走るおっさんライダーのブログ -10ページ目
国境の島の「反日」教科書キャンペーン 仲新城 誠 著 平成25年3月10日発行
沖縄と八重山の無法イデオロギー

騒動の詳細は本書を読んでいただくとして、このような“大きな声を上げる側”“激しく活動する側”が、主流の意見であるかのような流れになることは、他にも多く見ることが出来る。
これは、その主張の正しさ(若しくは正しさらしさ)とは別に、それに対するイメージや強い姿勢などで支持を得ている。

各々が、その主張の根拠や整合性などを検証しない為に起こる問題であると思う。
典型的な例は、やはり宗教だろう。他には慰安婦に代表される人権問題だ。
そして最近では、この慰安婦問題は、まるで慰安婦を教祖とした宗教の様になっているとまで感じる。
ともあれ多くの場合、まずは目標・目的として、ほとんどの人が否定できない耳障りのいい言葉を並べる。
愛、平和、自由、安心・安全、人権保護、弱者救済、本当の豊かさ・・・
或いは、危機感を煽る手法もとられる。
地震等の天災や天変地異、環境破壊、食糧危機、迫害、戦争・・・
そしてその為の、或いは危機回避の手段として、それぞれの主張する方法を提示する。
慎重に見なければならないのは、目標・目的の正しさよりも、その手段が目標・目的を達成する為に妥当かどうかだろう。

検証不可能な根拠を示して、手段の正当性を説く宗教は、別の意味で慎重になるべきだと思うが、本書の沖縄県の問題は、“反戦・平和”と言う目標を達成する為の選択として、子供たちにどのような教育をするかと言うことだ。
ここで考えるべきは、例えば、“反戦・平和”は基地が無くなる事で達成できるのか?と言うことだろう。
残念ながら、沖縄の地に仮に基地が無くなっても、このままでは“反戦・平和”は達成できないだろう。

現在中国は、尖閣諸島に触手を伸ばし、更に沖縄の帰属に異論を唱え始めた。
私見だが、中国は、沖縄に米軍基地が無くなる事を望んでいるだろう。
そして、実際に無くなれば、あからさまに沖縄に干渉してくるだろう。
そうでなければ、沖縄の独立を裏で画策する意味が無い。
だからこそ“米軍基地反対”を支援している以外に考えられない。
もし例えば沖縄が“琉球”として再び独立した暁には、中国は直ちに武力を背景に直接又は間接の干渉を始めるだろう。
必ずしも軍事侵攻してくるとは限らないが、それでも外交的に何らかの強引な要求をされた時、独立国“琉球”は、軍備が無ければ抵抗する術は無い。

当然独立の際には、日本からの保護を得られるわけも無く、独立国“琉球”は、米軍に守られる可能性も無いからだ。
外交交渉は“琉球”自身が行わなければならず、武力を持たない“琉球”に対して、中国は遠慮することが考えられるだろうか?
中国が“琉球”に対して、人道的な配慮をすると考える方がどうかしていると思うのだが・・・。
もっと悪いパターンで言えば、中国の支援によって独立する“琉球”であれば、その代表者は既に中国共産党に染まっている可能性が高い。
となると“琉球”は、“琉球”国民の意思とは別に、外見的には「平和的に中国に併合」される可能性も考えられる。
抵抗が無い以上、世界はそれを止める事はできないだろう。
その時“琉球”国民は、少数民族として、どのような扱いを受けるのか・・・、あまり考えたく無い事態である。

つまり、世界は武力も経済力も、世界に対して影響力も無い国でありながら、豊富な資源を有する小国に、強い魅力を感じるはずだということだ。
単純に「軍備を持たなければ、戦争は無く平和が実現される。」などと言うことは、とても非合理的な理想論だと思うのだ。

実際にどのような影響が沖縄県に存在するのか、そのメリットとデメリットを比較検討しなければならない。
なによりも、立地的に沖縄県に米軍基地の存在意義があるなら、「デメリットがあるから反対」と言うことではなく、存在を前提として、いかに共存していくか?どうすればデメリットを無くして行けるかと言う現実的な方策を講じるべきで、「しょうがないから、お金を出して我慢してもらう。」と言うものではないように思う。

そもそも、もし基地周辺に負担が生じているなら、沖縄県に対する補償・補助ではなく、その地域に対して行うべきでは無いかと思うのだ。


なぜなら、沖縄県は日本の一部であり、沖縄県だけが例えばお客様のような存在ではないし、日本には沖縄以外にも米軍が駐留している。
沖縄県の面積に対して、基地の面積が多くの割合を占めるとしても、だからと言ってそれが県に対して補償を行う理由だとは思えない。
基地の影響が、沖縄県全域にあるとは思えないと“走るおっさんライダー”は考えるのだ。

基地に関しては、日本政府と沖縄県との問題ではなく、日本政府と基地周辺住民との問題では無いだろうか?
国境の島の「反日」教科書キャンペーン 仲新城 誠 著 平成25年3月10日発行
沖縄と八重山の無法イデオロギー


帯にあるのは、
こうして作られる沖縄“世論”
尖閣、米軍基地、自衛隊・・・。
日本が抱える大問題に潜む“闇”を
八重山の小さな新聞社が告発する

著者は1977年に設立された、ローカル日刊紙「八重山日報」の編集長だ。発行部数は約6,000部。
この八重山地区には、1950年発刊で圧倒的シェアを誇る「八重山毎日新聞」があり、発行部数は約14,000部。
沖縄全域をカバーする「沖縄タイムス」「琉球新報」の2紙。発行部数が合計で約30万部があるそうだ。

2011年に八重山地区では、教科書採択問題で揺れた。その経緯が詳細に著されている。
八重山地区が属する石垣市長選で、2010年に選出された若い保守系の市長は、教育改革を進める為に新たな教育長を起用した。
その教育長が直面したのが、4年に1度の教科書選定だった。
そこでこれまでの選定の様子を、過去の資料によって見直すと、その手順は文科相の規定に従わず、本来、審議の義務と決定権を持つはずの協議会は、補助的な役割であるはずの現役教員らが推す教科書を、ただ“追認”するだけとなっていたことを知る。
教育長はそれを、法に則った形で教科書の選定が行われるように改めたのだった。

しかし、改められた協議会で決定したはずの教科書は、反対運動や県教委の不当な介入など、様々な紆余曲折を経て逆転不採択となる。
発行元の異なるそれぞれの教科書は、共に文科相の検定をパスしており、問題となったのは決定すべき9教科15種目のうち、公民教科書だ。

詳細は、本書を読んでいただくとして、巻頭には年表もあり、およそ200日に及ぶ騒動の流れが把握できるようになっている。
なぜこの地で、このような教科書選定の騒動が起きたかについては、予備知識が必要だ。
もちろん本書でもその事に触れてあるが、一つには、この八重山地区が、台湾(中国)に隣接した地であることと同時に、尖閣諸島がこの地区に含まれていること、そして何より、米軍基地問題で騒がれている沖縄県であることだ。

“走るおっさんライダー”は歴史に不勉強で、沖縄県がかつて琉球王国であったことは知っていたが、比較的新しく(1879年)に日本の領有権が正式確定されたことを全く知らなかった。
そのおよそ15年後の1894年には日清戦争が始まり、その終結後1895年から太平洋戦争(大東亜戦争,第二次世界大戦)終結の1945年までの約50年間、日本は台湾を統治した。
朝鮮半島は、1910年から1945年までの約35年間日本が統治したが、現在は“反日”感情が激しく、一方、それより永く統治を受けた台湾は、とても親日家が多い。
興味深いのは、台湾人の中には現在「台湾は日本に“返還”されるべき。」と主張する声があることだ。

そして沖縄県は、太平洋戦争の終結間際には激しい戦闘の舞台となり、女子学生で組織された約240名の“ひめゆり学徒隊”は多くの犠牲者を出したと言う。
その犠牲者のうち10名は集団自決をしており、異論はあるものの旧日本軍がそれを“強制”したと、少なくとも沖縄の米軍基地や自衛隊の駐屯の反対運動、反戦を強く訴える団体などは主張している。
一方でこれらの運動を扇動するのが、当の沖縄県人ではなく、本土の左翼系の活動家などであるとの声もある。
更に現在では、米軍基地反対デモのプラカードの中に、ハングルで書かれた物があるという不思議さや、水面下で沖縄の独立を支援する中国共産党の存在もささやかれている。

八重山地区の公民の教科書は、これまで“東京書籍”版が採用されていたのだが、新しい協議会のもと、一旦“育鵬社”版が採択された。
この“育鵬社”版の教科書は、いわゆる“保守系”と言われていて、自虐史観を見直した内容のようだ。
これに対して激しい反対の声が上がり、混乱が起きた。
発行部数の多い三紙「沖縄タイムス」「琉球日報」「八重山毎日新聞」はいわゆる左派系で、徹底的な偏向報道を行い反対運動に援護射撃をしたようだ。
それを冷静に見て、恐らく公正に報道を行ったのが、本書の著者が編集長を務める「八重山日報」だったのだ。

沖縄県外の者から見れば、この一連の騒動は異様に映る。
なぜならそれは、沖縄県を挙げて“反戦・平和”を掲げて、違法な行為を行ったと見えるからである。
しかもそれが、果たしてこの八重山地区の民意を反映した行為であったかと言う疑問すら感じるのだ。

(つづく)
今回の橋下氏の、第二次世界大戦時の慰安婦問題に関する発言は、それに対するマスコミのミスリードがひどかった。
この歪曲した報道で、様々な団体や個人が批判を繰り返し、その反応に乗る形で多くの政治家も、批判を口にした。
“走るおっさんライダー”は早い段階で、この発言の動画を見ていたため、ミスリードに影響されることはなかったが、初期段階でマスコミの報道だけを情報源としていたら、はたしてどのような印象を持っただろうか・・・。

橋下氏は、最初から「大戦時の慰安婦の活用は、“強制連行”の如何に関わらず、人権侵害であり正当化できない。」と言っていた。
その上で、「当の慰安婦に対しては、特別の配慮を持って接するべきである。」と、尊重の立場であった。
「当時は軍の運営上、当時の判断として慰安婦が“必要”だと考えたのだろう。」と言い、橋下氏の考えとして“必要”と言っているのではな無い事は明らかだ。
(この発言は、実際の書き起しではなく、ブログ主がその主旨を要約したものです。以下同じ)
 
さて、これらの発言の中で、どこに女性を差別する内容が含まれているだろうか?
しかしマスコミは、「橋下氏は軍に慰安婦は必要の考え。」と歪曲報道をしたのである。
しかも、この部分は主張の主旨ではない。(ブログ主判断)
 
橋下氏は、「当時軍が、慰安婦を必要と考え、それを活用した事は悪いが、似た様な事(女性の人権侵害)は世界中で行われていた。」と言った。
更に重要な点は、「世界中がそうであったからと言って、日本の行為を正当化できるものでは無い。」と言っていることだ。
 
そして
「日本は軍が慰安婦を“強制連行”したと言う理由で特別に非難されているが、“強制連行”を示す証拠は、政府見解として存在していないと言う閣議決定が有る。
閣議決定が有る以上それを尊重し、“強制連行”を理由にした世界からの非難の声に対しては、きちんと反論するべきだ。」
としている。
つまり、日本の責任回避、自己正当化を主張しているのでは無いのだ。
「日本は悪い。しかし悪いのは日本だけではない。」
「日本は悪いが他国も悪い。」
「敗戦国も戦勝国も悪い。戦争が悪い。」と言うことである。
 
「俺は駐車違反で検挙された。だから道路交通法違反の罪を認める。しかし、他の奴らはスピード違反や信号無視をしている。
なのに、検挙されたからと、俺だけが悪いというのはおかしいじゃないか。違反した奴はみんな悪いはずだ。みんなが違反を認め、反省して改善すれば、道路はもっと安全になる。」

これは、当時の日本の“従軍慰安婦”と、他国の“強姦”を、“人権侵害”の範囲で同列にする事になるが、それと賠償責任とは別の問題なのである。
韓国の慰安婦に配慮は示すが、日本や韓国も含めて世界が、戦争の人権に対する罪を負わなければならないと言うのである。

これらの橋下発言が意味する大義は、
世界に対しては・・・・・
『日本だけを悪者にして、自分たちには人権侵害がなかったかのように振舞う他国の態度に対する批判。』
国内右派に対しては・・・・・
『いつまでも自己正当化をしようとも、世界はそれを認めない。世界と共に、自国の罪を認めよう。』
国内左派に対しては・・・・・
『罪を認め反省します。条約によって賠償は終わっているので、もうこの話題は終わりましょう。』
その認識の上で
『右派も左派も世界の国々も、共に、人権を侵す“戦争”の無い世界を目指しましょう。』と言うことだ。
 
と同時に、米国に対して、現時点での兵隊の性衝動のコントロールを、建前論のきれいごとではなく、現実的で効果的な対策を迫る。
もし米国が対策を高じ効果が上がれば、沖縄の(左派)基地反対運動の、重大な大義の一つを解消することも出来るのだ。

橋下発言がこのような内容となったのは、想像では有るが、一つは慰安婦問題の“政治的”決着である。
慰安婦に対して「大変申し訳ないことをしました。」と素直に謝罪すると同時に、
「ただ、被害者はあなたたちだけでは無い。」と言う世界的な認知を求めることである。
これにより、韓国の慰安婦とその支援者?が、世界中で行う“反日活動”の抑止となることが期待できる。
世界が自らの罪を認めれば、韓国の慰安婦に対してだけ、特別な同情を寄せることはなく、日本だけに集中する非難も収まるだろう。
 
つまり、韓国“だけ”が、日本“だけ”に、謝罪と賠償を求めることができなくなるという構図だ。
もし日本が慰安婦に賠償をするなら、世界各国にとって困った前例になるのである。
日韓関係にいおいては、そもそも『日韓基本条約』において、賠償の責任は果たされているのだから、相手の気が済むまで思う存分反省と謝罪をすればいい。
ただし、これ以上賠償する“義務”は無いと言う前提を明確にすることである。
韓国は、賠償が伴わない謝罪を、いつまでも要求しては来ないだろう。
 
それでも仮に日本が、慰安婦に賠償をしても、対象が個人なら大した額ではないだろうし、それによって日本は『特別配慮のある国』となる。
だから“強制連行”を認めての賠償ではなく、それとは関係なく単に慰安婦に対する賠償を行うなら、慰安婦当人も納得せざるを得ないし、支援者?も拒否できないだろう。
“強制連行”否定論者としても、“強制連行”とは別の“特別な配慮”による賠償であれば反対する道理は少ない。

更に付け加えるべきことは、これがあくまでも“政治的”決着だと言うことだ。
歴史は、その主体(国或いは政権・政党など)によって解釈が違い、共通の認識・解釈を持つのが困難だと言う前提がある。
であれば、“政治的歴史”と“学問的歴史”を分けることによって、その認識・解釈を政治利用させないことが重要だと言うことだ。
この点に着目した(と思われる)橋下発言は、とても意味があると思うのだ。

この主張を支持しない限り、右派と左派の主張の対立は永遠に続くことだろう。
その対立が、政治の面でも、子供たちの教育の面でも、良い影響を与えないことを考えてのことだろうと思う。
慰安婦の問題が、日本だけの問題でも、敗戦国だけの責任でもなく、主体を“戦争”にすることで、言ってみれば誰も傷つかない結論になりえる。
もし、この慰安婦の問題が、賠償金目的や政局目的ではなく、本当に『人権保護』『未来志向』の決着を目指すなら、支持すべきだと思う。

日本を非難する“反日教育”によって、国内世論をまとめる中韓の手法をいつまでも続けさせていては、互いの為にならない。
なぜなら信頼関係、協力関係が築けない。もう既に時代は、戦争の当事者世代ではないのだ。
今回の橋下発言は、弁護士でもある橋下氏の、まさに大岡裁きでは無いだろうか。「三方一両損」である。
いや、慰安婦問題を私利私欲に利用しようとした者にとっては、「三方一両得」の話しに当てはまりそうである。

“走るおっさんライダー”としては、軍による“強制連行”を認める立場ではないが、それは今後も、学問的に研究を継続していけばいい事だ。
慰安所は、戦時下で軍の指導の下に設置されたのであり、それを利用した兵士の尊厳を損なうことも無い。
しかし、人権侵害と言う意味では『戦争は悪』なのだ。
慰安所を罪であると認めることが、戦争の美化を否定する『反戦』の思想であり、軍国化の抑止にもなるだろう。
それならここは思い切って頭を切り替え、“政治的”判断として、未来志向のロジックを受け入れてもらえないだろうか?

橋下氏を感情的に嫌う人でも、世界平和の為、世界人類の発展の為、ここは余計なケチをつけずに、このあたりで合意して欲しいと思うのだが・・・。
現在、憲法改正が話題に上っている。
“走るおっさんライダー”は、96条の発議要件の緩和をした方が良いと思っているが、最終的には国民の総意に従うべきと言う考えだ。
これがもし、『国民投票』を廃止する変更なら反対だ。
とにかく、改正すべきかどうかの、具体的な議論が行われるのは結構なことだと思う。

但し、抗議デモや抗議集会には批判的だ。抗議デモや抗議集会には議論が無いからだ。どうせやるなら、両論集めた討論会をするべきだと思う。
単に「世界に誇るべき平和憲法を変えるな。」とか「憲法改正は、即ち戦争肯定だ。」と抽象的に声を上げるだけでは建設的ではない。
しかも、憲法96条の改正は発議要件の変更であって、必ずしも変えやすくなるとは言い難く、仮に変え易くなるのなら、戻し易いとも言える変更だ。
それに、国民の総意として、「変えやすくなってもいい。」となるなら、それはそれで「正しい。」と言うことになるだろう。
もちろんだからと言って、国際的な視点で見た時に、そう度々変更を加えても良いとは、それこそほとんどの国民が考えているとは思えないが、仮に、ほとんどの国民が度々変更しても構わないと思うなら、その民意に従うことも民主主義だろう。
いずれにしても、事前の充分な議論は必須であり、少数派の意見も無視・抑圧してはならないと思っている。

護憲派は、すぐに9条の戦争放棄と直結した論を展開するが、96条を変えたとしても、9条の変更には改めて『国民投票』が必要になるのだ。
この護憲派にも、前回の記事でも触れた“独善的な者”の存在があるように思う。『国民投票』を軽視しているからだ。それはつまり、国民の総意を軽視しているということだ。
96条の発議要件の緩和が、9条の変更に直結すると言う危機感は、『国民投票』が“あやういもの”と捉えているからだろう。

国民の全てが、誰一人誤った判断をしないなどと言うつもりは無い。しかし、国民の総意としての『国民投票』は尊重すべきだと考える。
それは“走るおっさんライダー”自身が、自分の判断を絶対視していないからだ。
自分や自分の周囲の人達の意見が、民意を正しく反映しているとも考えていない。

だが“独善的な者”は、自分の意見に自信過剰だ。その意見に肯定的な者と親しみ、反する者を軽視・無視する。
必然的に、似た意見の者が集まることになり、それが“正しい意見”だという思いが増長される。
社会的に危険視される様な宗教団体を見れば、信者の妄信ぶりや、信者同士の結束の強さなどに、同じものを見ることが出来る。
韓国の“反日姿勢”も同様だ。それらは、論理に行き詰ると一様に感情論を展開する。自分側は棚に上げて、相手に配慮を強要する。
自説と、相手の意見を、同じ基準、厳密さで検証できていないのではないだろうか・・・。
憲法改正は、『政治家(政治屋)』の一業界で決定権を持ってもらいたくない。だからこそ『国民投票』は必須だと考える。


さて、ついでに憲法9条についての現在の考え方だ。
これについては、現在の世界情勢の中で、平和を守り侵略を阻止するために、日本はどうするべきか?を、現実的な視点で考えなければならないだろうと思っている。
“走るおっさんライダー”は反戦だが、反戦と反軍備とは違うと思っている。専守防衛を支持している。

他国の脅威が強まる中、自衛隊の存在は、他国の圧力をけん制するのに少なからず役に立っていると思っている。

9条堅持の方々は、他国も常に理性的で、配慮ある運営がされているとでも思っているのだろうか・・・?

他国の“極力戦争したくない”は根拠無く信じられ、自国の“極力戦争したくない”は信じられないのだろうか?

9条の変更は、端的に好戦的だとか、軍国主義化だとか言うが、それなら、警察が拳銃を合法的に携帯しているのは、誰かを撃ち殺したいからだとでも言うのだろうか・・・?

或いは、警察の上層部は、「犯人を撃ち殺せ。」と命令したいとでも思っているのだろうか・・・?

「戦争では兵士の命が奪われる。」と人命尊重を訴えるが、もし他国が攻撃、侵略してきた時、一般人の生命が奪われるその人命は、尊重しようと思わないのだろうか?

“走るおっさんライダー”は、自衛隊は(国防軍になったとしても)、国外では直接戦闘に参加して欲しくない。
もしそのような前例を作れば、海外での災害救助や、戦後復興支援などに行ったときに、不測の事態を招きかねない。

しかし例えば、原発反対を訴える人が“トイレの無い家”の例えを出すことになぞらえて言えば、防衛力を放棄することは“鍵の無い家”“塀の無い家”のようなものだと思う。

敗戦当時の何もかも失った時には、戦勝国に武装解除、軍備の放棄をさせられたところで、それ以上価値の無い国になってしまっただろう。
空き家のように何も無い家なら、いちいち鍵をかけなくても、塀がなくても空き巣に狙われる心配は無い。
だが、諸先輩方の多大なる努力のお陰で、日本は価値ある国になった。家まで狙うことは無いかもしれないが、敷地は狙われている。
ならば、鍵をかけ、塀を整える必要も高まったはずだ。だから今、国防軍が必要だと思うのだ。

そしてやがて、秩序ある世界になった時、再び平和憲法の復活を願いたいと思うのだ。
『韓流、テレビ、ステマした』 古谷ツネヒラ 2012年6月7日発行
帯にはこうある“韓流ゴリ押しの真犯人はこいつだ!”

前回のシリーズを書いているときに、本屋で目に付いて買った本だ。
実は、地方都市に住む“走るおっさんライダー”は、フジテレビに対して抗議デモが行われていたことを、これまで知らなかった。
この抗議デモとは、本書の帯にある“韓流ゴリ押し”に対するものだ。
ちなみに“ステマ”とは、“ステルスマーケティング(消費者に宣伝と気づかれないように宣伝行為をすること。)”の略称、平たく言えば“サクラ”のようなものである。

その“韓流ゴリ押し”と言う状況が、なぜ生まれたのか・・・、について本書は取材し、検証している。
そこには、単に通名として日本名を名乗る“反日思想”の一部の在日朝鮮人・韓国人の存在ではなく、特定アジアに親近感を抱く一部の日本人の存在が浮かび上がってくる。
ここにどういった動機が働いているのかについて、著者は『弱者・韓国に対する見下しを基底とした徹底した持ち上げと配慮。』としている。
このような動機を持つ人々が、マスコミの責任ある地位に付き、“韓流ゴリ押し”を行っていたと言うのだ。

テレビでは、興味のある話題もそうでない話題も、勝手に目の前に垂れ流され、視聴者は受け身となる。
但し、興味があるにもかかわらず、流されない話題もある。
視聴者(受け手)は、その垂れ流される情報の中から、自分にとっての要不要を選択する事が求められる。

一方ネットでは、自ら興味のある話題を積極的に探す事になる。その情報自体を見るか見ないか、受け入れるか否か自体が受け手の判断による。
ネット上の情報には、偏った視点のものや、信頼性が怪しいもの、全くの虚偽の情報もあり、それら興味に沿って収集した情報を選択する基準は、内容の好き嫌いや、快不快となるのではないかと思う。書籍も同様だろう。
こういう類の情報は、情報収集者の取捨選択によって、その精度に雲泥の差が出ると思われる。玉石混交と言ったところだ。

テレビ・新聞は、情報の公共性が高いため、本来その公平性が求められ、期待されているはず
だが、この数年の『韓流ブーム』と呼ばれる現象は、視聴者側の期待に反し、執拗なまでの偏りが支配していた。

ただ、“走るおっさんライダー”の私見では、テレビは過去においても、常に何らかのブームを起こすことを画策してきたように思う。
自らブームを起こし、それが継続するようにし、視聴者の熱狂を誘い、それによって数字(視聴率)を稼ぐ・・・といった行動原理だ。
テレビが一般家庭に置かれる事が少なかった戦後間も無い時代、街頭テレビではプロレスがブームで、力道山が大スターだった。
そのブームはジャイアント馬場、アントニオ猪木に引き継がれ、やがてプロ野球ブームが到来する。
スーパーカーブーム、漫才ブーム、バンド(音楽)ブーム、超能力ブーム、UFO(超常現象)ブーム、歴史ブーム・・・etc、枚挙にいとまが無いほど、次から次に沸き起こっては、その多くはやがて沈静化していった。

国民(視聴者)側にブームが起こり、その要望に応える形でテレビ番組が編成された時代から、やがて、テレビ主導の番組編成によって、ブームが創られるようになって来たのではないだろうか。
更にその後、転機だと思えるのがJリーグ発足のサッカーブームで、この時期テレビ局主導から、広告代理店主導に移行してきたのではないかと感じている。

残念?ながらプロバレーボールのVリーグは不発に終わった観があるが、様々なスポーツとオリンピックを始めその関連イベントの盛り上がりは、大きな資金が動くのであろう、事あるごとに多くの放送時間を占領し、
ブームの“発生以前”から、“既に沸騰状態”を演出してきた。

歴史的に見ると過去には、当時の政府の方針により、戦時の国民の、戦意高揚の役割をマスコミが担っていた。

朝日新聞の戦時下の報道の資料は、正しくその役割を果たしていたことを示している。
これは、日本(朝日新聞)に限らず、世界中の国や地域で行われていたことだ。もちろん現在でも、多くの国や地域でマスコミを使った、政府によるプロパガンダは行われている。
しかし日本では、第2次大戦の終結後、急速な民主化の中でマスコミは、自戒の念から振り子が振れる様に、右から左へ大きく動いたのではないか。

連合国、GHQの占領政策、戦時に悲しく苦しい思いをした国民などの他、様々な理由で当初より戦争に反対していた者など、日本の戦争・再軍備に否定的な立場から、開戦の後悔、戦争の反省を極大化させ、マスコミを“左”に大きく傾けたと言う想像をしてしまうのだ。

マスコミ主導のブーム創出は、情報に対して“従”から“主”への移行だ。

つまり、民意を報道すると言う姿勢から、報道によって民意を形成しようとする動きに変わって行ったと感じるのだ。
このような情報の支配、大きな影響力の実感は、マスコミ業界人に優越感をもたらしただろう。
併せて、一部の者の独善的な自惚れと、戦時下の体制迎合への反省は、公権力に対する反発となったのではないだろうか。

マスコミが民意の代表だという錯覚は、やがて正義を振りかざす英雄を気取る。
左翼思想と結びついた独善的な正義感は、人道主義、人権擁護へと向かい、その対象が“特亜(特定アジア=中国,韓国,北朝鮮)”と、在日への肩入れである様に感じる。

独善的
な姿勢は、自分が気づき、共感した情報が『正しい』、それに反する情報は『正しくない』と感じるようだ。“走るおっさんライダー”は、宗教を妄信する信者と同様、このような自信過剰な者が嫌いである。
なぜなら彼らは、論理的に間違いがあっても、余程のことが無い限りそれを認めないからだ。
そしてもう一点、自説を相手に認めさせるためには、時と場合によっては“嘘も方便”と考える者がいる事である。
この点については、“右”も“左”も関係ない。
嘘を方便として押し通そうとする正義は、子供相手だけにして欲しいと思うのだ。

自説に自信過剰になる者は、民主主義の『議論の末の多数決』すら否定する。
「自説を否定する者が多い場合、それは議論が不十分であるからである。」としか考えない。
自分・自説を優越視しているからだ。
そして、戦時の世論を引き合いに出し、「多くの国民は愚かな誤った選択をすることがある。」と言うのだ。

しかし、そうではないと思う。
選択を誤ったのではなく、その選択に至る為の情報に誤りがあった、正しい情報が提供されていなかったと考えるからだ。
このことを考慮に入れず、国民の判断を軽視している独善的な者には、“右”であれ“左”であれ、同意する気にはなれない。
(その7)
http://ameblo.jp/part-one/entry-11510268162.html
(その8)
http://ameblo.jp/part-one/entry-11522622435.html

(その9)
今回のシリーズは思いのほか長くなってしまった。
韓国の“反日活動”(竹島問題)が活発化している事も影響している。
自分で情報を集め始めると、マスコミで伝えられるものとは違う情報を得る事となり、特に意識もせず国内のマスコミだけを情報源としている時とは、違った報道の見方をする様になった。

ただ周囲には、現在のように“慰安婦問題”や“竹島問題”が浮上してもなお、その事に特に疑問を抱かず、学校教育やマスコミの情報によって、いわゆる“民意”を形成している人たちが多いと感じる。
海外のことはよくわからないが、少なくとも多くの日本人は、『情報は“与えられる”もの』だと思い、自ら情報収集する者の方が少ないのかもしれない。
或いは、自分の望む情報だけを採用し、反する情報を無視や軽視する傾向も、強く感じることがある。

人は基本的には、自分を仲間に認めさせたい、自分の存在価値を高めたいと考えるのではないだろうか・・・。
これは当然の欲求だろう。なぜならそうすることで、自分の権利が侵害される可能性が下がるからだと考えられる。
そして自分の身近に、或る承認された情報、それによる一定の価値観が存在する時、それが真実でないと思っても、それを否定するのは困難な事だ。
逆にその価値観に従い、それを強く支持する言動をする事は、自分の存在価値を高めるには手っ取り早いと考える者も居るものだ。

さて、情報を発信する側の中には、その情報に建前とは別の、何らかの欲望を内在させる者がいる事は明白だ。
顕著な例は、やはり宗教であり、環境問題であり、政治的な面で言えば“憲法問題”“原発問題”“領土問題”“米軍基地問題”・・・。
・・・そして、左翼的自虐史観しかり、また逆に、右翼的思想の中にも見ることが出来るのだ。

内在させている別の欲望とは、端的には私利私欲(利権)
であり、その本音を耳ざわりの良いワードで隠している。
自らの主張には、正義、愛、寛容、慈悲、平和、融和、人権擁護、自然保護、弱者救済、etc・・・といったワードを使う。
対立する側も同様のワードを使うが、大体の場合、一方は感情論が先行で、もう一方は感情より論理面が先行する。

おおよそ、感情論を強く打ち出す側は、直感的には支持されやすいが、逆に言うと論理に整合性が無いからこそ、感情論を前面に出すと考えられる。

更に問題なのは、感情論先行の場合、結論ありきで論理を構築するため、ひどい時には証拠を捏造したり、嘘さえも容認してしまう様だ。
直感的な支持が強いため、証拠の検証が甘く捏造や嘘に気づかず、支持する主張に論理的な裏づけがあると思い込んでいる人もいる。
こういう人は、別の欲求を内在させている者に、いいように利用されていると言えるのだろう。

自らが指示する主義主張であっても、その証拠や論拠に対する検証は厳しくあるべきであり、直感的に結論ありきにしてしまうと、議論になった時に破綻する。
そして、議論で論理に破綻すると感情論を持ち出してくる場合が、多いのではないだろうか?

韓国(反日=嫌日)側の主張は、冷静に検証すれば破綻しているのだが、その判断の理由は、有効な証拠がいつまで経っても示されないからである。
“慰安婦問題”にしても“竹島問題”にしても、日本側には明確な証拠が多く存在している。
そもそも、本来この問題においては、右(保守)も左(革新)も関係ない筈である。

“走るおっさんライダー”は、
「慰安婦の軍による強制連行を認めないから右(保守)。」「竹島の日本領有を主張するから右(保守)。」との言い方に違和感がある。
しかし、このようなレッテルを貼るのは、そうする方が都合が良い何者かが存在するのではないだろうか・・・?
“慰安婦問題”や“竹島問題”は、主義主張によって結論が変わるべきことではない。

本人が言う「強制連行された。」との主張を信じるか?信じないか?について、同情心の有無などで事実が変わるはずも無い。

あくまでも、証拠や論拠に基づいて検証されるべき事であり、そこに感情論も必要ないと思うのだ。
今後のこれらの議論が、感情論ではなく、証拠や論拠に基づいた議論がなされる事を期待したい。
(その7)
http://ameblo.jp/part-one/entry-11510268162.html

(その8)
韓国関連の書籍やサイトを見ていて思うことがある。彼らはどうも、序列に強い関心があるようだ。
ある人は、「韓国(朝鮮)人には対等という概念が無い。あるのは、上下の関係だ。」と言う。
彼らは友人と会うと、大言壮語で大見得を張り、大風呂敷を広げて自分を上位に見せようとすると言う。
女性に対しても同様で、出来もしない約束、有りもしない事を平気で胸を張って話すという。
そもそも守る気が無い約束だから、約束を破ることに罪悪感も無く、自分の言ったことを一々覚えてもいないらしい。
その価値観(倫理観・道徳観)で言えば、逆に相手の言っている事が本当か嘘かについても追求する権利が無いように思うが、そのことで敵対する相手を少しでも責めることが出来ると思えば、その機会を逃さないと考えるのかもしれない。

“走るおっさんライダー”は儒教をよく知らないが、儒教の教えにより、そのような考え方をするらしい。
序列が支配する社会において、家庭では父親は神のような存在であり、妻や子は口答えや反論は許されず、また嫁は姑に対し、床に平伏(土下座)して挨拶をするそうだ。
このようなことを前提に彼らの言動を見ると、日本人との常識の違いを思いさらされる。
「そんな価値観(倫理観・道徳観)はおかしい。」「嘘をつくな。正直が一番だ。」などと言ってもどうにもならない。
それは、価値観(倫理観・道徳観)の押し付けになるだけだ。
そして彼らにとって、“日本人が押し付けようとする価値観(倫理観・道徳観)”を受け入れると言う事は、自分の負けを認めることと同義である。

彼らがなぜ、序列にこだわるのか・・・。恐らくそれは、損得に大きく影響するからだろう。
序列が上位なら得をし、下位なら損をする。その相関性が強固であればあるほど、上位になろうとするのは当然だ。
韓国人は、使用人(従業員)になることを嫌い、独立心が旺盛だと言うが、それこそ使用人は下位であり、搾取される事、支配される事を意味する。
だから、下位の者は隙あらば相手より上位になろうと常に狙っているのだろう。
下位に甘んじるのは、どうにもならないほどの力の差を感じている時だけと言う訳だ。

このように“対等の概念が無い”という思想を前提に考えれば、彼らの言動の(我々から見た時の)不思議さの謎が解けてくる。
彼らが悪いのではなく、それが彼らの価値観(倫理観・道徳観)だと言うだけだが、共存共栄の思想を持つ日本人には“対等の概念が無い”と言う価値観は、受け入れ難いものだ。

・・・・・
日本は1910年、朝鮮を“併合”した。
日本人としては共存共栄の思想の元、将来的に彼らと“対等”に融和する事を願っていた。
彼らも当時、表向きは“併合”を受け入れた。しかし彼らの本心は違っていたと見ることが出来る。
「表面的には“対等”でも、実質的には“対等”ではない。」と言う思想が彼らの前提なら、日本がいくら対等な“併合”と言っても、彼らの認識では別のものになる。
「やむを得ず日本の言う“併合”を受け入れるが、実質的には“植民地支配”だ。これは現時点の力の差を考えれば止むを得ない措置だ。しかし、日本を逆に利用し、朝鮮が力をつけたその時は、立場を逆転してやる。」
と言うのが彼らの本音だったのではないかと思えてくる。
今でも韓国に進出した企業は、現地採用した社員に油断すると、寝首を掻かれて苦労するらしい。

上昇志向(独立心)が旺盛なのは結構だが、実力をつけて這い上がるのではなく、上の物を引き摺り下ろす事で実現しようとするのは戴けない。
だから日本が敗戦で力を失った時、彼らは即座に日本を見限って、戦勝国の側に付いた。
そして、その機に乗じて、少しでも多く奪えるものを奪おうと、竹島の領有を主張したのだ。
戦勝国(連合軍)は、そのような韓国の主張を認めなかったが、彼らにとっては「当然の主張が受け入れられなかった。」と言う認識だったろうと考えられる。

火事場泥棒が常識の彼ら・・・いや、世界の常識か・・・にとって、それは不当な措置だと言う思いだったかも知れない。
なぜなら「火事場泥棒をしない奴は、火事を出した者と同様、せっかくのチャンスを逃す間抜け。」なのである。
「火事を出せば火事場泥棒に遭うのが当然だ。だから火事を出すのは間抜けだ。一人ひとりが火事を出してはいけないと気をつければ、火事が出ない社会になる。それが個人の利益につながる。」と言うのも、日本の常識とは違うが、筋が通らない話しではない。
・・・・・

この常識(価値観)の違いを例えるなら・・・、
商品を購入する際に、“値切る”事が常識の地域と、“言い値どおりに買う”事が常識の地域の違いと言えると思う。
“値切る”事が常識の地域では、最初の言い値は当然高く設定される。この地域では、“言い値どおりに買う”のは愚か者と言う事になる。
逆に“言い値どおりに買う”事が常識の地域なら、その地域の言い値は本当に売りたい値段だから、そこから更に値引きを要求されると困るわけだ。

また“言い値どおりに買う”地域の者が、“値切る”地域で言い値どおりに買った時、後になって「騙された。」と考えるのは筋違いだろう。
“言い値どおりに買う”地域で、“値切る”地域の者が商品を買おうとした時、買い手の値引き要求は、売り手にとって『強欲』であり、反対に買い手にとって、売り手がネゴシエーションに応じない態度こそが『強欲』と映るだろう。
この商習慣の違いは、どちらかだけが『正しい』と言えるものではない。それぞれの地域で、どちらも『正しい』のである。
問題は、一方が別の一方の地域に行って、自分の習慣を押し通そうとすることで生じる。

「日本に来た以上、日本の価値観に従え。」と言う主張は一見、理があるように見えるが、外国との貿易が不可欠な日本を考える時、それだけでは通用しない。日本の常識は、世界の非常識なのだ。

日本は長い歴史において、外部(海外)の技術や文化を柔軟に取り入れ、発展させてきた。
気に入らないものをただ排除するのではなく、“日本式”に変えていく力が、日本人にはあると思うのだ。

(つづく)

(その7)
嫌韓派にしても好?韓(反日?)派にしても、恐らくそのレベルにおいては一定では無いだろう。
過激な発言や行動に出る者は、比率に違いはあるかもしれないが両者に存在する。
また、それらに感化されて、自身で調べる作業を怠ったまま、いずれかの方向に感情を高ぶらせる者も多いのかも知れない。

“走るおっさんライダー”は日本国籍を持つ日本人だ。
しかし、もしかしたら過去のいつの時代かに、朝鮮半島から渡って来た先祖がいないとも限らない。
とは言え、ネット上や書籍、ニュースなどで“反日”の情報を目にすると不快になる。
ただ、それらの情報に対して、反射的な反応はしないように常に意識しようと心がける。
無意識に、『反“反日”』に対し過度に感情的な発言をしてしまうこともあるかと思うが・・・。

国民性
と言うものは、一体どうやって形成されるものなのか?
教育や親、周囲の人々の影響など、環境によって醸成されるもののように思う。
子供の頃から“反日”の情報に接し、自身が“反日”の言動をした時、周囲から評価されて育てば、“反日”の国民性が継承されていくだろう事は容易に想像できる。
“日本自虐史観”についても、同様のことが言えるだろう。

そしてまた、心霊・オカルトなどを含めた、宗教的な事柄も良く似た部分を見ることが出来る。
身近にも、先入観として強く刷り込まれると、論理的にそれに反する証拠を示されても、なかなか受け入れることが出来ない人を見ることは多い。
このような、国家が主導して“反日”思想を刷り込む行為は、新宗教・新新宗教のマインドコントロールと変わらないように思う。

そして、戦時においては、どの国家も敵国を憎む様、国民の意識を操作してきた。いわゆるプロパガンダと言われるものだ。
これは何も、日本に限ったことではない。逆に言えば、その事によってことさら自国を卑下する根拠にはならないということだ。
 
『歴史は勝者によって書かれる。』
面白い言葉だ。“勝者がつくる”のではなく“勝者によって書かれる”・・・、つまり、特に海外では歴史的事実もさることながら、その解釈は勝者・・・と言うよりは、その時の“支配者”と言った方が良いと思うが、それらによってその都度『新たな歴史認識』が創られる。
 
“歴史”に対する価値観について、日本と世界(特に中国と韓国)とには違いがあるように感じる。
歴史認識の違いの前に、“歴史”と言うものに対する捉え方の違いだ。
陸続きに隣国と接している国が、海外では圧倒的に多い。そのような国々は、侵略・征服の歴史を持つ。
支配者が変わると、歴史は書き換えられ、新たな解釈に変更される海外に比べ、日本は治世者は変わることがあっても、天皇の存在は変わらなかった。その違いが大きいように思う。
精神の拠り所が長い間変わらなかった日本の歴史は、その解釈が逆転するほどの変更は無かったのではないだろうか?
日本の歴史は、加筆と修正によるが、海外の歴史は、支配者によってその都度上書き保存が繰り返されたと言えるのではないかと思うのだ。
歴史の連続性の中で形成された日本人の国民性で考えれば、“歴史認識”は正しいものでなければならないが、海外では“歴史”は政治的な道具に過ぎないと言うこと。
そういう意味で、“歴史”と言うものに対する捉え方の違いを感じた。

海外
では「自分に都合が悪くなる歴史研究なら、研究しないほうがマシ。歴史認識の第一に“正しさ”を求めるのは愚かな行為。」と思っているのではないだろうか?
いかに自分(自国)に都合が良い“歴史解釈”を生み出すか・・・。
それこそが研究者の優劣を決めているのかもしれない。
このような考え方が、日本の常識にそぐわないとしても、否定したり価値観の変更を求めてもしようがないだろう。
そうであるなら、日本人的な「“歴史認識”に正確さを求める価値観」を、海外の歴史研究に求める方が、少なくとも外交に関わる面においては無謀と言えるような気がする。

実はそういった“歴史”と言うものの捉え方の違いによって、朝鮮植民地支配(併合)、竹島、従軍慰安婦、尖閣諸島、南京事件・・・などで日本が振り回されているのではないだろうか。
 
(つづく)
(その1)
http://ameblo.jp/part-one/entry-11494538546.html
(その2)
http://ameblo.jp/part-one/entry-11495399067.html
(その3)
http://ameblo.jp/part-one/entry-11495995842.html
(その4)
http://ameblo.jp/part-one/entry-11497377030.html
(その5)
http://ameblo.jp/part-one/entry-11498875134.html

(その6)
慰安婦問題の争点は、“慰安婦(婦女子)の強制連行に、軍が直接関与していたか?”という点。
軍が強制連行に直接関与していないなら、謝罪や賠償を慰安婦にする必要は無いと思う。

中には、本人にその気がなくても家が貧しく、仕方なく親に売られた娘もいたかも知れない。
或いは、高い報酬を目当てに、本人が望んで慰安婦になった者も居ただろう。
慰安婦を手配する朝鮮人に騙されて、そうとは知らずに連れてこられたり、拉致されたり・・・。
慰安所を運営する朝鮮人によっては、慰安婦に酷い扱いをした者も居たかも知れない。

しかし例えば、売春行為が仮にその時代の道徳観、道徳観に仮に反していたとしても(今ではその時代の空気はわからないが)、さらに、軍が慰安所の設置要請をしたとしても、そして軍の移動に伴って慰安所や慰安婦の随伴に、軍が便宜を図ったとしても、責任を追及できるとは思えない。

ただし日本軍の兵隊が、或いは軍などからの強制連行の直接命令によって、業者が女性を強制的に連行したと言う証拠があれば別だ。


『ひと目でわかる 日韓・日中歴史の真実』水間政憲著 2012年7月25日発行
この本には、竹島、尖閣諸島が日本の領有である事を示す古い地図や、南京大虐殺(南京事件)と言われる日本軍入城時、実は南京の一般人と日本兵の平和的で穏やかな交流の様子の写真などが、多く掲載されている。
この中には、日本統治時代の朝鮮の新聞記事も多く掲載されており、朝鮮人の男女による婦女の拉致や詐欺行為が行われた記事も掲載されている。
また、当時警察は、このような不正に警戒を呼びかけ、不法業者の徹底した調査が行われていたことを知ることが出来る。

もし例えば、報道自体が軍や警察の管理下に置かれ、記事に自由が許されていなかった可能性を考慮したとしても・・・、それならば、軍や警察が強制連行していたなら、不法行為に対する警戒の呼びかけを、敢えてする必要があったのか・・・?と言う疑問が残る。

実は現在でも、書籍やネット上には写真の信憑性について、肯定派と否定派双方の意見が存在するようだ。
マンガ“嫌日流”に掲載されている写真は、以前の記事で述べたとおり、『※日本語編集部』として、無関係な写真であることが記されている。
しかし、ここに紹介さている『南京事件「証拠写真」を検証する』と言う本の調査結果は、あるサイトでその反論が出されており注意が必要のようだ。

「証拠写真」に対する指摘の内容が不十分で、逆に指摘の間違いが指摘されている。
実は、どうもこの本の著者は、本当の検証調査をした方ではない可能性がある。
そのため指摘が不十分で、反論を許してしまったと考えられるのだ。

本当の調査をした
と主張されている方のサイトはこちら
南京大虐殺はウソだ!
http://www.history.gr.jp/~nanking/

マンガ“嫌日流”
P112~117 軍国主義の名の下に日本が世界で犯した蛮行

として掲載されているむごたらしい写真の数々は、綿密な調査の結果、通常戦闘による敵兵、ヤラセ(反日プロパガンダ)映画での撮影などの他、日本軍以外の行為も多く、軍服や背景などで誤りが指摘がされていたり、別角度の写真が発見されて暴露するなどしている。
マンガ“嫌日流”に関しては、こう言った写真の掲載の他、東京裁判で昭和天皇が証言をしたなど、・・・過去の出来事の解釈は、断定できない以上全くの否定は出来ないが、歴然とした事実誤認があり、一々指摘するのが馬鹿々々しくなる。と言うより、痛々しい。

いや、解釈による違いなら、彼らが手に入る(読める)範囲での資料は限られていると思われるので、見解の違いは仕方ないが、もしかしたらマンガ“嫌韓流”も、韓国人にしてみると、事実誤認の痛々しい間違いがあるかもしれない。
それにしても、マンガ“嫌日流”も“~デタラメ”も、感情先行と言った感が強い。
これで著者が大仕事をやり遂げた達成感に浸っているようであるところを見ると、いたたまれない気がしてくる。
また、マンガ“嫌韓流”を罵っているのだが、その内容の多くは、逆に反日の韓国世論やマンガ“嫌日流”に対して、より当てはまると見える。

韓国や日本国内の左派は、
「世界一優秀な民族である朝鮮人は“日帝36年”の植民地支配を受け、韓国の経済発展を抑圧した。」と主張するようだが、
例えばもしそれが「漢江の奇跡(1960年代半ば~90年代半ば)」(日本の円借款を考慮しないとしても)を、一つの証明になると言うなら、逆に「併合時代に日本が行った近代化、教育政策などがその下地となっている。」と言えるのではないだろうか?

そもそも、もし世界一優秀な民族なら、なぜ「望んでもいない日本統治を受け入れざるを得なかった。」と言うのだろうか・・・?

日本統治時代の“圧政”を証明したいなら、その後と比較するのではなく、それ以前と比較しなければ、信憑性は感じられないと思うのだが・・・。

(つづく)

(その1)
http://ameblo.jp/part-one/entry-11494538546.html
(その2)
http://ameblo.jp/part-one/entry-11495399067.html
(その3)
http://ameblo.jp/part-one/entry-11495995842.html
(その4)
http://ameblo.jp/part-one/entry-11497377030.html

(その5)
見る者が違うと、同じ物を見ても、違う物に見えるようだ。
特に、過去の出来事を見る時、その時間を越えて見るための(例えとしての)めがねが必要だ。直接見ることが出来ないからだ。
しかし、めがねに赤い色がついていると、白いものでも赤く見える。
しかし、めがねに青い色がついていると、白いものでも青く見える。
「赤だ。」「青だ。」と確信を持って主張している者が、透明のめがねをかけているのか?
赤い色のめがねをかけて主張している人の意見を受け入れると、自分のめがねも赤く染まっていく。
更に、「赤であって欲しい。」と思っていると、めがねが赤く染まっていく。
もちろんその逆も同じ。

自分のめがねを透明に保つ事は難しい。
めがねに色がついているかは、本人にはわからない。それは“走るおっさんライダー”も同じ。
であれば、常に「自分のめがねに色が付いているかも知れない。」という危機感を持つしかないように思う。

さて、今回のテーマは“ハングル”。

“嫌韓流”を読んではじめて、「ハングルが世界一優秀な文字」と言う主張がされていることを知った。
と言うか、おそらくネット上の掲示板などで主張されている事なのだろう。
マンガ“嫌韓流”のセリフで(P159)
「えっと・・・ ハングルは 世界一の文字で ユネスコでは 世界遺産になってるって 言ってましたけど・・・」
と主人公が語り、これに対して
「世界遺産・・・ね 韓国人はよく この勘違いをするが ハングルは 世界遺産ではない!」
「正確には『訓民正音』がユネスコの Memory of the World (世界の記憶)という ものに認定されて いるだけなんだが・・・」
と説明され、この後にハングルの歴史などの解説が続く。

“走るおっさんライダー”としては、そのあたり詳しく無いし、関心も無いのだが、これに対する反論が興味を引いた。
対抗本“「嫌韓流」のここがデタラメ”
第6話 間違いだらけのハングル講釈と植民地美化 呉 文淑 著 P130~
この中で、冒頭のあたりに

--<引用>--
(前略)ハングルとは韓国語を表記する文字名に過ぎない。しかし、『嫌韓流』はそれを言語名と混同している。
いや、もしかしたらわざと混同を装い、韓国人が韓国語を「世界一優秀な言語」と大言壮語する愚を犯していると見せかけたいのかもしれない。(後略)
--<引用終わり>--

と述べられているのだが、そもそも「ハングルは世界一優秀な言語」のような(ネット上で?)主張が韓国人から出てないなら、マンガ“嫌韓流”でこのような話を書く必要があったとは考えにくい。
少なくともこれに類する発言があったのでは無いだろうか?
そして、

--<引用>--
「訓民正音」は文字名であると同時に、書物の名称でもある。そこには、一四四六年に世宗(李氏朝鮮第四代王)が新しい文字を公布した序文、文字創製の目的、制字及び運用原理、作成者である八人の学者の名前などが記されている。「訓民正音」が一九九七年にユネスコによって「世界の記憶」として登録されたということは、書物の歴史的価値とともに、それによって解説され、普及されたハングルの価値も認められたことを意味する。
--<引用終わり>--

この後に、ハングルがいかに優れているかの解説が続き、マンガ“嫌韓流”にある、むしろ日本がハングルを広めたと言う記述に対する反論や、日本がたくさんの学校を建設したわけだが、体裁としてはハングルを選択性にしながら、実情としては日本語を強要していたと述べている。
“走るおっさんライダー”が考えるに、共通の言語として当時、日本語を学習させることに何の不思議も感じない。

もし、韓国が発展しており、日本が没落して他国の脅威に晒されたとして、韓国に併合されたなら日本人はハングルを学ぶだろう。
残念ながらそうはなっていないし、今後もそうならないように、日本人が頑張ればいいと思う。

現在、ネットで検索をして情報を得ることがとても容易になっている。
Wikipediaの、この記述が正しいかどうかは、各自の判断によるしかないが、
ハングル優越主義
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB%E5%84%AA%E8%B6%8A%E4%B8%BB%E7%BE%A9

--<引用>--
ハングル優越主義(ハングルゆうえつしゅぎ)では、韓国において、主に民族主義に基づきハングルが世界のどの文字体系よりも優れているとする立場を述べる。ハングル民族主義、ハングル中心主義などとも呼ばれる。ハングル優越主義者は、韓国の識字率の高さはハングルの優越性に因るものとし、初等教育の普及により向上した事実は省みないなどの特徴がある。
--<引用終わり>--

少なくとも、このような主義、主張をする者がいるのだろう。
更に、ユネスコ世界記録遺産と言う項目があり、

--<引用>--
ハングルを世界文化遺産に登録しようとした動きもまた、ハングル優越主義に立っている。実際に、ハングルがユネスコ世界記録遺産や世界文化遺産の指定を受けた、と主張される場合がある。
しかし、これはハングルという文字と『訓民正音』という本を混同したことから来る誤解である。1997年にユネスコ世界記録遺産に指定されたのはハングル自体ではなく、大韓民国の国宝70号の『訓民正音解例本』の古文書で、他の文字と違い文字を作った背景と原理を記録しているためユネスコ世界記録遺産に指定されたのである。ユネスコでは特定文字や言語自体を世界遺産、世界記録遺産、人類口伝及び無形遺産傑作などに指定することはない。
なお、識字率増進に力を尽くした人に与えるユネスコ世宗識字賞があるが、これは大韓民国政府が推進して制定されたもので、大韓民国政府が賞金を全額支援している。
--<引用終わり>--

“「嫌韓流」のここがデタラメ”
が出版された時に、どのような理解が妥当だったのかはわからないが、少なくともハングル優越主義が現在認識されているだろうこと、そして、ユネスコ世界記録遺産の指定が何に対して行われているのか・・・。公平・公正な判断をしたい。

(つづく)