走るおっさんライダーのブログ -11ページ目

(その1)
http://ameblo.jp/part-one/entry-11494538546.html
(その2)
http://ameblo.jp/part-one/entry-11495399067.html
(その3)
http://ameblo.jp/part-one/entry-11495995842.html

(その4)
日本は朝鮮を“植民地支配”したのか“併合”だったのか?
“走るおっさんライダー”は、今のところ“併合”だと思っている。
それは、前回の記事で書いたとおり、対抗本“『嫌韓流』のここがデタラメ”で引用されていた大隈重信の主張からも判断できる。
対抗本で引用しているのだから、この文章をまさか「捏造だ!」とは言わないだろう。

とは言え、「“併合(=同化)”と言っても、相手(朝鮮)が望んでいなければ、“植民地支配”となんら変わらない。」と言う事もできるだろう。
しかしそれは、本当に当時の朝鮮側が“望んでいなかった”場合の話しだ。
更に望んだとしても、結果的に“植民地支配”的な境遇に置かれていたなら、「“植民地支配”となんら変わらない。」と言う事ができる。

望んでいたかどうかについて、「その証拠に反対運動があった。」と言う意見があるが、それだけでは“望んでいなかった”という根拠にはならない。
“望んでいなかった”のが、一部の意見である可能性が考えられるからだ。
同じく、“併合”時の反対運動についても、「政策が苛酷だった。」ことの根拠にならないのは同じだ。

ある意見や主義を多くの者の意見で通そうとする時でも、少数の者がその人たちなりの信念や、利権・私欲を隠して反対する事はある。
もし反対運動を“望んでいなかった”ことの証拠とするなら、望んだ者の行動をもって“望んだ”ことの証拠として認めなければならないのではないだろうか。
一部の反対意見が、必ずしもその他大勢の総意の裏にあると言うなら、現在日本には様々な主義、主張をする者がいるが、一体どれが本音だというのだろうか?例えば日本は共産主義を望んでいると言えるのだろうか?

また、武力による脅しや、金や利権によるなど、後の時代の根拠の無い解釈で「併合を受け入れるしかなかった。」と言うなら、反対運動もまた、そうせざるを得なかった理由を、同じだけ推測する事ができるだろう。
更に、武力による脅威が、それによる条約の無効を主張できるのであれば、原爆によって降伏した日本が交わした条約もまた無効だと言うのだろうか?

もう一点、“併合”が結果として“植民地支配”と「なんら変わらない。」境遇だったかについて、前回の記事で、コメの生産と輸出入について述べたが、その他の主張として、対抗本“『嫌韓流』のここがデタラメ”によると、
第8章 「植民地支配は絶対悪」という真理 の章には、“植民地支配”であるという前提に立ち、その視点で書かれてあるので、非常に偏った解釈だという印象を受けるが、それは置いておくとして・・・。
P181~P185に、日本が主張するいわゆる“日帝36年”に朝鮮に対して行われた“功”に対する反論が述べられている。
1 インフラの整備
2 近代医療の導入
3 農業生産力の向上
4 人口増加
5 奴隷制度の廃止
6 教育制度の充実
7 日本政府の財政「支援」
となっているのだが、既に1については上記で述べた。3と6についても前回述べている。
5は正直よくわからない。7は前回の記事と上記に述べたとおりだ。

2は、全く反論になっていない。
--<引用>--
2 近代医療の導入
たしかに植民地統治期に、近代西洋医学にもとづく病院や医師は増えた。しかし、病院・医師は一貫して不足しており、都市部と農村部の格差は激しく、しかも健康保険制度がない状況で医療費は自己負担だったので、都市部に住む中産層以上でなければ病院での医療は難しかった。一般の朝鮮人にとって病院はとても遠い存在であり、農村部の朝鮮人はおもに民間の医療知識と漢方治療にたよっていた。伝染病対策や保険実務は警察の担当であり、衛生事業は社会不安を引き起こさないための治安対策としての意味合いが強かった。
--<引用終わり>--

はて??日本が西洋医学を持ち込み病院や医師が増えて、一体どこが悪かったのだろうか?
もし、既に導入されていた西洋医学を廃止したとか、病院・医師が減ったというなら反論といえるだろう。
若しくは、当時であれば、日本においても都市と農村部に、医療の格差はあったと思われる。
それでなくとも、朝鮮での医療格差を悪と言うなら、朝鮮において格差が発生した原因としての“何らかの悪意”を明示しなければ意味が無い。

4の人口増加についても見てみたい。
--<引用>--
4 人口増加
植民地統治初期までの人口統計値は調査漏れが多く不正確であり、人口倍増説は間違いである。
人口学者の推計値をもとに考えると、「併合」の年=1910年から40年までの30年間に人口は44%増加しており(年平均に換算すると1.3%)、同じ時期の日本の49%を上回るものではない。ちなみに、1960年の韓国の人口は2499万人、1990年は4339万人で、30年間に74%増加している。
--<引用終わり>--(数字はブログ管理者により便宜上漢数字からアラビア数字に変更)

人口倍増説が間違いかどうかと言う点は、倍増(100%増)したかどうかが争点ではなく、「日本の“併合”は圧政や蛮行、大量虐殺。」という韓国、又は韓国擁護派側の主張に対して出された反論では無いだろうか?
それに対して、推計値から増加率を云々しても大して意味が無い様に思うが、とりあえずこのデータを基に考えたとして、逆に「同じ時期の日本とたいして変わらない人口増加があった。」と言えるのではないだろうか?
「同じ時期の日本の49%を上回るものではない。」という言い方からすると、「日本より上回っていなければ圧政である。」と言いたいのだろうか?
まだまだ、内地日本と同等にするべく環境(インフラ)整備の途上にあった朝鮮で、これだけの人口増加があったのであれば、一つの成果だと思える。

それでももし較べるなら・・・“ちなみに”としてあるので、『較べたのではない』と言うかも知れないが・・・、参考として出すにしても、統治期間の後(日本の敗戦、撤退後)ではなく、“併合”以前、日本の統治前と較べなければならないと思う。
正確なデータがあるかどうかはわからないが・・・

ところで、今回の記事の終わりに、Wikipediaで「韓国併合」を調べた時に見つけた、興味深い記述を紹介したい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88
このページの 「植民地」という呼称が使われることについて  の項目には、
--<引用>--
植民地という用語は元々は「開拓地」や「入植地」などと同様に正否の価値判断を含まない一般術語であり、近代植民地法制学においても社会科学の講学上の概念にすぎない[17]。
ただし、外地を「植民地」「殖民地」と呼ぶことへの感情的な反発は、明治期からすでに存在していた。忌避語・侮蔑語のようなニュアンスがあり、外地を植民地と呼称することは回避され、「我国にては斯(植民)の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ」ことが事実上の慣例となっていた。
(後略)
--<引用終わり>--

この後に、1905年の帝国議会でのエピソードなどが記されている。
これは日本が或いは日本人が、外地を「“植民地”として支配」することを嫌っていた事の、間接的ではあるが参考になると思う。

(つづく)

(その1)
http://ameblo.jp/part-one/entry-11494538546.html
(その2)
http://ameblo.jp/part-one/entry-11495399067.html

(その3)
韓国は、
「1910年から日本が第二次世界大戦敗戦の1945年までの36年間、日本は朝鮮半島を侵略し、植民地支配して労働力と資源の搾取を行った。」と主張し、謝罪と補償を要求している。
日本(左派を除く)の反論は、
「植民地支配ではなく併合であり、インフラの整備など日本の税金を使って朝鮮半島に貢献した。」と言う事のようだ。

ただ“走るおっさんライダー”としては、日本の持ち出しによるインフラの整備は、それによって免罪符とするのは暴論だと思う。
問題は“植民地支配”か“併合”か、一体誰がそれを望んだかではないだろうか。
もっと言うなら、善良な一般人(朝鮮人)を不当に弾圧したかどうかだ。そもそも、朝鮮のインフラに日本からの税金を使ったと言う点は、“植民地支配”としての投資か、“併合(=同化)”のための環境整備(改善)かと言う根本的な違いがあるからだ。

マンガ“嫌日流”では、植民地支配下の朝鮮で、朝鮮人に対する日本人の非道な行いが、何枚もの写真を証拠に“蛮行”として印象付けている。
しかしこの写真は、マンガのページ下部に日本語編集部注として書かれてあるのだが、ほとんどが捏造などの無関係な写真らしい。
“蛮行”の写真を根拠として「併合ではなく植民地支配だ。」と言い、その後に写真が無関係だと判明しても、“植民地支配下での蛮行”と言う印象だけが残っていると言う状況では無いだろうか。
いや、もしかしたらそもそも韓国人の多くは、未だに写真が無関係である事を知らないのかもしれない。
少なくとも、マンガ“嫌日流”の作者は、これを描いた時点では、その事を知らなかった可能性が高い。
ただし、もし知っていながら載せたのなら、作為的な反日の扇動行為だ。

同じ事は慰安婦問題でも言える。
発端は日本で出版された本『私の戦争犯罪』に「軍による強制連行」が書かれ、朝日新聞が大々的に取り上げて初めて問題になったと言う流れだが、これによって韓国は“従軍慰安婦”の補償を訴え始める。
発端となった『私の戦争犯罪』の記述は、のちに創作であり、裏付けが見つからない事から、資料として不十分であるとされたがすでに後の祭りだ。

また、当時の朝鮮から日本へのコメの輸出量(正確には同じ国なので輸出ではない?)に関して、生産性向上を上回る日本への輸出量の増加及び朝鮮国内での消費量の減少を取り上げた主張がある。
これに関しては、朝鮮の人口増大との関連や、コメ以外の食料生産量について、更にはそのコメの販売による収入(換金作物としてのコメ)を見る必要があると思う。
朝鮮で生産したコメを、不当に(無償で)搾取したのかどうかは、コメの輸出量だけでは解らない。

ここで、“植民地支配”か“併合”かについて、対抗本である“『嫌韓流』のここがデタラメ”から、引用したい部分がある。
第6話 間違いだらけのハングル講釈と植民地美化 の章のP145~146
1910年8月15日に日本が韓国を併合し、それから1ヵ月後の9月15日に大隈重信(早稲田大学創始者、総理大臣、外務大臣)の主張とする引用がある。

--<引用>--
「韓国即ち朝鮮がわが日本国の一部となり、我々日本国民は将来朝鮮人教育し、基国土を経営せねばならぬが、・・・(中略)・・・此度の併合に依り日本人の誘導の法其宜しきを得れば、今後二三代経過した後には日本人と朝鮮人との区別ができぬようになるであろうと思ふ。
・・・(中略)・・・然るに若し誘導同化の功が成らなかったとすれば、野卑陰険怠惰なるのであるからして、これこそ実に由々しい大事と言はざるを得ぬ。
而して誘導同化の事実をば、実際に負担するものは教育家であるからして、教育家たるものは彼等に対して不幸憐れむべしといふ同情を有たればならぬ、我此に同情があれば彼亦自然に化せられて、忠良なる国民となるであらう、けれ共我誘導の法其宜しきを失へば、彼等の精神は益々歪み極まつて、益々野卑、愈々陰険にして、破りがたき腹中の賊と化すであらう」(教育時論)第九一五号、三ページ)
--<引用終わり>--

この章を書いた 呉 文淑 氏は、この大隈重信の主張を根拠に、
「日本は進出の当初から朝鮮を侮辱し、日本の一部にしてしまう目的で、新教育の名の下に尋常小学校や師範学校の設立、日本への留学を通して知日派、親日派を育ててきた。」
と書いておられる。
しかし、“走るおっさんライダー”の読んだ感想は、この大隈重信の主張を引くのであれば、まさに当初、日本が朝鮮を“植民地支配”ではなく“併合(=同化)”しようと考えていたことの証拠と言えると思う。
「日本がうまく(其宜しき)誘導同化できれば、将来的には日本人と朝鮮人の区別がつかなくなる。」と言っているのだから・・・。
更に、当時の朝鮮が世界の近代化から遅れており、その国民性が“野卑陰険怠惰”であった事を述べているのである。
この主張を持って「朝鮮を侮辱」と言う前に、その当時の朝鮮の状況、発展の程度や国民性を考えなければならない。
少なくとも、併合前の朝鮮の多くの写真を見ると、他国からの侵略に耐えうるだけの国力を感じさせるものは無いのではないだろうか。
そしてその原因が、当時の朝鮮に“野卑陰険怠惰なる”国民性(或いは当時の政権)が無かったか・・・?と言う点である。
そうであったからこそ、大隈重信は朝鮮人を日本人と同化するべく、皇国の臣民たる様に、実際に多くの学校を設立して教育したと見ることが出来る。
やがて、同じ価値観になった時には、まさに「区別ができぬように」なっていたと想像できる。

果たして当時の朝鮮が、他国の脅威に対抗するだけの状況にあったのか・・・?
日本が併合しなければ、他国の文字通りの“植民地”と化す危険性はなかったのか?
少なくとも日本は、その可能性が高いと見ていたのではなかったのか?ということだと思う。
もしそうなら「朝鮮を侮辱」したのではなく、「朝鮮を正しく認識、理解していた」と言う事だ。
・・・もちろん、韓国国民がこれをたやすく認めるとは思えないが・・・。
ただ、この大隈重信の主張を引いた「朝鮮を侮辱」と言う解釈は、そう解釈する者の中に、前提として“日本を見下す”心理が働いているものと推察する。

では一度、立場を入れ替えて考えて欲しい。
仮に、過去に事実とは逆に、韓国(朝鮮)が日本を“植民地支配”若しくは“併合”をしていたとしよう。
そして当時の、(仮想の)韓国の指導的立場の誰かが、この大隈重信と同じ主張を残していたとする。
やがて後年、日本がこの一文を基に「日本を侮辱していた。」と言ったとしたら・・・。韓国はどう反応するだろうか?
想像力が働かない人は、「そんな事実は無かったのだから、考える必要は無い。」と言うかもしれないが、単に賠償目的で日本を責めているのではなく、真に“正しい歴史認識”を主張するのであれば、試してみてもらいたい。
そうすることで、初めて資料を公正・公平な立場で見ることが出来ると思う。

当初“植民地支配”の証拠と言われた“蛮行”の写真がことごとく否定された以上、将来的に完全な“同化”を目指す“併合”ではなく、あくまでも“植民地支配”と言うなら、他に何らかの証拠がなければならない。
希望的観測(賠償の要求の為)から言っているだけでは説得力は無い。

日本人の中にも日本政府にその責任を求める者(左派)もいるが、その方々は、日本人の常識(=価値観)だけで諸々を判断していないだろうか?
世界の常識、主張する国の価値観を理解した上で、彼らの主張やその背景を考えてみた事はあるのだろうか?
例えば中国や韓国が、自国民にどのような歴史の解釈を教育をしてきたか・・・。
諸外国の歴史は、時の政権に都合がいいように、その解釈を変えているはずだ。

それが世界の常識では無いだろうか?それを踏まえて、彼らの主張を精査して欲しいと思うのだ。

(つづく)
(その1)
http://ameblo.jp/part-one/entry-11494538546.html

(その2)
数年前のテレビで、日本人、中国人、韓国人が出演するバラエティ番組があった。
そこで日本人出演者が「いつまで賠償すればいいの?」と韓国人出演者に聞いたら、彼は「“いつまで”じゃない、永久にだよ。」と叫んだことを記憶している。

韓国政府は、韓国政府の言う“正しい歴史”教育を行って、韓国国民に反日感情を抱かせている。
韓国国民としては「反日教育は受けていない。正しい歴史教育を学んでいるだけだ。」と主張するようだ。
ただ「正しい歴史を学ぶことで、必然的に日本の愚かで卑怯な“実態”を知ることが出来るのだ。」
「だから、正しい歴史教育をしない日本に不満があり、いつまでも謝罪も補償もしない日本にそれを要求するのだ。」と言う事なのだろう。

一体何が“正しい歴史”なのだろうか?日本はどこに、そのように非難を受ける原因があるのだろうか?
多くの人が、あることに関して「それは常識だ。」と言うことがあるが、“常識”が常に“正しい”とは限らない。
また、“日本の常識は世界の非常識。世界の常識は日本の非常識。”と言う事もある。

例えば、日本では何かトラブルが起これば、“原因究明の前にとにかくまず謝る。”が、
世界では謝った時点で、自分の罪を認めたことになる。

アメリカでは罪を告発され裁判になった時、被告人は“認めない”所から審理が始まる。
第二次大戦後の“東京裁判”では、被告人である軍人が、当初その事(罪状の否認)に戸惑ったと、映画『東京裁判』の中でナレーションされていたと記憶している。
また、速度制限無しで知られるドイツのアウトバーンでは、部分的には制限速度が定められており、それに違反して捕まったドライバーは、速度超過を認めて謝る方が、「知らなかった。」とシラを切り通すより罪が重くなるらしい。これが世界の常識のようだ。
日本の“何よりもまず謝り、原因究明はそのあと”と言う常識は、世界では非常識である事を、認識しなければならないだろう。

もちろん、このような“世界の常識”を、日本にも取り入れたいとは思わない。
しかし違いを知ることは重要だ。
この違いに対する認識の甘さが、“河野談話”のような失態を演じてしまったのではないだろうか・・・?
この意味で“河野談話”の見直しは妥当だと思う。これを日本人が騒ぐのは、世間(世界)知らずだと思っている。

さて、“嫌韓流”と“嫌韓流2”は、日本人が日本人のために書いたマンガだ。自虐史観に染まった(多くの)日本人に、再考を促す内容と捉えた。
それに対して“嫌日流”は“嫌韓流”シリーズへの反論のマンガで、これもどちらかと言うと、日本人に向けて書かれていると思われる。
“嫌韓流”シリーズが韓国での“正しい歴史教育”を否定する内容となっている訳で、それを読んで反論として書かれた“嫌日流”は、これを読んだ印象が、だからこそ怒りに満ちていると感じたのか、そもそも一般韓国人に怒りが内在するのかはわからない。
ただ、率直な感想としては、“嫌日流”は理論の根本的な部分で誤りがある。後述するが、明確な誤りだ。
日本人の中には、“嫌韓流”の表現手法において、反感を抱く方もいるようだが、“嫌日流”を読んでどんな感想を持たれただろうか・・・?

“『嫌韓流』のここがデタラメ”
は、“嫌韓流”の話しに沿って、日韓(ほとんどが韓国)の各方面の専門家(?)が、指摘・反論をしている。
個人的な印象だが、表紙には“まじめな反論 不毛な「嫌韓」「反日」に終止符を! 対話と協力で平和を!!”となっているのだが、そのように意図して書かれたとは思えない。文章の端々に、偏見と怒りと憎悪がにじみ出ているように感じた。
後に具体例を挙げたいと思うが、“対話と協力で平和を!!”と主張するなら、感情的な表現を慎むべきだと感じた。

まず“嫌韓流”では、以下のような話に分けて書かれてある。

第1話 「日韓共催ワールドカップの裏側」
  韓国人に汚されたW杯サッカーの歴史
第2話 「戦後補償問題」
  永遠に要求される金と土下座
第3話 「在日韓国・朝鮮人の来歴」
  在日が歩んだ歴史と「強制連行」の神話
第4話 「日本文化を盗む韓国」
  日本文化の窃盗と著作権無視 パクリの実態
第5話 「反日マスコミの脅威」
  日本を内側から蝕む反日マスコミのプロパガンダ
第6話 「ハングルと韓国人」
  自称「世界一優秀な言語」ハングルの歴史と秘密
第7話 「外国人参政権の問題」
  外国人(=在日韓国人)が参政権を持つということ
第8話 「日韓併合の真実」
  朝鮮の近代化に勤めた日帝36年の功罪
第9話 「日本領侵略――竹島問題」
  互いに領有権を争う日本と韓国 それぞれの主張
エピローグ「日韓友好への道」

“嫌韓流2”
は、以下の通りである。
第1話 「終わりなき反日」
  歪んだ社会が生み出す「反日無罪」
第2話 「世界で嫌われる韓国人」
  共存できない民族による深刻な被害
第3話 「在日特権の真相」
  「差別」を武器に君臨する新特権階級
第4話 「日本海を汚す韓国」
  領海侵犯と日本海呼称問題
第5話 「教科書採択問題と日教組」
  反日勢力による教科書汚染の実態
第6話 「人権擁護法案と反日マスコミ」
  反日日本人と朝鮮半島をつなぐ線
第7話 「差別大国 韓国」
  あらゆる差別が詰まった人権無視国家
第8話 「歴史を捏造する韓国」
  偽りの歴史と改竄された民族の記憶
エピローグ「『嫌還流』の先にあるもの」

それぞれの問題が関連し合っており、一つずつの事柄を分けて、単独で解決していくことが難しいと思えてくる。
”走るおっさんライダー”は専門家ではないので、学問的な検証を加える事はできないが、言いたいことはこちらの“嫌韓流”シリーズの方ではなく、主に対抗本に対してである。

以降の記事から、具体的に特に気になった点を取り上げていきたい。

(つづく)
現在竹島の領有権で、日本と韓国は主張が対立している。もちろんそれだけではなく、靖国参拝、従軍慰安婦問題、戦後補償問題などもある。
先日読んだ『韓国男性に恋してはいけない36の理由』では、韓国人男性が広く一般的に日本を嫌っている事が書かれてあった。
この本によると、韓国人男性は日本を執拗に意識し比較し、何かにつけて自国(韓国)や自国民(民族)が世界一優れていると主張するらしい。

前回の記事(その1)http://blogs.yahoo.co.jp/partone1994/8965661.html
前回の記事(その2)http://blogs.yahoo.co.jp/partone1994/8966402.html

前回のこの本に続き、ネットでいろいろと調べていて、目に付いた記事を辿っていると、あるサイトに行き着いた。
韓国で『嫌日流』と言う漫画が出版されていて、それにはかなりおかしな日本が描かれていると言う。
そのマンガを題材に、反証してあるのだが、そこで初めて、それより先に日本で『嫌韓流』と言うマンガが出版されている事を知った。

世界史コンテンツ http://www1.odn.ne.jp/~aaa23320/sekaisi.html

このサイトで取り上げられている『嫌日流』の日本は、日本人の知らない日本のようだ。と言うか、知るはずの無い日本である。
作者は一体どうやって、現在そして過去のこんな日本の姿の情報を得たのだろうか・・・。と、笑いさえ出てくる。
昔“走るおっさんライダー”は、外国のどこかの学校で、日本の昔話『浦島太郎』が紹介されていて、そこにはイラストつきで、浦島太郎がワニに乗って竜宮城に行ったことになっている。と聞いた記憶があるが、それを思い出した。

とにかく、一度読んでみようと思い、その両方をネットで注文しようとしたら、実は『嫌日流』と言うマンガが他にもう一冊あることを知った。
そのもう一冊の『嫌日流』の方が、真面目(マシ)な『嫌韓流』の対抗本のようだったので、結局そちらを注文する事にした。

韓国でどのような“反日教育”が行われているかを知る、参考になるかもしれないと思ったのだ。
同時にもう一冊、これはマンガではないが、『嫌韓流』の対抗本があったので、そちらも注文する事にした。

コミック
“嫌韓流” 山野車輪 著 2005年9月1日発行
“嫌韓流2” 山野車輪 著 2006年2月22日発行

“嫌日流” 金城 模(キム ソンモ)著 2007年5月1日発行

“『マンガ嫌韓流』のここがデタラメ” 姜 誠,太田 修/朴 一/鄭 夏美/鄭 雅英/呉 文淑/綛谷 智雄/藤 永壯/半 月城/高 吉美 著 2006年5月10日発行

学問的に突き詰めて調べるのは専門家にお任せしよう。

更に、多くの専門家がいるであろうと思われる日韓それぞれの認識の違いに関して、それでも尚、いつまでも両国の認識が一致しないところを見れば、一般人が片手間に調べたところで、誰もが納得するような結論が得られるはずも無いだろう。

考えるべきは、
まず、一般の韓国国民の“正しい歴史”とは、どういったものか?どのような根拠に基づくものか?・・・を知り、それに対する日本の見解にどのようなものがあるのか?を知ること。
一番の興味は、日本の主張ではなく、韓国側の主張である。

次に、それらを知ることで、自分はどう感じ何を考えるか?一個人としての認識と、その根拠を明確にする事。又は再確認する事。

そしてその上で、日韓関係を自分なりにどう定義し、どのような姿勢をとるべきかを考える事。

領土問題が大きく取り上げられている今、ますます「知らない。」「解らない。」では済まされなくなってきており、知っている“つもり”でいることもまた不誠実だ。
更に、過去のある時点で得た情報から構築された自分の認識も、知らない間に研究が進むなどして、更新しなければならないことがあるかもしれない。

そう言った事で、上記の4冊を選んだ。
一方の意見だけでは、偏った情報になるので、賛否両論を読む必要がある。
“嫌韓流”シリーズは、現在既に4まで出版されているようだが、そこまで読むかどうかは今のところ決めていない。
どれも出版は少し前だが、おかげでおよそ2年の期間に書かれた4冊を一気に読むことが出来たわけだ。

(つづく)
(その1)
 

(その2)
本書の著者は韓国・釜山で生まれ、大学卒業まで韓国で過ごしているから、当然反日教育を受けただろう。
しかし、韓日のビジネス翻訳者として過ごすうちに、いわゆる“日本びいき”“親日家”となったようである。
日本人としては誇らしい事では無いだろうか?
 
書かれている内容は?と言えば、韓国男性の思考方法、行動原理が明快に示してある。まさに、帯のコピーの通りだ。
そして更に、韓国人がどれほど日本を意識しているかをうかがい知る事ができる。
いや、意識しているというレベルを超えて、敵視しているようだ。
 
自国と日本を比較しては、自画自賛し、時に歪曲した解釈によって優位な点を主張し、要求をゴリ押しして来る。
常に自分側が正しいと信じ、根拠の無い事でも、見栄のためには平気で嘘を言い、論理的な反論には逆ギレし、弱い者には拳に訴える。
一見すると、実に厄介な性質である。
・・・・・
 
本書が出版されてから、ほぼ8年が経過している。
その間に、彼らは変わっただろうか・・・?
その間に、我々は変わっただろうか・・・?
我々は、共存共栄の精神を捨て、変わらなければならないのだろうか・・・?
 
民族性、国民性といったものが、DNAに書き込まれたもので無いなら、それは教育や環境による後天的な性質だろう。
彼らの性質を見ると“走るおっさんライダー”は、新宗教・新新宗教の信者に似た傾向を感じる。
彼らもまた、根拠が明確では無い“教義”を正しいと信じ、こちらの論理的な反論に耳を貸さず、入会を勧めてくる。
とは言え、過去に強引な勧誘が問題視された為、現在ではかなりソフトになったと思うが・・・。
いずれにしてもマインドの点では、“根拠も無く信じて疑わない”、“常に自分が正しく、相手が間違っている”と考えているのではないだろうか。

テレビのコメンテーター(評論家)として活躍されている、あるフェミニストの女史にも同様のマインドを感じる。常に「女性の地位向上」を訴えている方である。
もちろん、不当な扱いを受けているなら、女性の地位向上は必要だ。
しかし、何かにつけて「男が悪い。」と結論付けてしまう印象が強い。
女性への批判が出ると「男がこうだから、女もこうならざるを得なかったんだ。」と言ったような発言も耳にする。
更に、慰安婦問題については、信頼性の低い根拠を元に「“従軍”だった。」と主張しておられる。
この方の論拠は、「自分の主張に従う資料(史料)は信頼性が高く、反する資料(史料)は信用できない。」とでも判断されているように感じる。
「当事者の証言がある。」と言っても、その証言を裏付ける証拠がなければ、簡単に採用するわけには行かないはずだ。
100の反する証拠より、一つ(或いは少数)の裏付けの無い証言を正しいと受け入れるのは、論理的に考えて容易なことではない。
こういった点で、“根拠も無く信じて疑わない”“常に自分が正しく、相手が間違っている”と考えている様であると感じるのだ。
第一、どんな問題でも「対話」であり「非武装」だ。
「“武装”すなわち“戦闘”」と思っておられるのだろうか・・・?
相手が“非武装”なら、こちらが武力を持って要求を突きつけるのは不当だと思うが、現在の世界の情勢は残念ながらそうではない。
武力がなければ、対話を受け付けない者も居ると言う現実に、目を向けてみて欲しいものだ。
 
“走るおっさんライダー”は、
「相手の武力に屈しない用意がある。」と言う意味での軍隊が、現在の、現実の世界では必要であると思われる。
 
何よりも、この方自身が対話で、相手の意見を受け入れる姿勢を見せない。
少なくとも、出演されているテレビ番組ではそのように見える。
その本人が「対話だ。」と言い張る姿は、ある意味ギャグのようでもある。
この点を考慮して、空論ばかりではなく、実践的で現実的な解決策を進めて行くべきでは無いだろうか。
 
話を戻そう。
 
もし議論の末、相手の主張(教義)が正しい、或いは優れた価値観であると納得できたら、自我を捨て、場合によっては自分が短期的には損失を被るとしても、長期的な視点でその主張や価値観に従うべきだ。
それが、理性的で成熟した正しい選択だと思う。
 
但し、常に新しい情報を収集し、現在の主張や価値観を見直す機会は持つべきだと思う。
人間が既に完成した、進化の最終形では無い・・・、環境が、世界が普遍では無い・・・のだから。
『韓国男性に恋してはいけない36の理由』金 智羽(Kim Jiu)著 2005年3月3日発行

日本で『冬のソナタ』が2003年4月から9月までNHKBS2で放送され、そこから“韓流ブーム”が沸き起こった。本書の出版は、そう言ったブームの真っ只中に出版されている。
 
そして本書の帯にはこんなコピーが入っている。

“あのヨン様も、実はこんな男だったのか!?”
~韓国男性は――見栄っ張りでマザコンで自己中心主義、プライド尊大ながらもネガティブ気質の自称イケメン、日韓戦に命を懸けて日本人女性を「ブスだ!」と叫ぶ~
 
韓流ドラマに続いて、2010年代は“K-POPブーム”となり、多くの芸人らも、K-POPアーティストの熱烈ファンを公言し、韓国アーティストがおびただしいボリュームで各種メディアに露出した。
そして、韓国大統領の竹島上陸により、津波が引くように一気に露出が激減した。
 
“走るおっさんライダー”は、韓国が国策としてエンターテイメント分野での世界進出を目指したにも関わらず、その国のトップが、おそらくアジアで一番の上客である日本に対して、あえて反感を買う行動をした理由を探ろうと思った。
一般的には、大統領が任期満了を控え、自身の保身の為に起こした行動であると聞いた。
韓国では、政治腐敗からか、大統領が任期を終えると本人や親族の逮捕、或いは自殺や殺害が起こっているらしい。
なんとも血なまぐさい。そして、なんと懲りない面々なのだろう・・・。
歴代大統領がそうであるのに、歴史に学び、汚職などを改めようとしないのが不思議でならない。
 
 
もう一つ、国家間では竹島の領有権、靖国参拝、慰安婦問題などで日本と認識が対立している。
幼い頃から反日教育を受けているその韓国人の、思考の一端でも知ることが出来るのではないかと思って本書を選んだ。
隣国の彼らとは、友好的に協調する方がお互いのためだと思う。
日本側までが「あいつらがこうだから、こっちもこうだ。」と言う応報的な発想をするのを“走るおっさんライダー”は好まない。
それでは、問題はエスカレートする一方だ。
それに、相手の煽りに単純に同調するのは低レベルでは無いだろうか?
だからと言って、やたらと相手の言い分を受け入れるわけにはいかない。

我々日本人には、協調、共存共栄の精神があると思う。それはおそらく優れた価値観だ。
優れた価値観である事を証明するには、相手がどう出ようと、結果的に共存共栄する事である。
逆に、相手の出方に応じて変えなければならない精神なら、優れた価値観とは言えないと思うのだ。
違う価値観で育った民族に、別の価値観を受け入れてもらうのは簡単ではないと思う。
しかし、時間はかかっても、粘り強く、将来性のあるこの優れた価値観を実践し、説いていくべきだろう。
実績は多く、そして増え続けている。日本は、世界に良い影響を与える国として認められている。
目先の利益に振り回されず、正しい道を選択できるはずだ。

応報の精神に応じる事は、相手の価値観に染まることでは無いだろうか?
そこに、果たして将来性はあるのか?
 
(つづく)
先日のテレビ番組『ガイアの夜明け』で紹介されていた“親父の小言”
調べてみると、福島県の大聖寺で、昭和初期、
住職を勤められた暁仙和尚と言う方がまとめられたものらしい。
 
酒を飲まない“走るおっさんライダー”ははじめて知ったが、
時々居酒屋などで目にすることがあると言うので、ご存知の方も多いかもしれない。
そういう方でも、改めてじっくり読んでみてはどうだろうか。
 
朝きげんよくしろ
火は粗末にするな
人には腹を立てるな
風吹きに遠出するな
恩は遠くから返へせ
 
年寄りはいたわれ
人には馬鹿にされていろ
子の云うことは八九きくな
年忌法事は怠るな
初心は忘れるな
 
家業には精を出せ
借りては使うな
働いて儲けて使へ
不吉は言うべからず
人には貸してやれ
 
難渋な人にはほどこせ
女房は早くもて
義理は欠かすな
ばくちは決して打つな
大酒は飲むな
 
大めしは喰うな
判事はきつく断れ
自らに過信するな
貧乏は苦にするな
火事は覚悟しておけ
 
水は絶やさぬようにしろ
戸締りに気をつけろ
怪我と災いは恥じと思へ
捨は届け身につけるな
小商ものは植切るな
 
何事も身分相応にしろ
産前産後大切にしろ
泣きごとは云うな
万事に気を配れ
神仏はよく拝ませ
 
病気は仰山にしろ
人の苦労は助けてやれ
不吉は云うべからず
家内は笑うて暮らせ
 
大聖寺暁仙僧上為
  一家族繁栄胎之
       青嶺
 
言われてみれば当たり前のことでも、なかなか実践できないことは多い。
他人には注意をするが、自分を適用除外して考えている様に見える人もいるのではないか・・・。
客の立場の時には、『お客様は神様です。』とばかりに横柄な態度をとり、
客を迎える時には、「何を偉そうに・・・。」と愚痴を言う人も見かける。
 
『人に優しく。自分に厳しく。』とは、偉そうに言うようだから、
せめて自分に対する以上に、他人を厳しく見ないように心がけよう。

今回読んだのは
『運をつかむ技術』澤田秀雄著 2012年9月30日発行
副題は~18年間赤字のハウステンボスを1年間で黒字化した秘密~
著者が世界中を旅した学生時代から、旅行会社H.I.Sを立ち上げ、ハウステンボスを黒字化した現在までと、
その原動力となった考え方について書かれている。


著者は1951年の生まれで、第二次世界大戦が1945年終結なので、第一次ベビーブームの後半となる。
戦後の昭和史を体現した、いわゆる団塊の世代だ。
しかし、それら高度経済成長や学生闘争の渦中にあって、著者はそういった時代の流れではなく、マイノリティーな生き方をされたようだ。

 

本書では、どのようにハウステンボスを黒字化したかという具体的な事は、あまりボリュームを割かれていない。
とるべき対策や手段・方策はケースバイケースだから当然と言えば当然。
どれだけ詳細に解説したところで、同様の方法が必ずしも他の場面で使えるとは限らない。
どちらかと言うと、重要なのは“マインド”、心構えや心がけでは無いかと思うし、そのような考え方で書かれていると感じた。

 

興味深かったのは、何事もある方向に極端に動けば、必ず“揺り戻し”で反対方向に振り子のように動くと述べられている点だ。
急成長する時には、大きな落とし穴が待ち構えている。調子に乗りすぎてはいけない。
逆に不調が続けば、いずれ回復が見えてくるとも捉えることができる。現状が不調だからと簡単に諦めてはいけない。
但し、続ける事は大事だが、必ずしもいつまでも続けるべきとも言っていない。
3年と言う単位で振り返り、続けるべきか、方向転換を図るべきか、再考することを勧めている。
いずれにしても、バランスが重要なのだ。不振や停滞を耐え、好調となったら、絶好調に警戒する。その塩梅は難しい。

 

本の後半では、“運”“波動”“陰陽”と言った言葉が多くなり、“走るおっさんライダー”としては「???」と思うところもあったが、“タイミング”“相性又は価値観”“物事の二面性”などの言葉に置き換えて考えれば、同意できるところも多い。
何にしても、著者の確かな実績が、大きな説得力を持つことは確かだ。

 


戦後の団塊の世代は、物が無い時代から、苦労して様々なものを獲得してきた世代だ。
行動を起こして“何かを得る”か“何も得られない”かの選択だったのではないだろうか・・・?
ここにはハングリー精神があり「行動を起こさなければ始まらない。」と言う状況があったと想像する。

一方で、現在の第2次ベビーブームを中心とした世代の多くは、既に物が有る状態で生まれてきた。
行動を起こせば“何かを得る”と“何も得られない”に加えて“何かを失う”可能性が加わる。
あとが無い下から這い上がるだけの時代ではなく、下手をするともっと下に落ちる可能性がある時代だろう。
ここに、「必ずしも行動を起こさなければならないのか?」というブレーキが働いている様に思える。

 

あらかじめ“正解がある”問題を出され、その正解を導く事を求められる教育では、想定外の問題に、臨機応変に対処する能力を育てられるのだろうか・・・?と思わずにはいられない。
いや、それよりも、

「高い学校教育を身に付ければ、人間としての能力も高いと評価される。」

と言ったことになってはいないだろうか?

 

教育は、生きるための道具である。優れた道具も、適切な使い方が出来なければ台無しだ。
別の例えにするなら、教育は料理だ。高い教育は、栄養価の高い料理。
料理に栄養価が高くとも、それを食べた時に充分消化吸収出来なければ、存分に血や肉にする事はできない。
戦後は、料理の栄養価が低かった。
しかし、人には高い消化吸収能力があったのだろう。高い生命力とか逞しさと言ってもいい。
現在は、もともと料理の栄養価が高いため、消化吸収能力が低くても、必要な栄養が得られてしまう。

高い栄養価の料理に対し、高い消化吸収能力があれば、多くの栄養が得られる。
今、その能力を持つ者、高い生命力を持つ者は、成功か或いはそれに近いところに居る。

 

ただ、強欲な者は、
「高い消化吸収能力が無くても、栄養は足りてますよ。」と、つまり「物ではなく心の時代だ。」と言ったり、
「消化吸収能力を高めて、少ない料理にすればエコですよ。」と、教育や“考える力”を奪い、高い消化吸収能力で他人に料理に手を伸ばす。
この点で言えば、自分の適性を無視したり、努力不足を棚に上げて、努力して稼いだ者の財布をあてにする者も同等だと思う。
現在、様々な不遇を訴え、支援や助成を求める者の中には、既に優遇され特権化した既得権益者が居るのではないだろうか。

 

栄養価の高い料理を提供され、“考える力”の必要を感じなくなり、与えられる事に慣れ切ってしまい、「言うとおりにすれば悪いようにはしませんよ。」と、甘い言葉をささやく役人天国の国になって良いとは思えない。
或いは、非生産的なマルチ商法などに乗り、高額商品を買って負担ばかりの末端会員になったり、
“心の時代”・・・と宗教に少ない収入を奪われ、単なる『気休め』の霊感商法に見せ掛けの幸福感を感じる(感じさせられる)者は後を絶たないようだ。
自分のしている事が、将来的にどんな意味を持つかを考えずに、目先のわずかな収入(アフェリエイト)をあてにして、ネット上で詐欺や詐欺まがいの片棒を担ぐ、恥知らずな行為、罪悪感の無い者も目に付く。


多様な価値観の時代になり、必ずしも溢れる“物”だけが『幸福』の条件では無いだろう。
過去のある時期、困窮する中“物”が豊かさの象徴であり、豊かさが『幸福』であった時代は確かにあり、それは間違いではなかったと思う。

反面、現在のように高い栄養価の料理に対して、高い消化吸収能力を発揮し、得られた栄養をただ貯め込めば肥満になる。

しかし、だからと言って肥満を避けるために、栄養価の高い料理や、高い消化吸収能力を否定するのは本末転倒だと思う。
それを良しとする事は、強欲な一部の者に栄養を奪われることである。

 

物ではない“心の時代”とは、他人の財布をあてにせず、各々がしっかりと栄養価の高い料理を頂き、高い消化吸収能力で栄養を自分のものにした上で、その後に余剰部分を分配・還元すれば、肥満の無い“成功”と言う『達成感』が残る。


それが“心の時代”の健康な『幸福感』ではないだろうか。

『神』の存在証明について 1
http://ameblo.jp/part-one/entry-11467083676.html
『神』の存在証明について 2
http://ameblo.jp/part-one/entry-11467085942.html
『神』の存在証明について 3
http://ameblo.jp/part-one/entry-11467087235.html
『神』の存在証明について 4
http://ameblo.jp/part-one/entry-11467088455.html
 
“走るおっさんライダー”から見ると、『変な人の書いた世の中のしくみ』に書かれている内容は、個人的には、『神』の名を借りて、ネットワークビジネスの極意を、美化し自己正当化したものだと思う。
表面的な言葉の心地よさからの判断ではなく、一旦ネットワークビジネスのシステムをイメージしながら読んでみると良い。
 
特に
  1 相手の得になることをする。
  2 上に行くほど楽になる。
  3 報われなくても文句を言ってはいけない。全ては自己責任。
と言った言葉に、その要素を読み取る事ができる。
 
ネットワークビジネスは、
  1 商品の販売員(会員)になれば利益がある。(と言うビジネスモデル)
  2 上位の者は、自分が販売しなくても勝手に利益になる。
  3 下位のメンバーが、自分の下に新規メンバーを付けられなくても、それはそのメンバーの責任。
といった具合だ。消費者を販売員にすることで、他商品に移行するのを防げる。
 
販売のトップ(上位)の者が、大きな利益を得られるという事は、商品価格に対して利益率が高いからだ。
高い商品でも、消費者自身が販売員になることができ、そうする事で自分が消費のために負担する分を、軽減できると期待させることができる。
更に、販売システムに加わることで、取り扱う商品を“ひいき目”で見ることになる。

さて、氏は『神の意思』としながら、自説に権威を与える手法を用いている。
   1 「『神の意思』は、こんなことかな?」と思って、それを実践する。
   2 物事がうまくいく。
   3 すると「なるほど、これが『神の意思』なんだな。」と言う具合になる。
   4 「やっぱり『神』は存在するんだな。」と言う結論になる。
   ※ うまくいかなかった時は「これは『神の意思』とは違うことだったんだな。」となる。
しかしこれでは、『神の意思』が存在することの証明にはならない。
良くも悪くも、『神』の存在を前提としており、存否の確認をするための理論にはなっていないからだ。
新宗教・新新宗教で、自教団の教義の正当性を主張する時に、同様の手法が見られる。
なぜなら、『神』が現われて「こうしなさい。」と言って実践し、試したわけではない。
あくまでも、自分の推測に基づいて実践し、その結果を『神の意思』に勝手に関連付けているに過ぎない。
 
『神の意思』の部分を、例えば『ネットワークビジネスの成功術』とか『処世術』などに入れ替えても成り立つ。
ただ、『神の意思』にすると、高い(計り知れない)権威を感じる人が多いと思われる。
つまり、これらは単に、氏の『ビジネスノウハウ』であって、『神の意思』などとは関連しない事だ。
 
ネットワークビジネス自体は、全てが違法な訳ではない。
氏は、自社のネットワークビジネスを、まるで『神』の“お墨付き”でも与えられているかのように語る。
論の中に、『神』の他にも天国や地獄、見えない世界やじょうれい、奇跡などの言葉も入る。
このことが、霊感商法のニュアンスを感じるのである。
しかし結局、末端のメンバーは、上位の者が得る利益の分、重い負担をしているのだ。

“走るおっさんライダー”は、合法なネットワークビジネスで、適正な価格の商品の販売なら、
個人的にいくら嫌いだと思っていても、それと承知の上でやることに、文句は言えないと思っている。
ただ、それを宗教的な、スピリチュアルな面を前面に出して、アピールしている点を指摘しているのだ。
 
氏の書籍は多くの人に読まれているようだ。
その中で、全国各地に“呼ばれて”、無料で講演をしていると言うが、自社の商品の販売や、販売員のモチベーションアップのための講演なら、無料で行っても一つも偉い事では無い。
 
しかし、書籍に書かれていることや、講演などの表面的な部分でしか氏を見ない人は、氏の主張が尊く、氏の会社の商品にも高い価値を感じるだろう。
そうして、自社や自社の商品のイメージアップを行っているのだろう。
 
だが、忘れてはならない。彼が納税額日本一である事は、商品にそれだけの利益が乗せられているからであって、『神』の存在は証明されていないと言うことを・・・。
『神』の存在証明について 1
http://ameblo.jp/part-one/entry-11467083676.html
『神』の存在証明について 2
http://ameblo.jp/part-one/entry-11467085942.html
『神』の存在証明について 3
http://ameblo.jp/part-one/entry-11467087235.html

そもそも、前提として『神』が「“物(金銭)”は、“幸せ”の条件ではない。」と言っている(と主張している)にもかかわらず、「長者番付に乗り続けた事が、自分の言う『神』の存在証明である。」と主張するのは矛盾している。
もう一つ、
「『神』は、豊かになる事を否定していない。」と言っている(と主張している)としても、
「豊かである事が、『神』の存在証明である。」と言う事も成り立たない理屈である。

さて、『神』が一体どういうものであるのか?存在を主張する人によって、その定義はまちまちで定まらない。
定まらない定義の『神』が、存在するとか、しないとかについては、そもそも決定的な議論にはなりえないだろう。
これは、「『神』が人間(世界)を創造した。」と言うより「人間が『神』を創る。」と言った方が筋が通る。
 
宇宙の始まりについては、インフレーション理論が提唱されていて、これは単純に言うと“無から有が生じた”と言う事だが、『神』の存在を主張する者の中には、
「そこに『神』の意思が働いたからこそ、宇宙が誕生したのだ。そうでなければ無から有は生じない。」と言う者がいるようだ。
こう言った主張をする人は、次の問いの答えが出せるのだろうか?
「ではその『神』はどのように生じたのか?」
 
「それは人智を超えた問いだ。人間のレベルでは、それを理解する事はできない。」と言うだろうか・・・。
このように『神』の存在は、一方で思考停止を生じさせる。思考停止からは、進歩や発展は生まれないのではないだろうか?
それとも、病気になった時に、今でも祈祷をすれば治せると言うのだろうか?
思考停止せずに「病が悪霊の仕業である。」とは信じない人が、医療を発展させたのだろう。
 
『神』の存在を主張しながら、その意思としてネットワークビジネスを勧める、霊感商法とマルチ商法のあわせ技のメリットは、不都合な部分を誤魔化し、或いは正当化させ、思考停止にさせた上で、罪悪感を起こしにくくさせる。
しかし、ネットワークビジネスは、ピラミッド構造のほんの一握りの頂上付近を、巨大な末端会員が支えているのである。

一度形成されたピラミッド構造の末端会員は、頂上を目指して参加しても、ほとんどその構造を変えることはできない。
さらに大きな末端会員を形成する事でしか、その努力は報われず、その行為は、さらに多くの報われない末端会員を生むのだ。

果たしてそれは、本当に『神の意思』なのだろうか・・・?
 
まずはその“商品”に、期待する効果があるか?無いか?だけでなく、適正価格であるかを充分吟味するところから確認して欲しい。
不当に付加された利益は、末端会員がその下の会員から得られる以上に、発売元や上級会員に吸い上げられる仕組みなのだ。