時限遺伝子
―― 清正の井戸に呼ばれた男
まえがき
私たちは日々、理由のない「胸騒ぎ」や「ふとした思いつき」にとらわれることがあります。単なる偶然やストレスのせいにして通り過ぎてしまうそれらは、もしかすると、気の遠くなるような時間を越えて届いた「何か」なのかもしれません。
本作は、東京・明治神宮のパワースポットとして知られる「清正井」を舞台に、遺伝子と歴史、そして現代の日常が可笑しくも爽やかに交差するフィクションです。
日常のふとした隙間に潜む小さな奇跡と、世代を超えて紡がれるささやかな絆の物語を、どうぞお楽しみください。
序章 厄年のバグ
五十二歳になった年から、私の脳に奇妙なバグが混ざり込んだ。
夜な夜な、見知らぬ着物姿の男たちが枕元に立ち、無言のまま何かを「置いていく」のである。目が覚めても手には何もない。あるのはただ、後頭部に張り付いたような、妙にリアルな既視感だけだった。
会社の健康診断では「ストレス性の不眠傾向」と診断された。しかし私は密かに思っていた。これはストレスではない。もっと別の、たとえるなら体の奥深くに仕込まれたタイマー装置が、静かにカウントダウンを始めたような感覚なのだと。
第一章 清正井、無人の一瞬
その日、私は特に予定もなく、気づけば明治神宮の森を歩いていた。目的地を決めた記憶はない。足が勝手に、清正井へと向かっていた。
清正井は都内屈指のパワースポットとして知られ、平日でも列ができる。ところが私が井戸の柵の前に立った瞬間、人が消えた。
さっきまで並んでいた観光客も、スマホを構えたカップルも、係員も、忽然と姿を消し、井戸の水音だけが森に響いていた。
「……まさか」
そう呟いた途端、視界がぐにゃりと歪み、私は水面に映る自分の顔の向こうに、もう一人の顔を見た。長烏帽子形の兜に、鋭い眼光。歴史の教科書で見た顔だった。
加藤清正、その人である。
第二章 遺伝子会議室へようこそ
気づくと私は、和風というより「和風会議室」としか言いようのない奇妙な空間にいた。床の間に長机、上座に清正が腕組みで座り、その両脇には見覚えのない、しかし妙に自分に似た顔立ちの人々が並んでいる。
「遅いぞ。何代待たせる気だ」
清正は開口一番、そう言った。声は野太いが、言葉遣いはやけに現代的だった。
「あ、あの……ここは?」
「説明が要るか。まあいい、手短に言う」
清正は懐から、巻物の形をしたタブレットのようなものを取り出し、指でスワイプしながら話し始めた。
「我々先祖一同は、子孫の中から一定の年齢と経験値を満たした者に、代々の記憶と使命を『継承』する仕組みを、DNAに埋め込んでおる。いわば時限発信装置じゃ。お主は先ほど、その受信条件、五十二歳、および一定の知識と関心の蓄積を満たしたのでな」
隣に座っていた、縄文時代らしき装束の老人が横から口を挟んだ。
「腹減った」
「黙っておれ、順番じゃ」
清正が一喝する。どうやらこの会議室、時代も立場もばらばらな先祖たちが、順番待ちで詰め込まれているらしい。江戸期らしき男は退屈そうに巻物型の端末をいじり、平安装束の女性は「更新プログラムが重い」とぼやいている。
私はようやく状況を飲み込んだ。これは霊的体験でも比喩でもなく、遺伝的に実装された、多世代リレー式伝達システムのインターフェースなのだ。
第三章 任務の内容、あまりにも地味
「して、我らが子孫よ。お主に託す任務じゃが」
清正が咳払いをして、いよいよ本題に入った。会議室の空気が張り詰める。歴代の先祖たちが一斉に居住まいを正す。
私も思わず息を呑んだ。国家の秘宝か、失われた技術か、はたまた人類を救う叡智か。
「井戸の、落ち葉さらいを頼みたい」
会議室の空気が、違う意味で張り詰めた。
「……は?」
「清正井の湧水口、北側の排水溝がここ数年、落ち葉と苔で詰まりかけておる。水の流れが滞ると、気が濁る。気が濁ると、お主らの時代のパワースポット人気にも陰りが出よう。由々しき事態じゃ」
「いや、それは神宮の管理事務所の仕事では……」
「事務所は月イチの点検じゃ。日常の小さな目詰まりまでは手が回らぬ。だが我らは見ておるのだぞ、四百年、ずっとな」
平安の女性がため息をつく。
「うちの子孫なんて、賽銭も投げっぱなしで拝んで満足して帰るだけよ。誰も水を見ていない」
江戸の男もうなずく。
「拙者の子孫に至っては、写真だけ撮って即帰り申した」
会議室に漂う、なんとも言えぬ「あるある先祖会」の空気。私はこの壮大な仕掛けの正体が、要するに清掃ボランティアの召集であったことに、めまいを覚えた。
第四章 清正の言葉、本当の意味
「なぜ、そこまでして水にこだわるのですか」
私が尋ねると、清正はふっと表情を緩めた。武将の顔から、少し違う、もっと年老いた、庭師のような顔になった。
「絶えなく動くならば、水清らかなり。そう言うたのは、儂の遺言のようなものでな。城普請の時も、治水の時も、儂が学んだのはそれだけじゃ。動きを止めた水は腐る。人も、家も、国も同じ」
「……」
「お主の中に流れる血もまた、同じ理屈じゃ。夢だ、予兆だと立ち止まって考え込むばかりでは、そのバグとやらは一向に消えぬぞ。動け。実際に手を動かし、足を運び、水を流せ。それだけのことよ」
縄文の老人が、待ってましたとばかりに立ち上がる。
「動いたらメシ食えるか」
「食える食える」
清正が適当にあしらう。何百代分の先祖たちの間に流れる、妙に家庭的な空気に、私は思わず笑ってしまった。
第五章 現実へ、箒を持って
目が覚めると、私は井戸の柵の前に立ったままだった。背後では、観光客の列が再び動き出していた。時計を見ると、経過していたのはわずか三分。しかし手のひらには、なぜか小さな葉が一枚、握られていた。
翌週末、私はホームセンターで熊手と小さな箒を買い、再び明治神宮へ足を運んだ。まずは境内のボランティア活動について案内を受け、定期的に行われている清掃活動に参加することにした。
井戸周辺の作業中、落ち葉を拾いながら、ふと隣で軍手をはめている老年の参加者に聞いてみた。
「これ、長く続けてらっしゃるんですか」
「もう十五年になるかなあ。なんでかね、五十過ぎた頃から急に、水の流れが気になり出してねえ」
彼は笑いながら、そう答えた。
私はその言葉に、思わず箒を持つ手を止めた。
終章 バグではなく、遺伝
あれから私は、もう「奇妙な夢」を見なくなった。
タイマー装置は、どうやら止まったらしい。いや、正確には、鳴らし続ける必要がなくなったのだろう。目覚まし時計は、起きた瞬間に音を止めるものだ。
今でも月に一度、私は清正井の周りの落ち葉をさらう。水は今日も、絶えなく動いている。
そして時折思う。この習慣もまた、私の遺伝子の中で静かにコードされ、いつか私の子か孫か、あるいは見ず知らずの遠い子孫の脳裏に、奇妙な夢となって再生されるのだろうか、と。
その時もし彼らが、加藤清正という妙にIT武将めいた先祖に「落ち葉さらいを頼む」と告げられ、目を丸くすることがあったなら。
どうか、笑って引き受けてやってほしい。
先祖からの壮大な使命というのは、案外、そんなものである。
(了)
あとがき
本作は、東京・明治神宮の「清正井」を訪れた際に感じた、静謐でどこか不思議な空気感と既視感から着想を得た創作小説です。
作中に登場する加藤清正公の逸話や「絶えなく動くならば水清らか」という考え方は史実や伝承を参考にしていますが、登場人物の描写や設定、世界観はすべてフィクションであり、史実や実在の寺社の見解を代表するものではありません。
日々の中で「ふと気になって手を伸ばしたこと」や「急に興味が湧いたこと」があったなら、それはもしかすると、あなたの遠いご先祖様からのちょっとした「タスクの割り振り」なのかもしれません。
読者の皆様の日常に、小さな潤いとフッと笑えるひとときをお届けできたなら幸いです。


