無神論者という宗教の話をする | ニートの掃き溜め

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社会不適合者のすくつ

私は無神論者だ。

が、キリストのいくつかの宗派やら、神学関係の本、説教本、コーランもあるし(ハーディスもいずれ)、聖書や神話関連、護教論、それら解説本もたくさん所持している。

なんならゾロアスターやミトラとかマイナーなのもあるし、当然日本仏教、記紀も色々とある。ウパニシャッド(ヴェーダ)、アヴェスター、ゾーハル…この手も上げればキリはないが。

こうして興味を持つのは逆に無神論者故なんだが(そういう人多いと思うけど)、日本の過激な無神論者ってまず宗教の事について理解が浅い人が多いよね。

 

というのも、宗教について深い造詣を持つと、刷り込まれた教条、危険思想が誤ってる事に気づくからだと思うんだが、それってなんなの?って話をまずしよう。

 

まず恐らく何故こんなに日本という共同体に「宗教は危険思想である」という号令が発信されて脳死その教条を守る様になったかというと、宗教弾圧の歴史等(特に神道は天皇、政治利用で創作されているため)いくつか要因は考えられるが、何よりも日本は無宗教からの危険な新興宗教の繁栄が世界の中でも屈指だからであろう。

世界各国では歴史という弁証法でうまく適正化したキリスト教などの比較的無害な菌を張り巡らせているが、日本はいわば無菌状態である。

そこに変な菌が混じれば瞬く間に広がる。納豆が何故雑菌が湧きにくいか、それは納豆菌がコロニーを形成しているからだが(だから粘り気がなくなったら腐ってる証拠)、宗教も菌のように無菌状態なら悪意のある菌に感染しやすくなる。

 

そう、創価学会、顕彰会、世界救済教、幸福の科学、エホバ、オウム色々あるけど、とにかく日本はそういう環境なので繁殖させやすい。

そうやって新興宗教によるテロが発生し、そんで教育やメディアとともに宗教に携わる人間は人間のクズである。というような教条を刷り込ませることによって、社会の問題を解決しようとした。(本質的な事等を多種多様な大衆に教え込ませるのは不可能である。共同体を導くにあたり複雑なプログラミングは絶対にできない。そのため社会を生存、適応させるには「〇〇はカス」みたいな簡単で単純な号令を飛ばす事になる)

 

こうした経緯を辿って日本には「宗教に携わる人間は排斥しても良い」という教条を持つ思想が出来た。

これを無神教とでも言おう。宗教に携わったり、好意的な人間は邪教、異教徒なので加害しても教条的には正義がある訳だ。

こういった形で結局大衆というのは宗教的な構造から逃れられなくなっている(本人は頑なに宗教的な物ではないと自己欺瞞を続けるだけであり)。で、あれば初めから無害な菌のコロニーをつくっておくのが一番適切とも俺は思う。

 

 

 

宗教を糾弾するための材料はいっぱい転がっている為、否定しやすいのだがそれらも宗教その存在の有無と集団心理や行動経済などの社会学的なアプローチから鑑みた場合本当にそれらが真がどうかも危ぶまれるものも多いし、特段として憎しみを覚えるようなものではない(少なくとも一つの言説を鵜呑みにせず、本気で考察すればの話だが)。

 

例えば一番妥当性や輪郭がはっきりしているものはキリスト教による学問や技術の足かせだ。

どう考えてもキリスト教の権威が都合の良い言説で大衆を支配する為の行為によって歴史や進歩を著しく停滞させたのは年表を見るだけでも明らかではあるが、宗教だけがそれらの状態を作り出したか?という問いをすると(現象学どうとか知らない人がこれでピンとくるかどうかが資質な気がする)必ずしもそうとは言えないという話になってくる。

 

まず本質的な事を考えると宗教を作り出したのは何か、有名どころでニーチェでいうところのルサンチマン等だが、こうやって起因を探ってみると当たり前だが人間の本質的な問題がそれを作り出していることになる。

つまり宗教的な概念が無くてもこの状態を作り出すための因子はまた別に存在する為、別の組織形態などでも同じ様な事が発生するという事。

例えば宗教ではなく別の教条・思想団体や組織が主体だったとしても、ベクトルが変わるだけで同じような致命的な問題は発生すると言える。

 

となると、本当に問題があるのは宗教ではなく人間の生態や本能に問題があると言え、宗教に直接的な問題があるとは言えない。

少なくとも教条利用した残虐性や利己的な誘導というのは宗教だけに限った話ではない、組織的な形態を持つ物全てに備わっている危険因子で今も朽ちることなく恒常的に問題が発生している(普遍的な物だと学校)。

 

つまり、発生したインシデントに対する間に合わせの号令に惑わされているものの、実際これらに大きな害があるかどうかというと疑問符が与えられる訳だ。

というか、一つ前のパラグラフで上げた通り、危険思想を持つ新興宗教が蔓延った要因が無宗教国家という無菌状態である事。というように、むしろ問題がマッチポンプである部分にも着目してもらいたい。

 

私がこの問題についてとやかく突っ込みを入れたくなるのはそういう「オタクを嗤うキモオタ」みたいな人間が目立つからである。

 

なんか疲れたのでこの辺にする。

 

 

 

※追記:話を放り投げていたのでさっと全ての結論だけ書いておこう。

 

人間の欠点が宗教を介して問題として表れているだけで、宗教が原因なのではない。

実際同様の条件が揃えば無宗教の人間でもまるで同様の欠点、問題は発露する訳だが、本質や原因を巡るのは非常に難しい。

例えば意見の対立で人を殺してしまったとしよう。

それは意見の対立は飽くまできっかけであり、人を殺してしまったのはその殺した本人に原因がある。それはわかるよね。

でも宗教が悪いの様な構造を当てはめてしまうと、自分の意見を持つ事が悪と言えてしまう。

原因の過程に思想が必ずクッションに挟まる為、宗教家であれば宗教が悪目立ちするが原因は宗教ではない。

本人の確信している認知の歪みや教条が問題あり、それは宗教という概念がなくても常に成立する。つまり原因は個人の中にある。

 

私が良くやるこういった構造を類推する論法は少し条件がズレると大きく誤謬を促すとんでもない詭弁になる為に注意を張り巡らす必要はあるが、同様の注意が必要なモンスター、各々が必ず抱えてしまう認知の歪み、物の誤った見方を解消するには打ってつけなので一考の余地は十分にあると思われる。

 

日本の無神論者が攻撃的な様に、人が教条的に人に害なす事は宗教が無くても常に成立している事からも問題を起こす本質は宗教ではないことが伺える。

そもそも刷り込まれた嫌宗教の洗脳教育、風習の問題とは思われるが、愚直に宗教は悪、ではなく、類推でも現象学的アプローチでもなんでもいいから落ち着いて何が問題なのか?をゆっくり考え直してもらいたい。