朝、墓参りをしてから出掛けた。
見慣れた駅前の景色も、新幹線のホームから眺めると全然違う。
列車内ではアナウンス
『この列車は発車後、終点東京まで300kmノンストップです』
・・・そうなんだ、300kmあるんだ。知らなかった。
東京駅に降り立って、丸の内口へ出るまで、乗り換え案内を見ながら
「東西線に乗って木場へ行こうか」
「中央線ならTHE CONRAN SHOPだな」
「のぞみに乗り換えて空中庭園か直島か」
なんてブツブツつぶやく。
いーでしょ
言うだけタダなんだからw
ほぼ開館時間直後に入場した。
なのに、何だこの人の多さは。
少々くじける。
建築って、人が造って人が利用するものなのに、
それを“観る”時はその人が邪魔に感じるって、なんだか。
展示室に入ったのに、ケータイ鳴らしてる誰か。
こーゆー場所で鳴る着メロって本当におマヌケ。
だから邪魔なのよ!
フォートワース現代美術館の写真パネルの前で
夫婦らしい二人連れが話している。
『これ、川べりでもないのに水入れたの?』
『うん』
『ほんと、好きねぇ。』
・・・つい、笑ってしまう。
ほんと、好きよねぇ。
その水も含めて、氏の作品に不可欠なもののひとつが
光、だよね。
建物の真ん中に穴あけて(失礼!)光を取り入れるの好きみたいだし。
水が照り返す光もあるし。
水辺に造るのもパターンだよねぇ。
展示室をつなぐ通路の一番奥には
「グラウンド・ゼロ・プロジェクト」
のスペースがあった。
現場の写真、映像、そして模型。
模型なのに、丸い線がとても優しく見える。
つい、手を延ばしたくなる。
触れたい気持ちと涙を、こらえる。
映像を繰り返すモニタを観ていると、後ろで誰かが言う
『なんでこれが採用されなかったのかしら。
なんかビルが建つんでしょう、バカじゃないの』
・・・そこまで言いますか。
“ファン”としちゃ当然かな。
あの時の、TVに映る光景を見ながら感じた、なんとも言えないイヤな気持ちは、
失う痛みを持った時に感じた気持ちと似ている。
同じかもしれない。
何も出来なかった。
ただ受け入れるしかなかった自分。
今もし、現地に立ったなら、きっと相当泣けるな、アタシ。
『バカじゃないの』と言う気持ちもやっぱり、わからないでもない。
キレイさっぱり片付けて、小奇麗なビル建てて、
みんな忘れてしまうつもりなんだろうか。
世界に、忘れるヒトと忘れないヒトがいるなら、
きっと無くならない。
この先、どうなるんだろうね。
もっとゆっくり観たかったけど、建築展ってやはり
現物ほどに長居したい場所ではなかった。
昼頃にはギャラリーを出た。
新幹線に乗ってからずっと、青空が見たいと切に願っていたのだけど、
見えたのはモニタに映ったN.Yの青空だけ。
朝も夕も、太陽は
分厚い雲の向こうで丸い輪郭を見せてくれた。