自称社会的弱者による他責至上主義論 | ニートの掃き溜め

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社会不適合者のすくつ

最近AIかはたまたはトレンドなのかは不明だが、インセルのような社会的弱者による「親、国、環境が全て悪い。責任を取って俺達を優遇しろ!」みたいな訴えを度々見かけた。

 

なぜそれらが悪いのかというと、要するに酷い国、環境の中に勝手に親が自分を生んだ。自己決定権を排除された俺達に謝罪しろ!

という主張だった。

自分で努力する道はないのか?という話になると、「責任は国、環境、特に産んだ親にあるので私が努力するのはおかしい」(※)という主張だった。

あらゆる反差別団体で見られるこの詭弁だが、特に明確な阻害要因がない彼らがこの主張をするのはかなり大きな問題が出てくる。

 

自己決定権云々という話になってくると、それを否定せずに解釈する場合、自由について突き詰めた学者でお馴染みのスピノザやライプニッツのモナド論がいい例で、基本的に能動性の高い事象や人間が連鎖して弱者が存在するなら、その根本を辿ると必ず神性に至る。

よって全ての責任は神の責任となるので、彼らの主張をそのまま肯定するなら隣人に一切の罪はなくなる。

能動性、受動性の関係を自由とし、その自由のありかで責任が発生するならラプラスの悪魔を辿るようにより大きな能動的な物に支配されていることになる。

そこに責任追及ができるなら筋が通っているが、自分と同じくより大きな能動性に支配された隣人に責任を求めるのは筋違いとなる。

 

もしかすると、責任の大小の話を持ち出してくるかも知れないが、そいつらより下の立場の連中が同様に責任を求めた場合、底はあれど同じようにたった一つの世界で最も受動的な小なる完全性を持つ、人もしくは動物、虫、物、事象にたどり着くことになる。

そうそれはもはや人間ですらない可能性もある。

まあ仮に不快を基準としたら人間なので人間としよう、そのたった一人の人間のために我々は責任を取る必要があるので、社会的弱者を名乗る人間(もしかしたらそのうちの一人かも知れないが)は責任要求する立場ではなくなる。

まあ彼らの頭の中にある都合の良い尺度で、責任を取らなくていい境界があり、その境界に自分がギリギリ入ってると考えてるだろうのは想像に難くはない。

 

というのも、実際私は説明するのも危ぶまれる程度に酷い過去があり、立場も収入も社会的信用もそこらのにはよっぽど負けない程度に社会的弱者を長年続けてきた人間だが、彼らの意見を否定はしないものの、上記のような矛盾が生まれませんか?という話をするに至りどう言った反応が帰ったか?というと、やはり「お前のような恵まれた人間にはわからない」という事である。

私は恵まれた人間からは程遠い存在だったので(いまギリ底辺くらい)、どう言った過去を持つか説明したところ「だったらそのまま不幸になっちまえ」と良くわからぬ文言が帰ってきた。

どうやら恵まれてない人間でも彼らにとって都合が悪い人間は不幸にならなきゃいけないらしい。

もっと悪質というか酔っ払ってるような人間が多く、言語障害のような受け答え(言葉の定義が独自のものになっていたりする。これは身内に似た症状のものがいるので多分同じだと思う)や質問で会話になってなかったので省略するが、要するに「自分達の考え方に賛同しないものは恵まれた人間」という自己欺瞞のドグマを予防線として用意している為、何を言っても独善的な考えを改めることはないのだろう。

 

別のところでは社会的弱者を救済しない考えを持つのは高学歴が多い。というような共産主義的な主張も見かけたが、これは低学歴建築業その他のマイルドヤンキーの巣窟で同じ甘ったれた舐めた弁論を吐いてみろとしか言いようがない。(人生で関わりなさすぎて何をいうか想像もつかないのかも知れないが)

どうやら当人はSNS上でそう言った見解が多く見られるとのことだが、これは本題から少しそれるが、そもそもとしてSNSは自分が過剰反応するコンテンツを記憶して大量に表示させるようにできている。

これはSNSだけではなくRSSなどとにかく昨今のインターネット全般だ。それも理解せずにネットDE真実などやってるからエコーチェンバーにまんまとハマって危険思想に陥る。

人はあらゆる快楽を善としてる以上、より分けが出来ない節操のない人間は質の悪い快楽である低きに流れる。

こうやってあからさまな認知の歪みを快楽として受け入れ、二度と沼から戻ってこなくなる訳だが。

 

本題に戻ったところでこれ以上語る点はないが、とにかく共産主義者みたいな偏向政治思想家とはまた別に、力をつける前のジェンダー運動家のような独善的な考えを持つ連中がどのような思考回路で宗教、穴だらけの教義を保っているのかはこれにて経験によって理解は出来たという話。

 

 

※追記

説明不足な部分を思い出して更に本文を噛み砕くように追記する。

この場合での問題点は(※)にある「自分の環境その他が悪いとして、責任のある他者が私を援助すべきであり、それによって自助努力をしなくて良い、寧ろする方がおかしい」というような主張の問題点にスポットを当てている。(というか、実際にこの話になった時に第三者は理解してる人がちらほらいたみたいだが、相手は多分この前提を理解していない)

その部分さえ否定すれば、原因論的には外的要因に問題があるという主張は限りはあるが正しいんだよね。

親が悪い、責任を取れ。まあ良いだろう。

責任を持つ外的要因は害をなした対象に、そのカルマ分の援助をしなくてはならない。こうなるとその援助を受ける権利は主張者になくなると言っている。

というのも散々難しい話をしたが、主張者も主張者を産んだ親も全て等しく害をなす外敵要因として生を受けているからである。

 

ただこれを親が悪いから私を援助しろ!と親に訴えかけるのはプラトンでもアリストテレスでもなんでも良いが、普遍的な原因論としては正当な理由としてある。

バタフライエフェクトのように巡り巡ってお前らにも責任がある。というような無限解釈をすると本題で詳しく説明した問題点が出てくる為、「俺は悪くない」という解釈は矛盾するという話である。

 

あとコラム枠だったが、哲学の話とそれに基づいた論理の話が出てくるので衒学的コラム(※知識をひけらかす様)にカテゴリを変える。