林檎病と日本文学 | Papytat~東京農工大学生協読書部~

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森林資源科学のテストを終えたひらまりです。ヘミセルロースの仲間たちは魔法の呪文にしか見えません。
「チチンプイプイ――アラビノ・グルクロ・ノキシラン!」って唱えてください。語呂が良すぎて呪文っぽさ3.28倍。


さて、「林檎病」と日本の小説についてぶいぶい語ってみたいと思います。
椎名林檎さん、彼女の唄と詞に病みつきになった「信者」は数多し。
(先に宣言すると、これは林檎批判ではありません)

わたしの好きな「浴室」という曲があるのですが、その歌詞の一部を(著作権的にOKかな)。
云ったでしょ?「俺を殺して」
時々ひらまりは男性相手にキレたとき口ずさんでますよ(‐^▽^‐)

彼女の詞によく出る単語をばーっと拾ってみると退廃的・アウトロ風味な言葉が踊ります。
「おかす(漢字変換多様)」「嘘」「狂っている」「傷」「血」
ぱっといえば直接的で、思春期以降この単語を見れば大体想起することは同じでしょう。
これに取り付かれた人間を「林檎病患者」と定義します。(仲間に「サンホラ病」など)

で、こっからが文学と絡めての本題です。
最近の文学を主とするクリエイターに「林檎病患者」が多すぎるのではないか?
(林檎さん自身は「狙ってこういう表現使ってるんだろう」と思うのですが)

さっきわたしは林檎さんの詩をアウトロ“風味”といいました。
この退廃的な感じは文章のテクニックとして演出できるものなのです。
そのテクニックを過剰使用して、カッコイイと思いこんで書いている模倣が多い気がしませんか
作品名は挙げません。多くの作品が程度差こそあれ林檎病だから。
(「つもり」を「心算」と書いたり「許す」を「赦す」にしたり)

小説を書く若者(10代、20代)の作品の8割で、登場人物の死が描かれるそうです。
(高1でわたしがとある文藝賞をいただいたときの評価コメント「きみのは誰も死ななかった!」←)

死という忌むべきものに、ある意味で「あこがれ」ている。
ヤンデレなる単語も生まれました。病んでいる、狂っている、そんな愛に「あこがれ」ている。
そういう若者から発表者になる人間が多く出てきたのが現代の日本文学でありましょう。
ケータイ小説や最近のラノベなど、直接林檎病でなくても「それっぽい」感じの作品群。
ここが問題だと思うのです。何故か?
どれもこれも「それっぽい」ばかりで個性も内容も無いのがほとんどになってしまう。

さっきも述べましたが、「林檎っぽさ」はテクニックなのです。
キーワードを使えば誰でもできちゃうのです。人参玉葱じゃが芋豚肉使えばカレーかシチューになるようなもので。
一見、文章もカリスマ「っぽくて」闇の甘さとか狂愛「っぽくて」酔っちゃうんだけど、
冷静に見ると別に大したことの無い作品が多くありませんか?

そして読者の側もそれを見抜く目をもたなければならないと思うのです。
ツボに来る単語が踊ってて酔わされちゃいそうになるけれど、
冷静になると、美酒でなく単なるエタノール水割りに酔わされてないか? と。

ほんとうに文章として凄いのは、
どこにでもある言葉を使って個性を出すこと。

夏休みになったらそんなクリエイターを紹介したいと思います。
以上、
papytatブログのナカムラ先輩独壇場を食い止めるための
長い独り言でした。