伊藤佐千夫原作・小説(野菊の墓)映画との違いについての個人的考察 | 洋菓子よろず引き受け人のブログ

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 明治時代に出版され、200ページに満たない短編で俳人であった作者の最初の小説で、農村に暮らす旧家の次男と2歳年上のいとこの少女との実らなかった初恋の悲劇を描いた(野菊の墓)は、文体はかたさがあってぎこちなく、少年少女の初恋話といったたわいもないとさえ言われてしまいかねない作品ながら知名度は抜群で、映画化は3回、テレビドラマ化も数回され、目立たないながらも名作文学として確固たる存在と思います。

 筆者は小学生の時に原典を読んでわあわあないてしまい、その後、最初の映画化作品・木下恵介監督による1955年度松竹映画(野菊のような君なりき)を旧作中心のレンタルビデオ店で見つけて鑑賞し、涙が止まらない位悲しくてたまらなく、どうしようもないほど感動し、大好きな作品でありながら泣いてしまって画面がみられなくなるため2度めの鑑賞がなかなかできずにいたほどで、いまもそれは変わらないのですが、ハンカチを濡らしつつ再度の鑑賞をしています。

 数え年15歳(満年齢13歳)の政夫くんと17歳(満年齢15歳)の民子さんは幼いころより仲良しでもう子供ではない、とみなされる年頃でもいつも一緒で周囲が男女の仲と疑うほど、そんな田舎の世間体による中傷が皮肉にもお互いの心にあるほのかな初恋の想いを気付かせてしまいます。そして山の綿畑に出た秋の一日にお互いを花にみたてて告白をしますが、大人たちの思惑により引き裂かれてしまい、政夫くんはもとから本人の願望とはいえ離れた街の中学へ追いやられ、民子さんは泣きながら実家に帰されてしまい、裕福な家に望まれて政夫君の母から絶対に一緒にはさせられない、と断言されて意に染まない結婚を強いられ、数か月で流産し、実家に戻され(もう私は死んでしまったほうがいい)との言葉を最後にわずか16歳で死んでしまいます。民子さんの死を4日後に知らされ、彼女が左の胸にしっかりと最後まで持っていたのが政夫君が中学へと追いやられる前日にそっと民子さんに渡した恋文と(政夫さんはりんどうの花のよう)とかつて二人で語ったその花を持っていた、と彼女の祖母から聞かされて彼は号泣します。

 

 原典では民子さんの死後10年の政夫くんの回想の形をとりますが、映画では民子さんの死後60年たって自らの死期も近いと悟った73歳の彼が生まれ故郷を訪ね、民子さんのお墓詣りをして彼女の好きだった野菊を供えるまでが伊藤佐千夫作短歌の朗読もはさみつつ過去の話が古いアルバムをめくるかのように展開されていきます。

 政夫の一人称で語られる回想の原典に対し、60年後の現地点から過去にさかのぼってタイムスリップをして繰り広げられる少年少女の悲しく清らかな初恋を現在進行形のお話としてみるだけではなく観客もその時代に生きている、同じ空気を共有しているとさえ感じられるのが大きな違いではないでしょうか。

 主人公を演じたのはどちらも15歳、子役経験のある田中慎二君、これがデビューで演技経験なしの有田紀子さんで、娘さんと青年にはみえない、どちらも幼ささえ感じられる、思春期の独特のかわいらしさがあり、政夫君の勉強中に民子さんは部屋を訪れては本が読みたい、手習いがしたい、とせがんだりはたきでくすぐって笑いながら走っていくそんな二人のじゃれあい、民子さんにつれなくされてすねたように障子をひいたり寄りかかったりする政夫君、

二人並んで楽しそうにおしゃべりしながらお茶を畑に持っていく場面、田舎の道をかけていく民子さんの姿はどの映像にもない愛らしささえ感じられ、セリフは棒読み状態で素人っぽさがありますが、それがかえって初めて恋を自覚した男の子と女の子の初々しさ、ぎこちないけど一生懸命で不器用な、でも一途な想いとなって伝わってくるようで画面から気品、すがすがしさが漂い、1960年前半に一世を風靡した日活青春純愛映画にはない清らかさにみたされている、とさえ思います。民子さんが嫁ぐのは原典では政夫君が中学に追いやられてしまう一年後旧暦の11月中頃、が映画ではその翌年の春と早められ、そのことを知らせるのは原典では中学入学の翌年冬休みに帰省した際に母が(民子は嫁に行った。大層裕福な家が是非にと所望)と告げますが映画では政夫君の実家での兄嫁さだの民子さんへのきついいじめや田舎の世間体による中傷の有様に耐えられなくなり都会で奉公することを決めたお増さんが旅立つ前に中学を訪れ知らせる、民子さんの死は原典では6月19日、映画では秋です、夏に民子さんの嫁入りのことを知らされ、旅立っていくお増さんを校庭でずっと見送っている政夫くんから画面一転して秋、人力車に乗った母が帰宅し車夫に抱えられるようにして玄関から家に上がり、はうようにして部屋に戻って伏して嘆くシーンでこれは民子さんのお葬式の帰りだ、とみているほうに感じさせます。電報を受け取り帰宅した政夫くんに母ではなく兄が民子さんの死を告げる等脚本上で変更されています。その後の60年間彼はどんな人生の日々であったかは想像するだけですが、(戦争でボロボロになった)、(兄が生きているときはたまさかの便りもやり取りしたが途絶えてしまい、戦後の農地改革で旧家の斎藤家はひどい目にあった、と渡し船の船頭から聞かされ、今はどこでどうなっているか全く知らないと答える)等故郷を捨ててしまいつらい生活もあったことをうかがわせます。私の想像ですが戦争で家族を失くし生き残った一人の孫とどん底の生活でもがきつつ戦後13年を生きて、孫を大学へ進学させ、やっと出かけられるほどの余裕が持てるようになるがその時死がもはや近いことを悟って故郷を訪ねおそらくは最後になるであろう民子さんのお墓詣りを決意したのでは、と考えています。その孫は勉強好きな女の子で成績優秀で聡明なこの子をなんとしても大学へやりたい、と身を粉にして働き続け、その間も本を読みたがった民子さんのことに思いをはせることがあったのでは、と思います。

 原典では政夫くんは民子さんを祀りや余興等騒がしいところに行かせたくはない、と思う箇所があり解釈は様々ですが、映画ではそういった職についている芸人たちへの差別はない、と感じられるのは民子さんが盲目の女芸人の三味線にお布施を渡しているのをみている、彼女の後ろで一緒に見送っている彼のまなざしです。又奉公人への思いやりがある等優しい性格も描写され、民子さんの祖母が(政夫は愛らしい子じゃった)というつぶやき、兄嫁への気遣いもあり、原典とは性格設定が少々異なっている、と思いました。そんな政夫さんから引き離されて嫁いだ先ではつらさや悲しみしかなく、人間として大切にされないゆえ心がボロボロになってしまう生活で絶望しかなかった、と想像できるのは死ぬ前のひとことからもうかがえます。小学校を卒業するともう学問は必要でない、子供時代が終わるとすぐに大人の世界へ、そこには結婚しかないという当時のほとんどの女の子の生き方は闊達で走ってくる女の子であり裁縫より本が読みたい民子さんにとっては牢獄よりひどいものだった、もとより結婚に夢も希望もなく覚悟していったとはいえ大人の性の世界に放り込まれたことは残酷そのもの、妊娠にも出産にも耐えられないのは当然、政夫くんも民子さんが嫁ぎ先でまだ幸せであったのならば、生きてくれていたのならば一生埋まらないほどの心の隙間や傷を抱えずにすんだのでは、と老年を演じた笠智衆さんの芝居をみて思います。原典との違いの考察というよりは映画をほめてばかりの文章になってしまいました。