年末年始をパリで | フランス紀行

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食中毒に見舞われ、年末年始をベッドで過ごした。しかし災いが転じるとはこのことで、気疲れの多い付き合いで更なるストレスをため込むこともなく、久々のお家時間で読書三昧、現実逃避も含めて自分の内面と向き合うまたとない充実のひと時となった。

 

症状が少々収まり、かねがね読みたいと思ってた「たった一人の30年戦争」を本棚から手に取る。数年前に購入したままでパリの家の本棚で埃をかぶっていた一冊。フィリピンのジャングルで敗戦を知らずに30年を「任務完遂」のために生き抜いた小野田寛朗という元日本兵の半生について綴ったものだ。

 

小野田さんは本書の最後で言う。「戦後、日本人は『命を惜しまなければいけない』時代になった。何かを『命がけ』でやることを否定してしまった。覚悟をしないで活きられる時代は、いい時代である。だが、死を意識しないことで、日本人は『生きる』ことをおろそかにしてしまってはいないだろうか。」

 

現代人の胸にずっしり来る言葉だ。

 

現代社会は『死』が不在の社会。死ということが意識されることもないし、また死を意識させるいかなることも忌み嫌われる。

 

「お国のために死んでください」などと言おうものなら、正気ではないと病院直行。息子が徴兵されるなんて世の親が許さない(少なくとも日本では)。私だって夫や息子の徴兵などという事態になったら、真っ先に国を捨てる(夫の考えはこの限りではないような気もするが・・・)。日本は私の祖国だが、そのために自分の家族が犠牲になることは許されない。日本で生きられないのなら、他の国で平和に楽しく暮らせばよいだけのこと。

 

ただ、ここで蘇るのが冒頭の小野田少尉の言葉。

 

「死を意識しないことで、生きることをおろそかにしてしまってはいないだろうか。」

 

小野田さんは30年という長い年月を経て帰還したが、戦後の経済繁栄を経て以前と全く異なる国へと変貌を遂げた日本では生きられず、1年も経たないうちにブラジルに移住することを決意した。肌に馴染んだ熱帯雨林の大地を切り開き、これまた生体の全てを知り尽くした牛を相手に、自然と真っ向から向き合う人生を選んだ。ブラジルの厳しい自然や風土との格闘が続く日々において、ようやく小野田さんは本来の自分を取り戻した。

 

しかし小野田さんの人生はブラジルでの牧場開拓だけで終わることはなかった。

 

「一度失ったはずの命を生かしてもらっているお返し、また自分のせいで終戦を知らずにジャングルの中で戦死した仲間やその家族のために、自分ができることをする」と胸に誓い、戦争とジャングルでの生活から得た知恵とスキルを活かし、当時社会問題ともなっていた若年層の絶望・自殺への対策として、「小野田自然塾」を開講し、多くの子供たちに自然と触れ合い、その中で生きることの楽しさ・充実を教えることに半生を費やした。

 

一度たりとも、「自分の人生を無駄にさせた軍国国家日本が憎い」とか、「30年の青春を返せ」などと恨みがましいことを言ったことはない。むしろ、「ミッション遂行のために魂を傾けた30年間が懐かしい」、「自分だけ生きながらえて申し訳ない」、「先に行ってしまった仲間の分まで日本のために尽くしたい」とまで言う。

 

本気だ。

 

ミッション遂行のために死と向き合い、30年をジャングルの中で過ごした小野田さんと比較して、今の私たちの知識や経験は質・量ともに計り知れないぐらい巨大だ。高度な教育を受け、世界の隅々まで旅をし、複数の言葉を操り、その文学・歴史・文化も理解する。テクノロジーの進化で地球どころか宇宙の果ての出来事まで瞬時に知ることができる。

 

しかし、私たちの視野は、戦後の「高度化」によって、極端に狭まってしまった。そう、自分と家族以外の平和と豊な暮らし以外に興味がない。グローバルだのなんだの言ってみても、所詮は、自分と家族が自由で平和で楽しい人生を送ることができれば、それで十分、それ以外のことは考えない。

 

小野田さんは違った。彼は私たちのような教育を受けたこともなければ世界を見分する経験もしたことがないが、彼のビジョンは家族はもちろん、国境や世代を超える壮大なものだった。しかし、本人は意気込んでなどこれっぽちもない。

 

小野田さんのビジョンは常に、日本人のためにあった。だから、一生を国のため、社会のため、周囲のため、他人のために捧げた。自分のためになどこれっぽちも生きなかった。これが彼にとっての当たり前だった。

 

小野田さんは終戦後30年をフィリピンのジャングルで過ごしたことで彼の半生はスポットライトを浴びることになったが、彼のような考え方、生き方をした人は戦前・戦後にかけて多かった。

 

私はサラリーマンになる前に、大学で紛争解決を研究していた。だから、小野田さんのような人の手記を大量に読んだし、また、靖国にも何度か足を運んだ。

 

我が家の娘も11歳になり、そろそろ日本の歴史についても少しずつ見せてやりたいと思い、昨年の夏、初めて靖国の遊就館に連れて行った。そこで私は幻滅することになったのだが・・・理由は、この10年で展示も随分変わり、何よりも遊就館の展示を貫いていた趣旨・テーマ・価値観が消えたとことが幻滅だった。いわゆる巷で言われている「右翼」の思想が抹殺されたことから、メッセージ性が全くない、ダレダレの展示に終始しているということなのだ。

 

「右翼」が良いか悪いかの価値判断は別にして、当時の遊就館の展示は少なくとも当時の戦争を経験した人々の価値観や想いを伝える内容になっており、軍国主義日本という表向きの定義とは異なる戦前の日本社会の価値観や想いについて触れる、またとない貴重な展示となっていた。まさしく、東京裁判では完全に無視された「日本人の言い分」がそこには切々と語られていたのだ。

 

私は娘にこのことを知ってほしかった。本当に多くの犠牲を払って行われた愚行ではあったが、それを行った全国民が「愚人」であったわけではない。これは全ての戦争で言えることだ。むしろ多くが、「死」と直面し、限りなく、真剣に、真っ直ぐに、愛情いっぱいに生き抜いた。靖国はその証で溢れていた。

 

私がそもそも紛争について研究することになったのも、この日本人の「死」に直面したときの心の在り方だった。まだ覚えているのは、大学の近代史の授業で指定図書を読むなか、太平洋戦争の末期の政策決定の中で日本人が示した精神性に強く心を打たれたということ。

 

日本人の高い精神性に感化されて始めた研究は、しかしながら日の目を見ないうちに終わりを見た。小野田さんの話をした後で大変恐縮だが、理由は、激務と貧乏な暮らしに耐えられなかったからにつきる。研究は極めて孤独かつ厳しい作業で、いつ実を結ぶともしれない、もしかしたら一生芽が出ない(それが殆ど)かもしれないという恐怖と毎日戦い、しかも助手の給与ときたら・・・スズメの涙の一滴さえもない・・。これから一生、この貧乏のどん底で生きていくのかと思うと・・・企業が提示してくる数百倍もある年俸とコンペンセーションパッケージはあまりにも魅力的すぎた・・・・。

 

私はまさしく安易に自分勝手に生きる現代の申し子なのだ。小野田さんのように30年間もジャングルのような厳しい環境で大義のために生きるような志もなければ気力もない。

 

ただし、サラリーマンになって十分すぎる給与をもらい、その上資産運営までするようになっても、この時の想いを私は決して忘れることはない。大げさではあるが、私の中に、自分は魂を売って今の安逸な生活を手に入れた・・・という気持ちがいつもある。

 

私は学者という戦争から逃げたのに対して、小野田さんは第二次大戦を戦い抜いた。

 

本を読み終えて、窓から見えるエッフェル等のクリスマスイルミネーションをぼーっと見つめていた。