走るおっさんライダーのブログ -13ページ目
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(その7)
今回“自然を愛する人達”と呼んだのは、自然を自分に都合が良い様に、一面だけ切り取って捉え、例えば、まるで自然であれば“本来の人間”に、都合がいいものだとでも言いたげな人達に対してである。
しかし、自然は多面的で、決して人間にとって都合よく快適な環境ばかりを与えるものではない。

今回“科学を愛する人達”と呼んだのは、まるで現在の人間、現在の科学が頂点を極めてでもいるかのような、そしてまた、現在の超常現象などと呼ばれる事の全てが、現在の科学で解明できると考えている人達に対してである。
科学はまだまだ発展途上であり、未知の領域は、これまで解明された領域より遥かに大きいかも知れない。

ある人は、「学問や科学(物理的解釈)は、浅く表面的で、より深いレベルに魂(霊的解釈)が存在する。」と言う。しかし、深いとか浅いとは、個人の主観でしかない。
「霊的に優れた賢人は、大昔から未来を予知(予言)していた。」と言うのだが、昔の予知や予言の類は、あいまいな表現を含む。
そしてそれを解釈する者の技量によって、内容の正しさが左右されると言う。しかも、解釈する者の技量の程度を、我々は判断できない。
また、ノストラダムスの予言に関して顕著だが、ある事件などの現象が起こった後で、「このことは予言されていた。」と言ったりする。
しかしその解釈は、アナグラム(文字の並べ替え)や比喩的表現として説明され、解釈の仕方によって全く違う意味を持つものだ。
これでは、もし仮に予言自体が正しいとしても、事後承認でしかないなら何の役にも立たない無意味なものである。
このアナグラムと比喩的表現を認め始めれば、どこかの学校の卒業文集の中からでも、東北地震の予言を見い出せるだろう。

少々横道に逸れるが、“走るおっさんライダー”の考えでは、恐らく宗教や東洋医学、風水や占星術などは、その発生及び発展段階では、それまでの長い間に蓄積された経験と知恵の結集によって形作られたのではないだろうか?

それは、その時代の最先端の言わば学問であり科学であったと思う。
そのうち、それが一旦完成した・・・事になって(して)しまった。その時点で、その分野は思考停止に陥ったのだ。
この思考停止した宗教や東洋医学、風水や占星術などの中で、「なぜ?」と更なる探求を進める道が、現在学問や科学と呼ばれる分野へと発展したのではないだろうか。

宗教や東洋医学などの方法論が、過去の膨大な経験やデータの蓄積によって生み出された以上、現実世界に無用なものではないかもしれない。
しかし、それらは「完成された。」と主張する理論だから、齟齬があっても変更しない。変更できない。比喩的表現であるとして、解釈によって矛盾を回避するしかないのだ。

例えば、宗教的な考え方では、この世の全ては5つ(或いは4つ)の元素で出来ていると言う。
土、水、火、風、そして空(くう) などである。
文字通り、意味通りで捉えるなら、これらは間違いである事は子供でも知っているだろう。
だからこれを、解釈によって矛盾を回避しているのであって、根本的に変更・修正を加える事はしないのだ。

今回のこのシリーズで“走るおっさんライダー”が主張するのは、
表面的なイメージ(印象)やフィーリング(感性)だけで結論を出し、その結論に対して合致するものだけを採用し、反するものを無視してはいけないと言う事だ。

自分にとって不快でも、自分の願望に不都合でも、合理的、整合性があるならば無視してはいけない。

学問でも、科学でも、政治でも、宗教でも、道徳・倫理でも、主義・主張でも、雰囲気や場の空気で、追求・探求もせずに結論を決めず、更に結論に至ってもそれは不動のものではないと、心にとどめておく事は重要なのだ。

「橋下維新」は3年で終わる 川上和久著 2012年10月23日発行

民衆に「消費」される政治家たち

 

著者は、橋下氏と歴史上の独裁者とされる3人の人物とを比較対照して、橋下政権を「独裁政治」と位置づけ、それが長続きしない事を説いている。


単に橋下政権の政策が、民衆の為に“なる”か“ならない”かの視点ではない。

橋下政権の政策についてはほとんど書かれていない。

 

橋下政権が、歴史上の3人の人物と同様、民衆の情緒的、感情的な支持によって成立しており、このような政権は、いずれ民衆からの支持を失い、失脚すると言う事のようだ。

その3人とは、カエサル、ナポレオン、ヒットラーである。

彼らは民衆の、現状に対する不満の感情を利用して敵(現政権)と対峙し、その敵を攻撃する事で、勢いに乗って勢力を拡大する。

 

その勢いの強さは、敵に対する攻撃力の強さであり、政策の正しさによるものではない。

政策の成否が評価されていないで政権交代した際は、ひとたび何らかの不満が出てきた時に、期待が大きい分反動も大きく、新たなリーダーを待望し、政権交代が起こると言うもののようだ。

現在の政治状況を考えればもっともな分析に感じられる。

 

そしてもう一つ、橋下氏が歴史上の3人の人物と比較して、情報操作の面で不十分であると指摘しているようだ。

3人の人物は、メディアを支配し、広報活動と言う形で民衆に与える情報を操作し、自身への支持を確立していた。

橋下氏は、度々メディアとの対立姿勢を見せ、罵倒すらすることがある。

この点で、橋下氏はメディアに足下をすくわれかねないという見方なのだろうと思う。

 

 

“走るおっさんライダー”は、全く違う見方をしている。

まず、橋下政権と過去の独裁者との大きな違いを見落としているのではないだろうか。

それは彼(橋下氏)が、物理的な暴力を持っていないということだ。

物理的な暴力とは、すなわち軍隊や警察であり、

これが無ければ何を言っても「独裁者ではない」と思う。

この違いを明確にせずに、過去の独裁者との共通点を挙げて「橋下はヒトラーだ。」などと言うのは、いささか幼稚な主張であると思うのだ。

 

橋下氏は、時に乱暴な(暴力的と感じられる)発言をする事があるが、敵の発言を物理的に排除する事は出来ない。いや、そうする気は無く、むしろ反撃(反論)を歓迎すらしていると思う。

そうやって、政策、主張を戦わせ、それを大衆に見せることによって、より良い政策にしていける事を望んでいるのではないだろうか。

それは、国民が政治に対する関心を高めて欲しいという思いと、密室での談合政治を排除する狙いがあると思うのだ。

 

そしてもう一点の、メディアへの対応の点だが、これも橋下氏は意図していると思っている。

橋下氏は、メディアを政治の監視役として期待しているのではないだろうか。

政治の監視役とは、単に体制への反抗をする事ではない。

政治が、行き過ぎた政策や、裏で民衆を裏切る行為をした時に、告発できる取材力を持たせたいのだろう。

今のように、ただスキャンダラスなだけの記事や、記者クラブを組織し、政府発表をただ垂れ流すメディアを批判したいのだ。だから、橋下氏はメディアに迎合しない。

 

保身の為に、言いたいことが言えない組織も望んでいないだろう。

個人の価値観が様々である事を承知しているのだろう。当然議員の価値観も様々だ。

ある政策で賛成しても、別の政策では反対すると言う事も認めているだろう。

だからこそ、開かれた議論が必要なのだ。メディアのチェックが必要なのだ。国民の政治への関心が必要なのだ。

 

それが、理想の民主主義国家だと“走るおっさんライダー”は思う。

(その1)
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(その2)
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(その6)
一般的な言い方としての“自然志向”の人、“地球環境保護派”の人らは、
本当に“自然の姿”や“あるべき地球の環境”がどういうものかを考えているのだろうか?

確かに、青い空や青い海、森の緑、雄大な景色等など、人の手が加えられていない環境に、“走るおっさんライダー”は感動を覚えることも多い。
しかし地球の環境は、その歴史において様々に変化している。温暖化どころではなく、高温の時もあれば氷河期もあった。

いったいどの時代の、どのような環境が“地球環境のあるべき状態”と言えるのか?

現在で言っても、地震や台風、酷暑の砂漠、極寒の北極や南極、野生の弱肉強食などもまた、自然のありのままの姿だ。
人間の都合でしかない事を「地球環境にやさしく」などという姿が、傲慢に見えて仕方が無い。

携帯電話を持ち、服や靴と言う人工物を身につけ、自転車や自動車や飛行機にまで乗って移動し、エアコンをつけた部屋で、テレビに映し出される動物ドキュメンタリーや、いわゆる美しい自然の姿を見て、“自然回帰”のようなことを言うのは、単に“イメージによる自己陶酔”ではないだろうか・・・?

どこまでが許されて、どこからが傲慢だと言うかは、結局は、個人の勝手なレッテルでしかないかも知れない。

最近目や耳にするようになってきた、江戸時代の日本のリサイクル社会は、とてもよく出来ていたと思える。
農作物を食料とし、その後に出る糞尿を肥料に農作物を育てる。燃料は薪や炭で、建築資材も木や土。
自然のサイクルの中で、時間をかけて再生されるスピードと、人間の消費のスピードが同調していたようだ。
但し、火災が起きれば広い範囲で延焼し、天候不順になると不作となって多くの人命が失われてもいただろう。
通信設備もないし、移動にも時間がかかるから、例えば急病人には厳しい・・・。
今知りえる情報だけで、いい点だけをつまみ上げ、過去の時代を回顧しても、本当に“正しい”かどうかわからない。


一方、科学や学問は、開発・発見されればすべて、直ちに使用してもいい技術だと言えるだろうか?

“技術”も“人類の成熟度”も、同調して発展しているところがあるように思う。
いや、そうあるべきだと言う方がいいだろうか。
また、異文化との“交流(貿易)”や“衝突(戦争)”の、頻度や規模も人類の成熟度に同調しているのかもしれない。
人類の成熟度に見合わない技術の発見や使用があった時、それを抑止する力もまた働くとも考えられるように感じる。

人間の交通手段の発達が移動可能範囲を広げ、それに並行して動力(エネルギー)技術も発達する。
それは、車に例えると、素材や加工技術の向上によってエンジンの出力が上がり、それに従ってボディの強度や安全性、ブレーキの性能、タイヤの質など、関連する様々な面が向上するようなものだ。
驚異的な出力のエンジンを、脆弱なボディに乗せれば、その車はコントロールが出来ないものとなるだろう。

これは、ハードウェアに限った事ではなく、ソフトウェアとしての人類の英知、道徳にも関連している。
移動可能範囲の拡大は、異文化との交流のスキルを問われる。

社会が異文化をどのようにとらえるかの問題だ。
ベクトルが、侵略や支配に向かうのか、融合に向かうのか、許容の形をとるのか、共生を選択するのか。その選択がどのような結果を導くのか・・・。

もし仮に、もっと好戦的だった頃の人類が、突然、核兵器やバイオ(細菌)兵器を手にしていたら、人類は滅亡していたかもしれない。
この点で言えば、原子爆弾は第二次世界大戦当時、まだ持つべき技術ではなかったかもしれないし、2011年の原発事故を考えると、原子力発電はまだ人類の成熟度に見合わない技術なのかもしれない。
いや、1986年のチェルノブイリの事故の際に、十分な検証や議論が必要だったとも思えるのだ。


SNSなど通信技術の発達による、個人間のコミュニケーションが容易になった今では、独裁政権は維持できないのではないだろうか・・・。

独裁政権は、情報操作によって民衆を操作していると思われ、個人間のコミュニケーションはその操作を困難にしていく・・・。

DNAの解析は、コンピューターの性能向上に依存した結果だと思われるが、再生医療が現在の人類の成熟度に見合った技術なのかどうか・・・。

もしそれを使用して、コントロールできない事態が起きないよう、原子力の利用同様、十分な検討が必要ではないかと思う。

では、人類の成熟度、道徳とはどういうものか?
一般的には、道徳が宗教によってのみ形成されると考えている者もいるのではないだろうか?
そのような人は、無宗教者が“不道徳”であると捉えているだろう。
「だから科学者の中にはマッドサイエンティストがおり、不道徳な実験を行うのだ。」と。
しかし“走るおっさんライダー”そうは考えていない。

道徳
は、どれだけ先の未来を予測し、現在の行動の指針とするかであると思う。
短絡的で情緒的(感情的)な、目下の欲望に支配される者が不道徳では無いだろうか?

そしてその点で言えば、
イメージにだけつられて、正しい未来の予測を怠って“自然志向”する者も、
報酬や名声を得たいが為や、或いは自説の正当性を主張したいが為に、無理やり科学を利用する者も、
現世利益を謳う宗教とその信者もまた、不道徳に思えるのだ。

(つづく)

(その1)
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(その2)
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(その4)
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(その5)
宗教に心酔している人、神秘世界や霊や魂などを信じている人は、それらを信じない人が“道徳的でない”とでも思っているようだ。
自然とかオーガニックなどが好きな人は、そうではない人を“地球の将来を考えない人”だとでも思っているようだ。
 
“走るおっさんライダー”は、現在無宗教だと言っていい。(但し、無関心ではない。)
墓も葬式もいらないと思っているし、可能ならば死後には火葬しないで、そのまま海(自然)に還してもらっていいと思っている。
無宗教だが、人と人とのつながりを大切にしている(つもりだ)し、人を傷つけたり騙したりするのが嫌いだ。

それに、そもそも人類の歴史の中で、そして現在も、宗教にまつわる争いのなんと多い事か・・・。
 
まるでベジタリアンが、自然志向の『良い人』だとでも言いたげなのも矛盾を感じる。
自然には草食動物もいれば肉食動物もいる。本人が野菜以外を受け付けない体質であるなら、それはそれで“良い”も“悪い”もない。
或いは、主義としてそうだと言うなら、単なるエゴではないかと思う。褒め称える価値を感じない。
菜食主義者の中には、菜食イコール善人とか道徳的、或いは徳が高いなどと、アピールでもしているかのようだ。
しかし、人間が雑食動物である以上、主義としてそうするのは、逆に自然に逆らう行為と言えるのではないだろうか?
何も、動物をむやみやたらに殺しても構わないとは言わない。それもまた、自然に逆らう行為でもある。
動物であろうが植物であろうが、要は必要な分だけ、そして無駄なくその命を頂くことなのだ。それが命を粗末にしないと言う事だと思う。
これは、別に「生き物の魂が・・・」とか「動物の恨みが・・・」などと言う問題ではない。
「粗末にするのは、人が生きていく為の、自然の共生システム(持ちつ持たれつ)に反する。」と言う考えだ。
 
最近の日本の、太陽光発電ブームにも疑問がある。
それらを設置するために、いわゆる自然に人為的な手を加えているのではないだろうか?
土地が狭く緑豊かな日本で、無機質でコストの高い太陽光パネルを製造し、設置するのが地球に優しい選択なのだろうか?
製造にはエネルギーを必要とする設備の整った工場が必要で、材料は鉱物資源などを採掘して使用している。
そう考えると《再生可能エネルギーへの移行=環境保護》とは言えない様に思うのだ。
再生可能エネルギー自体が必要か不要かを言っているのではなく、
太陽光発電は、環境保護や「地球に優しく」と言う方向とは対極にあるのではないかといっているのだ。
 
これらは、日本の借金が多いと言って危機感を煽って消費税増税を納得させながら、歳出を減らせないまま、今度は「社会福祉に使います。」と言って、増税を押し通した上に、借金額の話題がどこかへ行ってしまった政府の予算のようだ。
 
“走るおっさんライダー”は、宗教とかスピリチュアルと言ったものが嫌いで、理由も無くそれらに反対している訳ではない。
逆に、科学的であるというイメージだけで、鵜呑みにしてしまう人に対しても、その姿勢には反対である。
イメージだけで何かを理解した気になっていると、それより深く追求する事がない。思考停止である。
となると、「パッケージ(イメージ)と中身(本質)が違う。」と言う可能性を考えない場合があるだろう。

民間療法と言われるものの中に、効果があるものもあるが、気休めにしかならないものや逆効果のものもある。それと同じだ。
 
(つづく)
(その1)
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(その2)
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(その4)
宗教と学問・科学は、本当に対立する立場なのだろうか?
 
“走るおっさんライダー”の知る限り、新宗教、新新宗教の場合、理論(教説)の深い部分は、ほとんど明らかにされない。
それらの宗教は金銭目的で、本来の宗教の目的を曲げて、辻褄が合わないために隠しているわけで、それを「人智を超えた真理だ。神秘だ。」などと誤魔化しているだけなので除外する。

何にしても、自分にとって都合が良いと感じたものを妄信し、不都合とか不快な反対意見や証拠から目を背けることは問題だ。
不都合な真実ではなく、都合の良い嘘を信じていては、結局誰の為にもならないのではないだろうか?
いつまでも天動説を信じていては、天体の“正しい”運動を説明する事は出来ない。
 
人間には“知恵”がある。人間が生きるために獲得した武器だ。
もし、人間を創造主が作ったのだとしたら、人間に知恵を与えたのも創造主であるはずだ。その知恵が発展して学問になった。
それを否定するなら、トラやライオンの牙や爪、コウモリの超音波、象の長い鼻、キリンの長い首・・・、
植物の光合成を否定するのとどこが違うのだろう。
 
そもそも、もし仮に神などのいわゆる創造主が存在するとして、この世界を創ったのだとしたら、真摯にその現実を探求(観察・研究)する学問の分野が、なぜその創造主の意思に反することだと言えるのだろうか。
学問や科学が、聖書や経典や神話の記述に反するとしたら、それは創造主に反する事ではないはずだ。
探求によって明らかになっていく理論が、もし聖書や経典の記述に反するとしたら、それは、それを伝えた過去の預言者とか、或いはそれの解釈が誤っていたと言う事だ。
実際に現実に起こっている現象を否定する事こそ、創造主の創造物を正しく見ようとしない姿勢では無いだろうか。
誤りが見つかれば「そうか過去の人間(預言者)にも至らないところがあったのだな。」と理解すれば良いだけだ。
 
『神秘』とは、疑問に答えられなくなった時の、預言者・伝道者と称する者の逃げ口上だと思う。
仮に創造主が存在するとしても、探求は人間が創造主に近づこうとする“大それた行為”などではなく、創造主の意思を正しく捉えようとする行為であるはずだ。創造主の意思を、人間が理解できる形に噛み砕く作業だ。
その意味で、学問・科学の分野は、創造主と対立する立場ではないと主張する。
 
もし対立があるとするなら、創造主が作った世界を、聖書や経典に固執して偏った見方をする宗教こそ、創造主と対立している。

なぜ創造主が作った世界を直接探求するより、人間が説き伝えたものの方が優先すると言えるだろう。
 
学問・科学の分野が発展する事で生まれた対立は、むしろ 宗教vs科学 では無く 創造主を信じるvs預言者を信じる の対立だろう。
 
(つづく)
(その1)
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(その2)
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(その3)
さて一方で、逆に学問・科学の分野に対して過度な信頼を持つ人も、同様に注意すべきだと思う。
「自分で見たものしか信じない。」
と言う人など、その典型と言えるかもしれない。
逆に、スピリチュアルな世界観では、“見えない”ものに、過度に重要性を説く人がいるが、そもそも、学問・科学の分野で“見えない”“聞こえない”“感じない”ものの存在を否定などしていない。
 
科学や物理、西洋医学など、様々な学問は未成熟である。
全ての謎や疑問に、現在の学問で答えられているわけではない。
しかしだからこそ、様々な分野で今も研究が続けられているのだ。
にもかかわらず、学問に過度な信頼を持つ人は、現在の科学で説明できない現象を、思い違いや捏造だと決め付ける人がいる。
しかし、現在の学問で解明できていないからといって、確認できていない“何か”を全て否定するのは道理に合わない。
「“霊(または魂)”は非科学的である。だから“霊(または魂)”は存在しない。」と言うのは、
正しい判断とはいえないだろう。
科学が完成されていない以上、学問の未完成・未発見部分に“霊(または魂)”の存在を証明できる“何か”が、無いとは言えないからだ。
できるのは、宗教などで語られるそれらの定義や説明に整合性が無い時に、その定義の範囲内で否定できるかどうかと言う判断である。
例えば「地の底深くに地獄がある。」などといわれれば、その間違いを指摘できる。
 
とにかく、理論に『整合性がある』なら、発見できていない“何か”であっても、その存在を否定する事はできないのだ。
それは現在の物理学で考えれば当然のことであり、例えば、相対性理論で予言(予想)されていたブラックホールの発見は20世紀後半である。
現在は、ダークマターやダークエネルギーと言う、いまだ探知できず理論上の存在でしかない“何か”の存在を信じ、探査されている最中だ。
その昔、電波の受信機(探知機)が無い時代、電波の存在は認識できなかったはずだ。
しかし現在、電波は現代の人間になくてはならないものになっている。このことからも、未知の“何かの存在”の可能性は否定できない。
 
常識を疑う事も時に必要である。
人間は完全ではない。その人間が発見、構築した“学問”もまた完全ではない。
コペルニクスの発見は、それまでの常識をひっくり返した。大変な勇気だと思う。
我々は、単に非科学的だとか非常識だとか、既知の情報だけで結論付けていると、正しさから離れてしまうことがあるのだ。
学問・科学の分野に対して、過度に信頼している人は、注意した方が良いと思う。
期待を掛け過ぎ、その期待に学問・科学が応じられない時、一気にその反対側の世界に心酔してしまうことがあると思う。カルト教団として騒がれた事件では、その信者に高学歴の科学者も抱えていた。
これはまるで、純粋に想いを寄せていた人が、自分の期待に沿わない時に“可愛さ余って憎さ100倍”となるようなもの。
或いは、自分勝手な献身に相手が応じない時に、転じてストーカーになってしまうようなものだ。

 
(つづく)
(その1)
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(その2)
そもそも、例えば“自然”は、そんなに人間に都合よく出来ているのだろうか・・・。
動物でも植物でも、人が摂取や或いは接触するだけで、直ちに死に至る成分を含んだものがあるのは周知のことだ。
余談だが、自然や天然が手放しで“良いもの”であるなら、どこにケシから摂れる天然成分(麻薬)を、責める理由があるだろうか?
単純な理屈なら、麻薬による幻覚作用も、自然がもたらした恩恵ではないか?
 
台風や地震も自然現象だ。
しかし多くの場合“自然を肯定する”時には、人はそういった不都合な自然現象(自然災害)を、無意識に、時には意識的に排除して語っていないか?
旱魃が起きると、水不足で作物が取れず、多くの人命が失われた歴史を、人工的な水利事業で改善する事ができた。
それを、単純にイメージだけで「ダムは環境破壊だ。反対だ。」と叫ぶのは、その根拠に具体性が無い。
それに前にも書いたが、愛らしい動物が絶滅するのを危惧する人でも、
ゴキブリとかウィルスなどの病原体の根絶は奨励し喜ぶのではないか。
“自然”と言う価値基準で語るなら、どちらも同じ重要度のはずだが、結局自分(人間)の都合で、一方(病原体)を無視している。
 
「西洋医学が見放した難病を、宗教が治した。」と言う人がいる。
確かに“そう見える”例があるだろう。
しかし、それが本当だとしても、単なるレアケースでは無いだろうか?だからこそ話題になるだけだと思う。
レアケースを取り上げて「宗教の方が優れている。」などと言うのは無茶な論理だ。
そのような事例が西洋医学並みに、宗教の癒しが病人を救ったと言う、具体的な数値データを見たことが無い。
そうでないなら、明確に数値で示して欲しい。レアケースだけでは比較は出来ない。
 
西洋医学と東洋医学の比較で言うなら、西洋医学は発展途上だが、東洋医学は発展性が無い。
東洋医学に治療の効果が無いとは言わないが、少なくとも将来性は西洋医学にあると言える。
両者は、得意分野が違うだけと言う事もできるだろう。
しかし東洋医学の自然寄りのイメージが、一部の人の価値観に合致し、より優れていると感じさせ、そう主張させている。
しかし、イメージだけで語れば本質は見えてこない。
パッケージの良し悪しで、中身の優劣を決めようとしているようではないか。

それに「そもそも人間もまた自然の一部だ。人間を自然とは対極の存在だと考えるのはおかしい。」と言う主張を否定できない。
鳥が巣を作る行為、虫が木に穴を開ける行為、ビーバーがダムを造る行為は、自然を破壊しているという事だろうか?
 
(つづく)
(その1)
人は、どうも自分に都合が良い事ばかりを信じ、不都合なことは排除しがちだと感じる。しかもその都合は、多くは目先の事だ。
宗教やスピリチュアルや心霊、パワースポットとか超常現象を信じる人達に顕著だと思うが、“自然”や“天然”に・・・、と言うよりこの言葉に対して、明確な根拠も無く支持する人もそうだと思える。
「学問や科学では解明できない、大いなる謎を自然は秘めている。宗教にはその答えがある。だから科学より宗教だ。」と言う訳だ。
 
“走るおっさんライダー”に言わせれば、これらの人はイメージ先行で、結論を決めているように感じるのだ。
最近、人と話しをしていて気づいたのが“ガラケー”・・・いわゆるガラパゴス携帯の“ガラパゴス”と言う言葉に対して、この場合は「孤立化し、独自進化した・・・」といった意味だが、単純にその言葉から連想したと思われる、まるで“取り残されたもの”“過去の遺物”と言うような意味だと思っている人がいると言う事だ。
“走るおっさんライダー”の身近で、最近でも実際に2人が思い違いをしていた。
 
20~30年ぐらい前、日本の電車の中で漫画を読むサラリーマンを指して、外国から「日本人は幼稚だ。」と言われ、当時の世間と言うかメディアや文化人と呼ばれる人は、それに反応して「嘆かわしい。恥ずかしい。」と報道した。
ところが外国で、日本の漫画の完成度に対し、高い評価が与えられはじめると、とたんに「漫画は日本の誇るべき文化だ。」と、手のひらを返した。
過去の誤った(現在とは違った)評価を、振り返り反省したりはしない。まるで、そんな事は無かった事のように振舞う。
 
表層だけを取り上げて、他人の評価に右往左往する。これは、自分自身の中に“モノサシ(価値基準)”を持たないからだと思う。
こういった人達は、誰かが言ったことに対して「本当にそうなのか?」「なぜそう言うのか?」を考えないようだ。
彼らは「誰がそれを言ったのか?」「それに対してみんなはどんな反応をしたか?」で、その言説の信憑性を判断している場合が多いと感じる。
 
「消費は美徳だ」と世間が動けば大量消費するし、「省エネで地球に優しく」と転じれば節約に走る。
「○○○は肌に良い」「○○○で脳を活性化」などと聞くと、その成分が配合された健康食品を摂取する。
<使用者が実感>と聞くだけで、効果が証明されていると勘違いする。“実感”とは、ただ“そう感じた”だけだ。
“なぜ、そうなのか?”を考えず、周りの“空気”を読み(読んだと思い)、それに合わせる事こそが「正しい」と考えているかのようだ。
 
“モノサシ(価値基準)”は絶対的なものではないと思う。時代や環境により修正する必要があるだろう。
しかし、それでも“モノサシ(価値基準)”をその人が持っているか、いないか、には差があると思う。
ある言説が、目的または目標に沿っているのか?いないのか?という点は、自分の“モノサシ(価値基準)”で計れなければならない。
「そうすることが本当に我々のためになるのか?」
「そうすることで本当に環境を守ることが出来るのか?」
「そうすることで本当に人々は救われるのか?」
それらを判断するために“モノサシ(価値基準)”は必要だ。
そうでなければ、表層だけの『情報の奴隷』になってしまうだろう。
(つづく)
『中国人の正体』 石 平(せき へい) 著 2012年2月21日発行
中華思想から暴く 中国の真の姿!

著者は日本に帰化した元中国人である。
著者の説く中国人の思考や価値観は、日本の常識から見ればなかなか容認できないと思う。
マナーがなく、約束やルールは平気で破り、行列に割り込み、違法コピー商品を売りさばく。
ダブルスタンダードで、利己的、エゴイスト、超個人主義・・・
 
著者はこれを、中国人の利益最大化によるものだとまとめる。
彼ら中国人は、他人が損をしても、自分さえ利益が得られれば良いと考えているのだ・・・と。
他人からどう見られようともおかまいなし。
争いを避けて損をするより、殴り合ってでも得をしようと考えていると言う事だ。
 
確かに中国人の行動原理は、利益最大化に起因するものだろう。
それに較べて、欧米人はキリスト教の善悪、神への罪の意識が暴走にブレーキをかける。
日本は、協調性や恥の意識、世間の目と言う、エゴイストではいられない価値観を持っている。
 
しかし、欧米人も、そして我々日本人も、そういった価値観を持つ事で、
実は利益最大化のためのものだと、“走るおっさんライダー”は考える。
 
欧米人は、神の名の下に、多くの侵略や植民地政策、弾圧や殺戮を行ってきたのではないだろうか・・・。
彼らもまた、利益最大化の為なら、神の意思の解釈を変えることもいとわないと感じる。
 
日本人にしても大差ない。
日本人は、隣人と協調する事で、利益最大化を欲してきたのだ。
 
“走るおっさんライダー”が考える彼らとの最大の違いは、他者との信頼関係があるかどうかという点である。
 
例えばここに、果物の実があるとしよう。
日本人は、その果実を植え、木を育て、より多くの果物を得る事を考える。
これも利益最大化の考え方だ。
これがもし、隣人との信頼関係がなければ、植えた果実や育てた木を盗まれない様に監視し、
やっと果実が実っても、力のあるものに奪われる心配をしなければならない。
だから、信頼関係がない社会では、目先の利益を優先し、手に入った果実はすぐに食べてしまう。
時間や手間を掛けても、最終的に誰かに取られる可能性があるなら、無駄だと考えるだろう。
それが最大の利益だ。
 
より多くの果実を得られるように、信頼関係を大切にする社会を作るほうが、最大の利益が得られるのに、それをしない、それが出来ないのは歴史的な問題だと思う。
 
日本は島国で、外国からの侵略の経験が少なく、天皇の存在と封建制度、そして基本的に農耕民族であったことから、争いは領主同士で行われ、城下町や農村は、原則的に争いから離れてきたのだ。
日本では、田畑を荒らしてしまっては、領土拡大をする最大の価値が失われてしまう。
それが、城の形に表れている。
日本は、城の外に城下町が広がっているが、諸外国は城の中に城下町があり、その外側に城郭があった。
諸外国では、城を攻め落とすと同時に、城郭内の城下町では略奪や強姦が行われ、それが戦う兵士のモチベーションになっていた。
 
とにかく中国は、日本人の国民性をよく知っている。
彼らは、他者の目を気にしないが、日本人が気にする事を利用する。
日本人は、主張の一貫性を大切にするが、彼らはダブルスタンダード(二重規範)も常識なのだ。
こういった歴史的な国民性の違いを知り、対処しなければならないのだ。
 
日本の常識を盾に相手をせめても、徒手空拳だと言う事を知るべきだ。
『闇金ウシジマくん』というドラマを去年テレビで見た。
それが今年、映画として公開された。
“走るおっさんライダー”は、子供の頃を除いて漫画をあまり読まないが、ドラマの面白さに引っ張られて、単行本を買って読んだ。

ギャンブルや見栄や、欲望を制御できない事によって、トゴ(十日で5割)と言う異常な金利の闇金に手を出す。
違法であることに変わりは無いが、闇金業者側(業者と言っていいのかどうか・・・)にしてみれば、
「借りたくないと言う人に無理やり貸しているのではなく、高い金利を承知の上で借りにくる者がいるから貸しているのだ。」
と言う理屈なのだろう。債権者は後先を考えずに、目下の欲望を満たすことだけを考え、逃れられない地獄に落ちていく。
 
「仁義なき回収、堕ちていった女たち」(闇金裏物語)金原 猛著 2010年4月10日発行
を読んでみた。これは、元闇金業者がその実体験を綴ったものだ。
“堕ちていった女たち”となっているが、このタイトルは単なる販売戦略上付けられたに過ぎないと言える。
内容は、女に限らず、様々な人間の借金にまつわる(恐らく)実話である。
 
闇金業者の年齢は、20代前半から中頃が多いそうだ。
そして、債権者の年齢層は様々。と言うか、ほとんどが闇金業者側よりひと周りもふた周りも、いやそれ以上の者もいて、しかも闇金業者側は、借りに来る人を、人として見ていないそうだ。
『闇金ウシジマくん』の闇金業者は、債権者を“奴隷くん”と呼んでいる。
 
少し解りにくいかもしれないが、
今まで読んできた漫画は、登場人物がその漫画の中の設定の中だけで、存在しているように感じることが多かったが、この漫画では、漫画の向こう側に、まるで実際に生き、生活し借金してしまった人達がいるように感じる。
教訓めいた、説教を聞かせるような印象は無い。
しかし、後先を考えずに欲望のままに、収入と支出のバランスを考えない者は、感じるものがあるのではないだろうか・・・?

“走るおっさんライダー”の周りに、この漫画に出てくるような境遇の友人・知人はいない。
しかし恐らく、何らかのちょっとしたきっかけや、不幸な出会いなどによって、このような世界に足を踏み入れることは簡単だろうと思う。
本で書かれているのだが、闇金は現在ではひところの景気の良さは無いと言うが、相変わらず存在すると言う。
闇金が存在すると言う事は、そこで借金する者が絶えないと言う事だ。

とは言え、闇金でしか借りられない事情は、ほとんどがまともな理由ではないだろう。
トゴの利息は普通に考えれば、返済できる金利ではない。
闇金に手を出すくらいなら、そうなる前に自己破産した方が、どう考えてもよっぽどマシだ。
それが解らないくらい、何かに執着し、金を払わずにはいられない心理とは・・・?

ホステスに・・・風俗嬢に・・・或いはホストに・・・ギャンブルに・・・
金目当てで近づいてくるオトコやオンナに・・・
見栄を張らずにいられない人間関係に・・・
そしてもしかしたら、霊感商法やカルト宗教に・・・
 
見え透いたおだてや恋愛商法、「地獄に落ちる」「不幸になる」などの根拠の無い脅しなど、
識字率も国民の平均的な学力も、決して低くない日本人が、それでもハマる落とし穴。
 
勘ぐれば政府が国民を、過保護にしたせいではないかと思えてくる。
“騙し”からわが身を守るのは、国家や警察や政府の役割だなどと思わず、
まずは自分で守らなければならない。
守れる方法を学習しなければならない。
そして、政府からも騙されないようにしなければならないのだ。