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Papytat~東京農工大学生協読書部~

東京農工大学生協読書部の活動をプロパガンダするブログです

 常時エアコンの効いた図書館に住めたらどれだけ幸せだろうかと、首の壊れた扇風機にあたりながらにやにやしているぶしです。皆様、この暑い中いかがお過ごしでしょうか。


 偉大なるナカムラ先輩の日記独占状態を阻止すべく二番槍(二番煎じ?)として名乗りを上げたところまではよかったのですが、ひらまりちゃんみたいに高尚な問題提起などできるはずもなく、こうしてキーボードに向かいながらどうしようかと悩んでいるという体たらく。

 まあ、たまにはこんな愚痴みたいな日記もあっていいのでは、と思ったのでてけとーにつらつら書いておきます(笑)
 でもまあ、このまま終わるのもなんなので、ちょこっと話題をば。



 世間の小・中学生は7月後半から夏休み。
 そして夏休みと言えば、そう、読書感想文である。

 塾で講師をやってると、よく生徒に愚痴をこぼされる質問される。読書感想文って何書いたらいいんだよ、って。自分が本好きだということは生徒に常日頃から言っていることだから、きっと素晴らしいアドバイスをしてくれるのだろうと期待されることもあるが。とんでもない。
 読書感想文なんて、数学の次の次の次の次くらいに苦手だ。
 
 普段本を読まない子供にも無理やり本を読ませて、あまつさえ感想を求めるなど、酷にもほどがある。
 学校側は本を読む機会を与えているのかもしれないが、

「学校で読書感想文を書いたのが、本好きになるきっかけでした!」

 なんて奇特(?)な子供の話は聞いたことがない。むしろ本嫌いを加速させている感じを受ける。
 元から嫌なものを”宿題”という形で強要して好きになるなんてことは普通に考えたらありえんことだ。

 本を読むなら「朝の読書」みたいに毎日、短時間で読ませればいいし、文章を書く練習なら他にも色々とやりようがあるだろう、と。

 読書は生きていく上で必要であるとは、思わない。
 本のある人生は確かに楽しく豊かだが、なくても死ぬわけじゃないし、本を読まないからといって人格が否定されるわけでもない(されるべきではない)。
 無理して子供に本を読ませる必要は、どこにもない。
 

 結局何が言いたいかというと、
 本好きの子供を育てたいなら、学校側はもっと上手いやり方で子供たちに読書の楽しさを気付かせるべき
 ってことかな。
 全部独り言だけど(笑)
 
 
 これとは他に、日本の国語の試験の在り方にも色々物申したいんだけれども、これはまたの機会にでも(あるのか知らんが)。



 最後に。賑やかで読んでて楽しい文章のデザインって難しいね。ナカムラ先輩とかひらまりちゃんを見習いたい…。
 あ、リレー小説は近々上げる予定ですので、期待せずにお待ちくださいませ。
 ではでは。
モンハンじゃないよ。

しばらく幽霊だったリサリサです。

久しぶりに来たと思ったらいきなり他団体からの侵略ですいません♪

皆さんは農工大に『狩り部』という農ゼミがあるのをご存知でしょうか?

ヘッドハンティングでもイチゴ狩りでもなくて狩猟です。まじめに狩猟です。

狩り部でブクログを始めるのもあって、そのうちこら簿記欠くで、ちがう!コラボ企画で棚企画を『狩猟(狩り)』にしたいな、という話を今日の部会で話したところ、首尾よくことが進みそうなので、挨拶ついでに狩り部のブログと出来立てほやほやのブクログのリンクを張りますよー。

狩り部のブログ
狩り部のブクログ
森林資源科学のテストを終えたひらまりです。ヘミセルロースの仲間たちは魔法の呪文にしか見えません。
「チチンプイプイ――アラビノ・グルクロ・ノキシラン!」って唱えてください。語呂が良すぎて呪文っぽさ3.28倍。


さて、「林檎病」と日本の小説についてぶいぶい語ってみたいと思います。
椎名林檎さん、彼女の唄と詞に病みつきになった「信者」は数多し。
(先に宣言すると、これは林檎批判ではありません)

わたしの好きな「浴室」という曲があるのですが、その歌詞の一部を(著作権的にOKかな)。
云ったでしょ?「俺を殺して」
時々ひらまりは男性相手にキレたとき口ずさんでますよ(‐^▽^‐)

彼女の詞によく出る単語をばーっと拾ってみると退廃的・アウトロ風味な言葉が踊ります。
「おかす(漢字変換多様)」「嘘」「狂っている」「傷」「血」
ぱっといえば直接的で、思春期以降この単語を見れば大体想起することは同じでしょう。
これに取り付かれた人間を「林檎病患者」と定義します。(仲間に「サンホラ病」など)

で、こっからが文学と絡めての本題です。
最近の文学を主とするクリエイターに「林檎病患者」が多すぎるのではないか?
(林檎さん自身は「狙ってこういう表現使ってるんだろう」と思うのですが)

さっきわたしは林檎さんの詩をアウトロ“風味”といいました。
この退廃的な感じは文章のテクニックとして演出できるものなのです。
そのテクニックを過剰使用して、カッコイイと思いこんで書いている模倣が多い気がしませんか
作品名は挙げません。多くの作品が程度差こそあれ林檎病だから。
(「つもり」を「心算」と書いたり「許す」を「赦す」にしたり)

小説を書く若者(10代、20代)の作品の8割で、登場人物の死が描かれるそうです。
(高1でわたしがとある文藝賞をいただいたときの評価コメント「きみのは誰も死ななかった!」←)

死という忌むべきものに、ある意味で「あこがれ」ている。
ヤンデレなる単語も生まれました。病んでいる、狂っている、そんな愛に「あこがれ」ている。
そういう若者から発表者になる人間が多く出てきたのが現代の日本文学でありましょう。
ケータイ小説や最近のラノベなど、直接林檎病でなくても「それっぽい」感じの作品群。
ここが問題だと思うのです。何故か?
どれもこれも「それっぽい」ばかりで個性も内容も無いのがほとんどになってしまう。

さっきも述べましたが、「林檎っぽさ」はテクニックなのです。
キーワードを使えば誰でもできちゃうのです。人参玉葱じゃが芋豚肉使えばカレーかシチューになるようなもので。
一見、文章もカリスマ「っぽくて」闇の甘さとか狂愛「っぽくて」酔っちゃうんだけど、
冷静に見ると別に大したことの無い作品が多くありませんか?

そして読者の側もそれを見抜く目をもたなければならないと思うのです。
ツボに来る単語が踊ってて酔わされちゃいそうになるけれど、
冷静になると、美酒でなく単なるエタノール水割りに酔わされてないか? と。

ほんとうに文章として凄いのは、
どこにでもある言葉を使って個性を出すこと。

夏休みになったらそんなクリエイターを紹介したいと思います。
以上、
papytatブログのナカムラ先輩独壇場を食い止めるための
長い独り言でした。