――生きたいか?
継ぎ目の見えない白一色の世界。方向感覚など意味をなさないこの場で聞こえたのはひどく無機質な感じがする声。何も理解する間もなく反射的に頷く。……正確には頷こうと思っただけで上手く意思表示まで出来たかは分からない。
――そのために自分という存在が大きく変わるとしても、それでも生き抜く覚悟はあるか?
曖昧で意味を推し測りにくい言い回しだが、言わんとすることは何となく分かった。だからその問いに関しては鼻で笑える自信があった。
もともと自分は変わり者で変に貧乏くじを引くことも数多あった。それでも毎日友だちと仲良く好き勝手やっていて毎日楽しいと思っている。
だからこそここで終わらずに済むのなら、多少の不運や不幸、貧乏くじなど構いはしない。現状と大差ないのだから、気にする方が馬鹿馬鹿しい。そもそも自分はいつも遊んでる友だちの中で一番頭が悪いのだから、損得勘定するよりもせっかくのチャンスをありがたく頂いた方が性に合っている。
――そうか。それは実に頼もしいな。君が実験体で本当に良かった。
妙に引っ掛かる言葉の真意を問い質す間もなく意識が薄れていく。こちらが条件を飲んだからもう要件が済んだのだろう。消えていく意識の中で最後に印象に残ったのは誰かの顔の輪郭。それが記憶の片隅にいる誰かとまったく同じなような気がした。…………はて、その誰かとは結局誰だっただろうか?
巧の意識が覚醒しはじめる。黒一色からモノクロ、そして少しづつ多種多様な色がついていく。
最初に目に入ったのはベージュの天井。身体を包む温かみと柔らかな感触からベッドで寝かされていたのだと気づく。
さて、なぜ自分はこのような状況にいるのか、いまいち冴えない頭で記憶を辿る。
薄暗い雰囲気漂うこの町でインプモンとファスコモンの依頼を受け、城に眠る悪核を浄化することに。が、自分達のミスで悪核は城にいたデジモンを取り込んで化け物へと変貌。そこにオロチモンを殺したうえで真治が乱入。三竦みになるかと思ったが、充が交渉のおかげでかたちだけの共同戦線が成立。一気に化け物を追い込み、追い込み……追い込…………
「うっ……ウげヴぉおぉっ!!」
溢れ出る感情を抑え込めず、胃の内容物とともに一気にぶちまけた。止まらない涙で視界がぼやけ、口には後味の悪い酸っぱさが残る。
二度目の敗北。それも同じ真治とダイルモンという相手。一度目の敗北で彼らを失って、やっと取り戻す機会を得たというのに。奇妙な形とはいえ共闘までして、かなり接近できたのに。自分は本当の目的のために何一つできなかった。
あのとき、せめて一発でも浄化弾を撃っていれば何か変わったのかもしれない。正直、仮に撃ったとしても何が起こるかも分からなく、あの化け物もいる場で何が起こるのかも分からなかった。それでもずっと撃たずに裏切りの機会を与えてあんな惨劇を産むよりかはずっとましだったと思う。
結局、自分は何も成長してはいなかった。あいつらに銃口を向ける覚悟すらなかった。そんな何の覚悟もない半端者に何も得られはしないのは当然のことだ。
「――反省? 後悔? まあ、どちらでもいいが……そろそろ終わりにしてくれないか。チミがぶちまけたゲロを掃除したいのだが」
「あ、ああ、ごめ……ん?」
急に呼び掛けられて条件反射のように答える。だが、よくよく考えるとその声は聞いたことのないものだった。
掛け布団を取り上げたその声の主を確認する。つぎはぎの目立つ赤いローブのようなものを羽織った上半身は人型に近い。だが、その背中に刺さった巻きねじと下半身を構成する巨大な時計が人外の存在であると知らしめる。よく見れば時計自体に手足がついていて、むしろ時計のロボットか何かに人間の上半身がついているという表現のようが正しいように思えた。
「えっと……誰?」
「私はクロックモン。チミの――いや、正確にはチミの仲間の恩人だ」
「は、はあ……」
吐瀉物のついた布団を回収する自称恩人のクロックモンに巧はどう反応すればいいのか困った。自分で恩人と言う輩を果たして信用してよいものか。さっきまでとは違う理由で頭が痛くなる。
「まあ、鵜呑みには出来んだろうな。では、この布団をじっと見ておけ」
脈絡も糞もないが、言われたとおり彼の掲げる布団に視線を移す。何が悲しくて自分の吐瀉物のついた布団を見せつけられなければならないのかとは思ったが、それを口に出すのはぐっと堪えた。
「じゃ、ワン、ツー、スリーっと」
やる気があるのかないのか分からない口調でクロックモンがそう言った直後、布団が僅かに輝いて、ついていた吐瀉物は一瞬で跡形もなく消え去った。
「えっ、ちょっと……は?」
さすがの巧も我が目を疑い、間抜けな声を上げる。手品の一種かと思ったが、あの一瞬わずかに見えた光は自分たちの進化弾と同じものに見えた。つまりこれはこの世界特有の、物体を定義している情報から現実を改変する一種の技術。
「つまりこういうことだ」
「どういうことだ」
ぱっと見てあそこまで理解できた、いつも以上に冴えている巧でも全部分かった訳ではない。むしろ逆に疑問の方が増えた気がする。
「まあ、細かいことは後で話そう。チミを待っている者たちもいることだしな」
「あ、ああ……ついて来い、ってことだな」
そんなこちらの困惑を察してか、クロックモンは部屋の扉を開けてこちらを手招き。一瞬彼の言葉がどういう意味か気になったが、それも後で分かるのだと理解して、ベッドから降りその後を追いかける。
「それじゃ……っと、そうだそうだ」
「ちょっ……何だ?」
追いついたところでクロックモンが何かを思い出したように足を止めた。もう少し勢いに乗っていたらぶつかりそうだったと少し怒ろうかと思ったが、そんな感情もクロックモンの発言で一気に吹き飛ぶ。
「チミは真治に浄化弾を一発も撃てなかったと言ったが、それは誤りだ。――憶えてはいないだろうが、チミは一発だけ彼の脳天に撃ちこんでいる」
黒い流星群が消えた後、巧は意識のない状態でふらりと立ち上がり、驚く真治の脳天に浄化弾を撃ちこんだ。
道中に聞いたクロックモンの話を要約するとこんなところだ。
巧の記憶とは矛盾することがあったためいまいち信用できないのが本音だが、クロックモンは「後でまとめて話すから先に再会しておけ」と言って布団を持って行ってしまった。
「はあぁ、あいつ本題後回しにしすぎだろ」
そして巧は一人、この会議室の扉の前に立たされている。無視してクロックモンを追いかけようとも思ったが、彼が何度か散りばめた言葉がある推測を産んでその足を止めさせた。
「でもなあ……」
そんなに都合が良いことがあるのか。しかし自分がこうして生きているのだから可能性としては非現実的ではないだろう。
「ああもう! しゃらくせえっ!!」
そうやって悩んでも結局答えが出るはずもなく、そもそもそこまで悩めるほどに賢くもなく、結局巧は扉を思いっきり開けることにした。
「どわああっ!」
「へっ……」
その直後に目に入ったのはこちらに向かって飛んでくる赤い物体。避けるには少し時間が足らなかった。
「ぶっ!?」
避ける間もなく顔面に直撃し、背中から倒れる。後頭部を床で強打して意識が飛びそうになったが、なんとか堪えて顔面に張り付いた赤い物体を引っぺがす。
「いてて、いきなり何だ? ……って、うん?」
手に持った赤い物体をよく見ると、ところどころ見覚えのあるパーツがあることに気づく。
二か所に走る黒いライン。その先にあるぎざぎざとした突起。それとは別の場所にある三本並んだ突起。
「何してんだ、リオモン」
「巧!? あっ。えと、これはその……ははは」
パートナーとの感動の再会のはずが、何か雰囲気が滅茶苦茶でそんな気分とは程遠くなってしまった。何より悲しいのが、そうなりうるのが自分達らしさだと思ってしまう自分もどこかにいることだ。
「おはよう、巧。ちょうどいい。君もまとめて責任の追及と折檻を行おうか」
「再会して最初の一言がそれなのはどうかと思うぞ、充」
リオモンがいるということは、同じように充たち他の仲間も完全に復活したということ。見たところ、この部屋には最初の頃からレギュラーメンバーが揃っているようだ。
復活直後に、その付き合いの長い仲間に命を危険に晒されるのは御免だ。冗談にしてももう少しまともな台詞はなかったのか。
「いや、あいつら本気だぞ。慌てて逃げようとしたら首根っこ掴まれてさっきみたいに投げ飛ばされた」
「マジでか。……あの、洒落なんないんで本当勘弁してください」
やることがいちいち過激で恐ろしい。仲間だと思っていたのは自分だけだったのか。正直、疑念しか湧かなくなる。
「冗談、冗談。……いや、本当だから」
「ああ……そういうことにしておく」
もう深く考えないほうがいい気がする。ここはおとなしく再会を喜ぶべきだ。
「なんであれ無事でよかったよー。生きていることには感謝しないとねー」
「そうだな。とりあえず助かったのは助かったんだ」
葉月がいつものような笑顔を向ける。それにすらも疑り深くなった自分には目を瞑った。
「で、ここはどこで、俺たちは何で助かったんだ?」
「えっとー……」
ここで核心をついてみる。鬼が出るか蛇が出るか。返答に困るということはそれほど言いづらいかややこしいということ。或いは彼女自身も上手く理解し受け止めきれていないということか。
「葉月、回りくどいの無しで素直に言ったらどう?」
「そうねー。その方が巧も理解しやすいだろうしー」
何となく馬鹿にされた気がしないでもないが、葉月が言っていることは異を唱える必要のない事実。無論、ピクシモンと葉月に対して感謝する気は微塵もないが。
「まず、ここはー私達が気を失うまで居たあの町にあった公民館みたいな場所。当然ー、戦闘の最中に被害を受けたから本当は消滅しているはずなのー。でもークロックモンの力でそうなる前の状態に戻されたんだー。――要するに、時間が巻き戻ったの」
「なるほど、なるほ……は?」
思考が停止した。言葉は理解出来るがあまりに現実的ではないため、意味を理解するのを拒みたくなる。だが、先ほどクロックモン自身が見せた、あの手品じみた奇跡の答えとしても妥当だと思えて、混乱しそうになる。
「ついでに言うと~、僕たちの肉体も~失う前に時間が巻き戻されたんだ~。だからこうしてピンピンしてるわけ~」
「そういうことだ。分かったか、ド低脳。疑問質問は一切受け付けん」
「いや、待て待て待て待て!」
ついでにさらに現実味に欠けることを言われて普通黙っていられるだろうか。いや、無理だ。さらっと馬鹿にされたのはもう気にはしない。
「何だ、腐れ脳ミソ」
「一也、俺を馬鹿にすんのもいい加減にしろよ」
訂正する。やっぱり気になってはいたし、限界が来ていた。だが、あくまでこの一回だけだ。
「正直、あまり理解できないし納得もできてない。さすがに俺だって少しくらいは詳しく聞きたい」
これ以上突っかかっても話は進みそうにないので、そろそろ詳細を聞かなくてはならない。
「――だから、後でまとめて話すとチミらに言っただろうが」
不意に背後から特徴的な声が聞こえる。振り向けばクロックモンが呆れた表情を浮かべてこちらを見ていた。
「仕方ない。この私がチミたちの質問にお答えしよう」