題点を逆手に取り、宗教法人制度を利用して、新宗教・新新宗教が数多く立ち上げられ、
『救済』の建前のもと、一時期は強引な勧誘によって信者を増やし、信者から金を集め、そのいくつかは大きな力を得た。
そこに、現在の“宗教団体”或いは“宗教法人法”の本質的な問題点があるように思う。



大雑把に言うと“走るおっさんライダー”は、キリスト教と、新宗教・新新宗教とに共通点があると思っている。
一つは、キリスト教の終末思想による脅しと、仏教系の宗教では、先祖とか祖先の罪の償いなどである。
ニュアンスはそれぞれで違いはあるが「このまま行けば破滅だ。」と言って、信者を自教団の指導に従わせる点で共通しており、もっと言えば、自然保護などを叫ぶ人たちも同じことをやっている。

しかしこれらは、論理的に説明しきれていないのである。「科学的な証明がないから。」とは言わない。
現在の科学が、全ての事象を説明するまでに至っていない以上、“科学的な証明”は絶対ではないからだ。

例えば、天文学による天体の軌道が知られていない時代。
まれに起こる、太陽が月に隠される“日食”は、それを見たことがない人に、
「ある日突然お日様が黒くなり、雲一つない晴れた昼が夜のように暗くなる事があるのだ。」と言っても、
「俺はそんなのは見たことがない。見てないものは信じない。」と言ったかも知れない。
天文学が無い時代だから、その時代に「科学的に証明してみろ。」と言われても無理な話である。

やがて“日食”が起こった時「これは奇跡だ。神の仕業だ。神は存在する。」と言う者がいたかも知れない。
しかし、現在なら誰でもわかるとおり、それは奇跡ではなく、神の存在証明にもならない。

現時点で解明できない珍しい事象があっても、それは“神”や“天国と地獄”、“奇跡”“輪廻”“心霊”・・・、
そう言ったものの、論理的な存在証明には必ずしもならないことを、多くに人に認識してもらいたいものだと思う。

そうでなければ、
それを利用(悪用)して、人々を騙そうとする輩が常に出てくるからだ。
このような、人を脅したり騙したりする行為は、社会にとって害なのである。

『変な人の書いた世の中のしくみ』斎藤一人著 2012年10月20日発行
著者は、長者番付が発表されていた期間、株や土地、相続を除く事業所得のみで、
12年ものあいだ高額納税者のトップだったそうである。
長者番付は未発表になったので、確認することはできないが、記録は続いているかもしれない。

本の内容は、タイトル通り著者のとらえる“世の中のしくみ”が書かれてる。
どのようにして、幸せな人生を送れるようにするか・・・。
どうすれば、楽しく仕事ができるようになるか・・・。
男とは・・・。女とは・・・。結婚とは・・・。
そのようなことが、親しみやすい文章で書かれている。

著者は『神』の存在を信じているそうだ。

本書で語られていることは宗教ではないと言いながら、何度も『神』の存在や『輪廻』『魂』を説いている。
「信じなさい。」という押し付けがましさはない・・・。が、読み進めると、漠然と信仰が刷り込まれた大半の日本人なら、『神』の存在について、様々な角度から裏付けがされていると感じるのではないだろうか・・・。

初期仏教で「わざわざ他宗教を批判してはいけない。」と(おそらく)釈迦牟尼が語ったと同じように、著者は、それぞれの信じる信仰(宗教)を肯定する姿勢を見せる。
一方で、例えば現在の多くの宗教団体の信者が“経を読む”行為は、説いた本人(教祖)に説いた内容を聴かせると言う、言われてみればもっともな“矛盾”を指摘する。

著者の説く『神』は、仏教で否定している“欲”を肯定し“儲ける”ことを奨励する。
強すぎてはいけないが、上手に付き合えばいいと主張する。
中学卒業後すぐに社会に出て働き始めた著者が、長者番付に名前が挙がるまでになった事実が、本書で書かれている“世の中のしくみ”や“『神』の存在や『輪廻』『魂』”などについて、一つの説得力になるのかもしれない。

・・・のだが、
“走るおっさんライダー”は、『神』『輪廻』『魂』については、容認できる内容ではないと感じる。

それ以外の部分については、多くの点で同意できるのだが、この点については同意できない。
まず『神(または仏)』の存在について、
「神(仏)は~~~と考えており、実際にその通りのことが起こっている。」といった論調がある。
この時の“~~~”の部分は、主張する主体によって様々に変化する。
イカサマ宗教などでは、過去に言ったことと、今言うことが違うこともある。

これは、現実に起こっている現象に対して、追認する形で“神(仏)の意思”を決めているからだ。
逆に言うと“神(仏)とはどういうものか”の定義が統一されていないのである。
ある誰かの言う『神(仏)』の定義に矛盾が見つかり、存在が否定されても、他の誰かがその矛盾を埋める変更を加えて、別の定義で『神(仏)』が存在すると言い出すのだ。
そして、確認できない点では、存分に自説を展開させる。
しかし、どのような説からも『神(仏)』の存在を証明する普遍の定義は見えてこない。

例えば、飼い犬にとって飼い主である人間は、大げさに言うと『神』のような存在だ。
生殺与奪の“権利”というと少し語弊があるが、その力を持っている。
しかし、なんでもないのに、その生命を望んで奪うことを正常な人間ならしない。
また、そうしたくない為に、つまり良好な関係を保つために、飼い主は飼い犬を躾ける。
飼い主が飼い犬を躾ける時、良い事をすれば直ちに褒め、悪い事をすれば直ちに叱らなければならない。
何が良い事か、何が悪い事か、明確に理解できなければならない。
“直ちに”でなくていい場合は、相手が、具体的に何が褒めるに値するか、叱られているのか理解できる場合に限られる。


“走るおっさんライダー”の考え方は明確だ。
もし『神』が存在し、人間の生殺与奪の権利を有するのなら、そして『神』に望んで人間を抹消しようと言う意思がないなら、人間が過ちを犯した時には、何が過ちかが明確に分かる様に罰を与えるだろう。
「それも『魂』の修行だ。」と言う人もいるが、何が過ちかが理解できなければ、同じ過ちを繰り返す可能性が大いにある。

地球では、今だにどこかで戦争が行われ、地震や津波、台風や竜巻、落雷や豪雨などで失われる命がある。
病気や事故、貧困で失われる命もある。その全てに罪があるのだろうか?どんな罪があるのだろうか?
生後間もない命が失われると「前世での罪」などと言う人がいるが、そんな罪なら、命を授かる以前の問題ではないだろうか?

もし『魂』が『輪廻』を繰り返して修行の為にこの世に生まれてくると言うなら、
「“まれ”に、前世(と主張する)の記憶を持つ人が現れる。」と主張しても、それが前世の記憶だとどうして言えるのだろうか?
さらに言うなら、“まれ”にではなく、“常”に前世の記憶を持って生まれるべきである。
それでこそ、前世の罪を償い、『魂』の修行ができるはずである。

“走るおっさんライダー”は、『神(仏)』『輪廻』『魂』の存在を信じていない。
しかし、だからといって人や物を粗末にすることはないし、人間関係を軽視することもない。

社会の中で生きる以上、人間同士のルールを無闇に無視できないからだ。
それは、単体で生きられない人間の本能にも反すると思っているし、人間のルールは『神(仏)』が決めるのではなく、人間同士や社会が決めるものであって、それを破れば人間が罰を与えると考えるからだ。

誰も見ていないからといって、何でもしていい訳でもない。
誰も見ていないと思っていても誰かが見ている事もあるだろうし、
見ていないとしても、その時にやったことは、不用意に誰かの前で出てしまう事があるだろうと思う。
わざわざ『神(仏)』を持ち出さなくても、この世がより良い社会に向かって欲しいと願うのに充分である。
逆に『神(仏)』の存在を認める人は、そうでなければ人の道を外れてしまうのだろうか?・・・と不思議に思うくらいだ。

著者は“世の中のしくみ”としているが、“走るおっさんライダー”が読んだ限りでは、
“しくみ”と言うより、どのような“心構え”で居るか・・・と言ったところではないかと感じた。

さて最後に余談になるが・・・、
著者が事業所得のみで高額納税者になったのであるなら、随分利益率の高いビジネスをしているんだなぁ・・・と思う。
利益率の高いビジネスは、IT関連の企業、すなわち情報関連のビジネスとか、特殊な技術や権利を有するビジネスが殆どではないだろうか。
商品の製造・販売のビジネスで高い利益率を確保できるのは、そもそも商品の価格設定の面で・・・(略
などと、うがった見方をしてしまう。

商品に特別高い付加価値を持たせることで、高い利益率を得ることもできるが、競争相手が出てきて、なかなか長くは続かない。
利益率や利益額の高い企業の中には、その利益をオーナーの所得にするより、株主への配当とか、社員へ還元したり、福利厚生を充実させたり、或いは技術や新規事業の投資に回すのが一般的だと思うが、そうはしていないのだろうか?
それに、企業が高収益を上げ、高額な税を払いたいなら、所得税で払うより、なぜ法人税で払わないのだろうか・・・。
そこにどんな意図があるのかはわからない・・・。

「大切なものは目に見えない(んだよ)。」
時々耳にするこの言葉は、もともとサン・テグジュペリの『星の王子様』に出てくる言葉だ。

 

Wikipwdiaによると
 ---<引用>---
 『星の王子さま』(ほしのおうじさま、フランス語原題:Le Petit Prince)は、
 フランス人の飛行士・小説家であるアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの小説である。
 彼の代表作であり、1943年にアメリカで出版された。
 ---<引用終わり>---
となっている。

 

前々回の記事で、”走るおっさんライダー”はこの言葉が嫌いだと書いたその理由は、
一つには、逆説的に「目に見えるものは大切ではない。」と言っていることになるからだ。
しかし、果たしてそうなのだろうか?

 

まず「目に見えないもの」として、こう言った場合多くの人の頭に浮かぶであろうことは、
“愛”“思いやり”“慈しみ”などの感情、
“魂”“心霊”“精神世界”“非物質社会”などと言った、存在証明ができないことなどではないだろうか?
そして、「それらの“目に見えないもの”を大切にしなければならない。」と言う主張へとつながる。

 

しかし、“憎しみ”“妬み・嫉み”“嫌悪”も「目に見えない」感情である。
それなら、一般的な意味としての、プラスの(好意的)感情もマイナスの(敵対的)感情も、
同じように「目に見えないもの」として、大切だということになるが、そこまで考えているのか?

 

「大切なものは目に見えない。」という言葉を悪用する者は意識的に、
この言葉を言われた側は無意識に、プラスの(好意的)感情の部分だけを想起し、
「だから・・・」と、これに続く主張を否定しにくくする効果があり、危険だと思うのだ。


更に、存在証明ができない“魂”“心霊”“精神世界”“非物質社会”などを指して言う場合、
宗教においては、脅しに使われたり、またその宗教の正当性に使われているのではないだろうか?
そもそも、物理なり科学なりの分野で、「目に見えないもの」の存在の全てを否定してなどいない。

目に見えるかどうかは、物理や科学の分野では大した問題ではないだろう。

 

その他の例としては、富める者を批判する時に、
「物質(財産・金銭)的に豊かであっても、必ずしも心が豊かとは限らない。」と言った意味を込めて使われるだろう。
しかし、そんな因果関係があるとは言えないし、比較することもできないのではないかと思う。
つまり単に、自己弁護(言い訳)ではないかと思うのだ。

 

“走るおっさんライダー”は富める者ではない。しかしだからといって、富める者をそれだけで批判する気はない。
正当な努力の結果築いた正当な財産なら、その財産を持つ者が

「心が豊かではない。」と言えるはずが無いと思うのだ。
正当な努力とは、誰かの役に立つということであり、正当な財産は、その結果として頂くお返しによって築かれる。
だから正当な財産の大きさは、どれだけ役に立ったかの証とも言える。
高い生産性や、優れたアイディア、公益性の高い重要な事業などには、それに見合った高い報酬があり、正当な財産になる。

 

坂本竜馬の興した亀山社中が利益を上げることは、批判されるべきことか?
松下幸之助氏、本田宗一郎氏、盛田昭夫氏などが、世界的な企業を作り上げた業績は「目に見える」から、大切ではないのか?

 

ちなみに不当な努力とは、“騙し”や“脅し”であり、それによって築かれるのは不当な財産だ。
地位や身分を利用して、特別な利益供与を受けたり、特権が与えられる場合も、地位や身分による“脅し”と言えるだろう。


そもそも、金銭(貨幣)や土地などの資産も、単純に「目に見えるもの」とは言い難い面がある。
日本の貨幣は、日本国の“信用”という「目に見えないもの」に支えられている。

「だから、目に見えないものが大切なのだ。」と言うだろうか?
「いやちがう。」と言いたい。
土地の価値は、原発の事故で「目に見えない」放射能に汚染されれば、その価値を失うのだ。
放射能による汚染は「目に見えない」が、大切ではないはずだ。

 

「大切なものは目に見えない。」という言葉は、
「目に見えないもの」と「目に見えるもの」とを二分し、一方が大切で、もう一方が大切ではないと言う。
しかし、このような二分論で語れるものではない。
つまり「目に見えても見えなくても、大切なものとそうでないものとがある。」のだ。

 

魂があろうがなかろうが、肉体という「目に見えるもの」があるからこそ、生があり死があり、死を悼む感情がある。
「現世は魂の修行の場」という人がいるが、「目に見える」肉体がなければ現世の魂の修行はできないだろう。
財産があろうがなかろうが、その多少が幸福感と因果関係にあるとは言えないのだ。
そんなことで、努力をしないことのなぐさめに使ってはならないと思う。

 

「大切なものは目に見えない。」という言葉は、絵本の中の言葉だ。

絵本の中だけでなら、取り立てて文句の言いようはない。
もっと言うなら、“走るおっさんライダー”は、この言葉自体が嫌いというより、


本当は、この言葉を“知ったような顔をして、実社会で言う”場面が嫌いなのだと言ってもいいかもしれない。

2013年 あけましておめでとうございます。

前回の予告では、嫌いな言葉に関してでしたが、年初なので別の話題にしたいと思います。

 

“走るおっさんライダー”は、中国という国が好きではない。

中国は、反日教育を行い、領土に関して日本だけでなくほかの近隣諸国間でもトラブルを抱えている。

デモが禁止されているにも関わらず、日本企業や日本の商店に対して被害を与えた。

靖国参拝では日本の国旗や、首相の写真を焼くなどをするが、

逆のようなことを日本がすれば「内政干渉だ!」といった具合だ。

 

さて、“走るおっさんライダー”は日本人である。

日本の領土を侵害されそうになれば不快になる。

反日教育によって日本に反感を抱いていると感じると、なかなか親近感は湧きにくい。

同じようなことが韓国に対しても言える。

 

同時に、日本政府のそれらの問題への対応に不満を感じることもある。

「もっと、毅然とした対応を・・・!」と・・・。

つまり、個人である自分と日本政府の言動は一致しない。

また、合わせて日本国民それぞれで、考え方が違うことも承知している。

ある部分に関しては、自分の考えが、多くの国民の総意とは違う部分があると思われることもある。

 

 

こう考えてくると、自由を制限され、共産党政府の一方的な情報を受け入れるしかない中国国民と、

中国共産党政府を、同じだと考えるわけには行かないのではないか?と思える。

 

もし、中国共産党政府の方針や主張が気に食わないからといって、

中国人や在日中国人の全てを敵視してもいいものだろうか?

 

もし、中国人の常識と日本人の常識や倫理観が違うからといって、中国人の全てを嫌うのなら、同じ事はそれ以外の国の人にも言えることだろう。

 

他国の人と付き合いをするなら、他国の常識を知る必要がある。

とは言え、知ったからといって、必ずしもそれに合わせる必要はないだろう。

しかし、常識は常識。全ての人がその常識にとらわれている訳ではないはずだ。

 

中国共産党政府の日本に対するいろいろな攻撃に対しての対応は、中国共産党政府に向けるべきだ。

中国人や、ましてや在日中国人に向けるべきことではないと思う。

攻撃に対して、それと同レベルの反撃をするなら、問題の解決、改善にはつながらない。

 

『木を見て森を見ず。』という言葉があるが、

その逆に『森を見て木を見ず。』とも言えないだろうか?

 

今年が、昨年より良い世界になることを願います。

前回紹介した本『傷だらけの果実』新堂冬樹著 2012年9月30日発行
この物語は、ある映画プロデューサーの回顧から始まる。
この業界で一定のポジションを築いた彼の前に、オーディションに募集してきたひとりの女のプロフィールが引っ掛かる。
その女が、彼のキャリアの出発点になった過去の、駆け抜けた青春時代の思い出を呼び起こした。
大学時代、1人の冴えない同級生の女を、彼の才能で輝かせた。
それは自分とその女の、周囲の人間への反抗だった。
 
書店で目に止まり買って読んでみたが、残念ながら“走るおっさんライダー”は、この物語にあまりハマらなかった。
個人的な感想としては、あまりにもドラマ化を意識した作品だと感じられた。
たぶんそれ自体が言いも悪いもない。単に、興味の違いによるものだろう。

あまりフィクション物を読まない“走るおっさんライダー”が、以前読んだ『下町ロケット』だけはとても楽しんだ。
それでたまに、書店で目に付いたフィクションに手を伸ばすようになった。
 
子供の頃は、シャーロク・ホームズや怪人二十面相などの推理小説が好きで、
特に、シャーロック・ホームズの鋭い観察眼による見事な推理は、子供心に胸を躍らせた。
と言っても、正直なところその内容はほとんど覚えていない・・・。
ホームズが、依頼人の女性の平たくなった手の指の腹や、その指が良く開くところを見て、
その女性がピアニストであると言い当てた事だけは、なぜかずっと記憶に残っているのだが・・・。
 
その後、星新一氏のブラックジョークの利いたショートショートを読んでいた。
氏の、予想を裏切る結末が心地よかった。
それは、自分の思い込みや既成概念、そこからくる単純な予想の幼稚さを思い知らされた所もあったと思う。
 
バイクに乗るようになって、片岡義男氏の作品を読み、
松田優作の映画に影響され、大藪春彦氏のハードボイルドにハマった時もあった。
 
社会人になる頃には、ノンフィクション系が多くなり、
最近は、宗教関係、社会心理学、政治経済、国際情勢、物理化学関係なども増えてきた。
 
そういった今、特に嫌いな言葉がある。
「大切なものは目に見えない。」と言う言葉だ。
これに関しては次回(たぶん)に譲ろう。
今年の師走は、例年以上に忙しく、ブログの更新が滞ってしまった。
その中でも読んだ、最近の著作は
『人は死なない。では、どうする?』
    矢作直樹×中 健次郎 共著 2012年7月20日発行
『理性のゆらぎ』
    青山圭秀 著 平成9年(1997年)4月25日発行(1993年5月刊行を文庫化)
『裸のサイババ』
    パンタ笛吹 著 2000年12月11日発行
『傷だらけの果実』
    新堂冬樹 著 2012年9月30日発行
 
4作目は後日に回すとして・・・、
上の三作は、最近気になっていることがあって、取り寄せて読んでみた。
『人は死なない。ではどうする?』は、東京大学の医学部教授と、気孔家・鍼灸師の対話形式で、魂や輪廻、死生観などが語られている。
両者とも、朗らかで、健やかで、実直で、柔和な人となりが伺えると思う。
ただしかし、内容は“走るおっさんライダー”的には、大変失礼ではあるが、ひどいものであると感じた。
ここでもやはり「科学や学問は万能ではない。だから、見えない世界が存在する。」と言う短絡的な発想が感じられ、これを、気孔家ならともかく、日本の最高学府の教授が語るのだから、残念な思いがした。

その教授が、医学的には全く説明できないほど“奇跡的”に回復した患者を見たとしても、だからと言って、魂や目に見えない世界に結び付けるのは、根拠のない“論理の飛躍”だと思えるのだ。
教授と言えば、日進月歩で新たな発見がされている科学や学問の世界を肌で感じているであろうポジションだろう。
それならば、現在の医学で説明できない現象は「これまでの理解に間違いがあった。」とか、「まだまだ、医学には進歩発展の余地が残されている。」と考え、研究する方に向けられるべきだと思う。
とは言え取り敢えず、もし何かに思い悩み心が折れた、或いは折れそうな人には、ある種の“救い”になるかもしれない事を付け加えておく。

『理性のゆらぎ』は、以前日本中で話題になったインドのサイババ(故人)を、日本に紹介するきっかけになったと言われる著作である。
この著者もまた、東京大学の大学院を修了し、発行当時はカリフォルニア州立大学客員教授や理学博士、医学博士の肩書きが紹介されている。
内容は、著者の経歴から、インドを旅してサイババと会い、予言を与えられ、この本を出版するまでの話である。
子供の頃から不思議な物語に興味があり、中学校では寮制のカトリック系中学校に入学し、そこで1人の修道士を師事してヨーガや瞑想の洗礼(比喩的な意味で)を受けている。
その後の著者は、物理化学の道を進み、大学院に進んで博士課程を修了するのだが、“走るおっさんライダー”が読み進めながら感じたのは、著者の思考・思想の中には、中学生の頃の経験が根深く染み付いている、と言う印象だ。
 
現在はどうかよくわからないが、当時はインドのみならず、世界中に信者を持っていたサイババ。
サイババは自らを“神の化身”と称して、物質化現象でヴィブーティ(聖灰)だけでなく、時計や宝石などまで信者の目の前で物質化して見せていた。
著者はこれを目の前で見て、手品などではないと感じたようだ。
と言うより、インドのプッタパルティというところにある、サイババのアシュラム(霊性修行の場)に世界中から多くの信者が集まっているところを目の当たりにした時点で、既に、肯定的な受容の姿勢になっていたように読める。
いや、もしかしたら、この訪問から出版までが1年以上経過しており、述壊する時点で記憶が無意識に、或いは意識的に変質したのかもしれない。
しかし“走るおっさんライダー”は以前テレビで、この物質化現象のネタバラシ番組を見た記憶がある。
このネタバラシ自体が本当かどうかの確証はないが、問題はこの著者が、
“自分にはマジックなどではないと感じた。”とか、
“物理化学を学び研究しても、解明しきれない世界があると感じている。”と言った、非論理的な、と言うか“反”論理的(論理を否定する)現象を肯定する“感情的な動機”が優っていると感じることだ。
この点は先に紹介した著作の教授と共通しているように思う。

『裸のサイババ』と言う著作は、『理性のゆらぎ』と同時に注文し、敢えて『理性のゆらぎ』の後に読んだ。
これは暴露本である。サイババの奇跡と呼ばれる現象が、実はインチキであると述べ、その証拠としての写真が載せられている。
更に、サイババの近くに居た者や、熱心な信者だった家族などに取材し、衝撃的な告白が綴られているのだ。
著者は元々、サイババを肯定する著書を以前に発刊していたらしい。
それが、ある元信者の告白を知ったところから、その検証をする必要を感じたと言う。
その告白は、著者を混乱させ悩ませるに十分なものだったようだ。
なぜならその内容は、
『サイババが30歳以下の男性に性的な興奮を覚える性癖があり、信者やサイババ学校の生徒がその犠牲になっている。』と言うものだったからだ。
著者は欧米を飛び回り、元信者家族や関係者の証言を直接聞き取り、その告白の信憑性に迫っている。
“走るおっさんライダー”は、『理性のゆらぎ』の内容、『裸のサイババ』の内容、どちらも検証をしたわけではない。このような事柄の検証は、一個人では無理な話だ。
だから判断は、その書かれている内容の整合性、論理性によってするしかない。
感情的に、希望的観測に基づいて判断しても、正しさを追求する事は出来ないと思うからだ。

前出の2冊は、どちらかと言うと感情的、情緒的な判断が優先されていると思う。
もちろん『裸のサイババ』にしても、確たる証拠に基づいているかどうかは、写真(ビデオからのキャプチャー)の信憑性をどう捉えるかによる。
しかし少なくとも、既知の物理学に反する現象(奇跡)を認めるのであれば、相応の根拠が無ければならない筈だ。
この2冊に共通すると思ったスタンスは、自分の判断力を絶対的とも言えるほどの基準にしていると言う事だ。
このことは、多くの人にも当てはまる事ではあるが、更に、この為に、他人の進言を軽視する傾向があり、それは自尊心(ナルシシズム?)からくるものだと推測する。

他人より自分を優位に考える事で、他人を見下しその意見を検討しようとしない態度は、
新宗教・新新宗教の一部の信者にも共通する姿勢だ。
オウム真理教の事件で明らかになった、信者の中にエリートと呼べるキャリアの者がいたことはこれらの証左だと言えないだろうか。
宗教の場合は、一見教団とか教祖を絶対視していると見えるが、潜在的には、
“その教団の信者になると決断した自分の判断”を絶対視しているのではないかと思う。
なぜなら、教団を批判する意見に対し、信者は自分が批判されているかのように反応し、併せて、“走るおっさんライダー”の経験から言うと、信者個人は論理的批判に対する論理的反論が出来ないからだ。

単に『物理化学の理論では満足できない。』
『物理化学の理論では、人を幸せに出来るわけではない。』
などと言ったところで、こんな理由で物理化学を根底から覆し、思考停止する理由になるとは到底思えない。
まあ、物理化学は十分人を幸せにするポテンシャルを持っているし、そうしてきたとも思う。
そもそも理論は道具であり、それをどう利用するは、結局使う側の問題なのだから・・・。
 
※“走るおっさんライダー”は、異論反論大歓迎です。論理的に反論が成立すれば、いつでも主張を変更します。