続 謎の4世紀・前日譚

―― 片道タイムマシン、あるいは、送り出す側の物語 ――


まえがき
本書をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。
本作『謎の4世紀・前日譚』は、4世紀の倭国へ渡った7人の男女の生と足跡を描いた本編『謎の4世紀』の舞台裏であり、彼らを「送り出した側」の人間たちを描いた群像劇です。
時間跳躍という技術が確立された未来において、なぜタイムマシンは「片道」でしかあり得なかったのか。二度と戻らないと分かっている人間を過去へ送り出すとき、残された側の人間はどのような責任と感情を背負うのか。
旅立った7人の勇気と選択の背景には、彼らの背中を見送り、その記憶を四千年後の未来まで抱え続けようとした7人の技官たちの、深く静かな覚悟がありました。
二度と逢えない誰かを想い続けること、そして過去となった時間をいつまでも愛おしむことの切なさと温もりを、未来都市の静かな研究所の空気感と共にお届けできれば幸いです。
どうぞ、青い輪の「こちら側」にあった、もうひとつの物語をお楽しみください。




序 ——研究所——
西暦4444年、6月17日、月曜日。
東京湾は、四百年前より二十七メートル高い位置にあった。かつて品川と呼ばれていた地区は水面下にあり、その真上に人工浮島が静かに浮かんでいた。浮島の北端に、白い、飾り気のない五階建ての建物があった。
看板は、無い。
正式名称は、時間工学研究所・第七分所という。通称は「七分所(ななぶんじょ)」と呼ばれていた。所員は常勤で二十八人。契約技官と外部研究者を合わせて四十六人。予算は政府の科学技術省から隔年で降りていたが、年ごとに減っていた。
七分所の一階には、転送室がある。
ヒノキの匂いのする、八畳ほどの板張りの部屋である。中央に、直径二メートルの金属の輪が垂直に立っている。輪の色は灰色でも銀でもなく、ある種の青を含んでいる。輪の周囲には規則的な間隔で細い管が走っており、その中を透明な液体が常にゆっくりと流れている。
この輪を通ると、人は過去に行く。
戻って来た者は、いない。
——
以下は、この研究所の七人の技官と、彼らを取り巻く人々についての記録である。
彼らは、送り出す側の人間だった。
彼らは選ばれた七人(生化学者、剣道七段、元自衛官、言語学者、料理人、記者、映画監督)を、順番にあのアクアブルーの輪の向こうへ送り出した。
そして彼らは、その後もしばらく、生きた。
これは、送り出した者たちがなぜ片道しか作れなかったのか、そしてなぜ、それでも送り続けたのかについての記録である。



第一章 所長・榊 遥(さかき はるか)
榊 遥は六十三歳の女性で、七分所の四代目の所長だった。
彼女はこの研究所の生き字引だった。二十八歳のときに助手として入り、三十四歳で主任研究員、四十九歳で副所長、五十七歳で所長になった。夫はいない。子もいない。恋人もいなかったと、少なくとも所員たちは思っていた。(実際には若い頃、恋人がいた。恋人は彼女がまだ助手だったころ、初期のタイムマシン試験に志願した。その恋人が七分所の最初の送り出しだった。彼は白亜紀後期に送られた。それ以来、消息はない。榊はそのことを誰にも話さなかった)
——
四月のある朝、榊は所長室の窓辺でコーヒーを飲んでいた。
コーヒーは月面産だった。地球のコーヒー豆は二十二世紀に絶滅した。月面の温室で細々と復活栽培されているのが、いま地球で飲めるほぼ唯一のコーヒーである。値段は榊の月給の五パーセントに相当した。彼女はそれを月に一度だけ自分に許していた。
ドアがノックされた。
「入って」
副所長の真木 悠仁(まき ゆうじ)が書類を抱えて入って来た。真木は四十五歳。榊の二十歳年下の有能な補佐役である。
「所長。第八号被験者の選定案です」
榊は書類を受け取った。
第八号被験者とは、七人目のアキラ・スワの次に送り出す予定の八人目の被験者である。既に選定委員会は動いており、候補者は絞り込まれつつあった。
榊は書類の一行目を読んだ。
そして、静かに閉じた。
「真木さん」
「はい」
「これ、止めます」
真木はまばたきをした。
「え」
「送り出し。八人目は送りません。七人で終わりにします」
真木はしばらく黙っていた。それから彼は慎重に言った。
「所長。それは、あなた一人で決められる話では——」
「分かっています。委員会には私が話します」
「理由は」
榊はコーヒーを一口飲んだ。
「昨日の夜、夢を見ました」
「……夢、ですか」
「ええ。夢を見たというのが理由です」
真木は笑わなかった。彼は榊がこの研究所で夢を根拠に決定をしたことがこれまでに一度もないということを知っていた。
「どんな夢ですか」
榊は答えなかった。
——
彼女が見た夢の話は、この物語の最後で書く。
いまは、こう書いておく。
榊 遥はこの日、送り出し計画の正式な凍結を決意した。既に送り出した七人については記録を続ける。しかし、八人目以降は送らない。
その決意を、彼女は六月十七日の正午、全所員に告げる。
以下の六章は、その六月十七日正午までの、他の技官たちのそれぞれの物語である。



第二章 主任理論物理学者・鶴岡 慧(つるおか さとる)
鶴岡 慧は五十一歳の男性で、七分所の時間物理理論の最高権威だった。
彼はこの研究所で、なぜ過去には行けるのに未来には行けないのか、そしてなぜ行った者は戻って来ないのかについて、公式に答える立場にあった。
彼の答えは、いつも同じだった。
「まだ、分かりません」
彼はこの答えを公聴会で、記者会見で、政府の予算査定の場で、少なくとも六十七回繰り返した。
——
六月十六日、日曜日。月曜日の前日。
鶴岡は自分の研究室で、七年前から書き続けているある論文を読み返していた。
論文の題はこうだった。
『時間跳躍における非可逆性の起源について――「二重の壁」仮説』
論文は七年間、未発表のままだった。理由は鶴岡自身が、この論文の内容をまだ公表するべきではないと判断していたからである。
なぜか。
論文にはこう書かれていた。
「時間跳躍は、粒子の状態を時空の別の座標へ移送する行為である。この行為は原理的には可逆であり得る。すなわち、送り出したものは原理的には戻せる。
しかし、我々が現在使用している環状液体加速方式——一階転送室の青い輪——は、可逆性を意図的に破壊する構造を持っている。
なぜそのような構造を採用したのか。答えは単純である。可逆性を保持する方式は、送り出す者と送り出される者とのあいだに量子的な結合を生じさせる。この結合は、送り出された者が過去の時空で何らかの決定的な意識的行動を行った瞬間に、送り出した者の側に逆流する。逆流の物理的影響は未だ正確にはモデル化できていない。ただし初期実験のシミュレーションでは、逆流を受けた側の送出装置と、そこにいた技官の両方が時空的に消失するという結果が繰り返し出た。
したがって、我々は可逆方式を放棄した。
我々は意図的に片道方式を採用したのである。
これは失敗ではない。
これは、送り出す側を守るための選択である」
——
論文には続きがあった。
「しかし、片道方式にも代償がある。
片道方式では、送り出された者は過去の時空に恒常的に固着する。彼らはその時空で生き、死ぬ。彼らの意識は、彼らの生きたその時空のその場所に、永遠に埋め込まれる。
これは比喩ではない。物理的な意味でそうである。
ここで興味深い、しかし極めて厄介な事実が一つある。
送り出された者が過去の時空で何かを『書き残した』場合、その書き残されたものは二つの経路で我々の時空に影響する。
第一の経路。通常の考古学的な経路。書き残されたものは物理的に四千年の時を経て、我々の時代の地層から掘り出される。これは我々が慣れ親しんだ歴史学の対象である。
第二の経路。量子的な直接経路。書き残された物体は、送り出しの際に生じた微弱な量子結合の残滓を通じて、我々の側の特定の受信条件が満たされたとき、直接我々の時代の特定の空間座標に出現し得る。
第二の経路が発現する条件はまだ正確に特定できていない。ただし、以下の三条件が揃った場合、確率は有意に上昇する。
(1)書き残しの内容が、送り出した側への明示的な呼びかけを含むこと。
(2)書き残しの物理的媒体が四千年間破壊されずに残存すること。
(3)書き残しが埋設された地点が、送り出し座標との時空的な短絡経路上にあること。
これらの条件が揃ったとき、書き残された物体は掘り出される前に、我々の時代の送り出し施設の特定地点に直接出現する可能性がある」
——
鶴岡はこの論文を七年抱え込んでいた。
理由は二つあった。
一つは、この論文を公表すれば、送り出された七人の誰かが書き残しを通じて呼びかけてくる可能性が社会的に期待されてしまうことだった。期待は失望を生む。もし四千年の時を経て何も届かなかったら、送り出された七人の家族は二重に傷つく。
もう一つの理由は——鶴岡は自分でも認めたくなかったが——彼自身がその呼びかけを恐れていたからである。
呼びかけが届いたとき、彼は何と答えるつもりなのか。
「ようこそ、四千四百四十四年へ」と書けるだろうか。
「あなた方を片道で送ってしまった私たちを許してください」と書けるだろうか。
——
六月十六日の夕方、鶴岡は論文のファイルを閉じた。
彼は研究室を出て廊下を歩き、榊の所長室のドアをノックした。
「入って」
鶴岡はドアを開けた。
「所長。少しお時間いいですか」
榊はコーヒーカップを置いて彼を見た。
「鶴岡さん。ちょうど良かった。私もあなたに話があります」
鶴岡は椅子に腰を下ろした。彼は革のブリーフケースから、七年ぶんの厚さのある紙の束を取り出した。(4444年でも、鶴岡は重要な論文は紙で書く男だった)
「これを公表しようと思います」
榊は束の表題を読んだ。彼女はしばらく動かなかった。
「……鶴岡さん。あなたはこの論文を七年公表しなかった」
「はい」
「なぜ、いま」
鶴岡は少し笑った。笑うのは彼にしては珍しかった。
「昨日の夜、夢を見ました」
榊も少し笑った。
「奇遇ですね。私もです」
——
二人がその夜それぞれ見た夢の話は、この物語の最後で書く。
いまは、こう書いておく。
鶴岡 慧はその日の夜、榊と二時間話した。話の内容は送り出し計画の凍結、七人の書き残しを受信するための量子アンテナの再設計、そしてもし呼びかけが届いたときに我々は何と答えるべきかについてだった。
夜十一時、鶴岡は研究所を出た。
彼は浮島の橋を渡りながら、暗い水面を見下ろした。
「送り出したのは我々だ」と、彼は口に出した。
誰も聞いていなかった。彼は続けた。
「送り出した以上、届いたものは受け取らねばならない」
——
これが鶴岡の、この時点での決意だった。



第三章 転送室オペレーター・巳沢 千夏(みさわ ちなつ)
巳沢 千夏は二十九歳の女性で、七分所の一階転送室の主任オペレーターだった。
彼女の仕事は青い輪を動かすことだった。
具体的には、被験者が転送室に入ってから送り出しボタンを押すまでの約十四分間の装置の状態監視、被験者の生体データ確認、環状液体の流速調整、そして送出の実行である。
——彼女は七人全員を送り出した。
一人目、柊 蘭。
二人目、毛利 剛。
三人目、久保田 修。
四人目、八雲 千秋。
五人目、水島 弦。
六人目、野々村 詩織。
七人目、アキラ・スワ。
七人とも彼女がボタンを押した。
七人とも彼女の目の前で、青い輪の向こうに消えた。
——
巳沢はこの仕事に就いたとき二十四歳だった。就任前の面接で、彼女は審査官にこう聞かれた。
「あなたは人を送り出せますか」
彼女は答えた。
「送り出せます」
審査官は続けた。
「送り出された者は戻って来ません。あなたが押すボタンは、その人の人生の最後のボタンです。それでも押せますか」
彼女はしばらく考えた。
「押せます。ただし条件があります」
「何ですか」
「私が七人送り出したら、八人目は私を送ってください」
——
彼女の申し出は記録された。しかし正式に受理されたかどうかは、彼女自身いまでもはっきりとは知らない。
彼女はその申し出のことを他の誰にも言わなかった。両親にも、恋人にも、友人にも言わなかった。彼女には恋人がいた。彼女は彼を愛していた。愛していたが、いつか自分は青い輪の向こうに消えるつもりだった。
なぜか。
理由は彼女自身にもうまく説明できなかった。
ただ、こうは言えた。
「七人の最後の顔を見た人間が、その七人と同じ時代に同じ場所にいてやらないと、彼らはあまりに寂しい」
彼女はそう思っていた。
彼女はそれを恋人には言わなかった。恋人は彼女が優秀なオペレーターとして日々仕事をこなしていることだけを知っていた。
——
七人目、アキラ・スワを送り出した日の夜、巳沢は一人転送室に残った。
青い輪はまだ微かに鳴っていた。金属の輪の中を環状液体が流れる音である。それは遠くの鈴虫の声のような音だった。
彼女は輪の前に立った。
「アキラさん」
彼女は輪に話しかけた。
「向こうで絵を描いてくださいね。あなたが描く絵は、たぶん四千年後の私たちがみることはないでしょう。でも、あなたが描いたということは私は覚えています」
彼女は一人一人の送り出しの日を覚えていた。
一人目、柊 蘭。四四四〇年三月十二日。曇り。柊は緊張していた。輪に入る前、彼女は巳沢に向かって小さく頷いた。
二人目、毛利 剛。四四四〇年九月三日。晴れ。毛利は剣道の稽古着で来た。彼は輪に入る前、深呼吸を七回した。
三人目、久保田 修。四四四一年二月八日。雪。久保田は装備の点検を輪に入る直前までしていた。彼は巳沢の顔を一度も見なかった。(見ないことが彼の優しさだったと、彼女はあとで思った)
四人目、八雲 千秋。四四四一年七月十九日。晴れ。八雲は輪に入る前、巳沢に「ありがとう」と言った。彼女は七人の中で唯一そう言った被験者だった。
五人目、水島 弦。四四四二年一月二十六日。晴れ。水島は輪に入る前、巳沢に小さな包みを渡した。中には彼が最後の夜に作った握り飯が二つ入っていた。
六人目、野々村 詩織。四四四二年十一月十日。曇り。野々村は輪に入る前、巳沢の目をじっと見た。「あなたもいずれ来る予定ですか」と彼女は聞いた。巳沢は答えなかった。野々村は少し笑った。「もし来たら、瀬戸内の小さな島を探してください。私はそこにいると思います」
七人目、アキラ・スワ。四四四三年五月四日。晴れ。アキラは輪に入る前、巳沢の顔をしばらくじっと見た。それから彼はこう言った。「あなたのいまの顔を、俺は向こうで描くと思う。名前を教えてくれ」
「巳沢 千夏、です」
「ミサワ、チナツ」と彼は繰り返した。「良い名前だ」
——
いま、六月十六日、日曜日。
七人目を送り出してから、一年一ヶ月と十二日が経過していた。
八人目の選定は進んでいた。巳沢は八人目を送り出したら、自分から榊所長に申し出るつもりだった。
「私を九人目に送ってください」と。
——
しかし、その申し出は翌日行われないことになる。
なぜなら翌日正午、榊所長は送り出し計画の凍結を宣言するからである。
そのことを巳沢はまだ知らない。
彼女は青い輪の前にしばらく立っていた。
輪は静かに青かった。
「みなさん」と彼女は七人に話しかけた。
「私もいつか行きます。行って、あなたたち全員を探します。全員に会えるとは思いません。でも一人でも二人でも見つけられたら、その人にこう言います。あなたを送り出したのは私です。ごめんなさい、と」
彼女は青い輪に手を伸ばした。
輪は彼女の手に触れると、少しだけ暖かかった。
——
巳沢 千夏のこの時点での決意はそうだった。
翌日、彼女の決意は榊所長の決意と真正面からぶつかることになる。



第四章 被験者訓練責任者・榊 悠子(さかき ゆうこ)
榊 悠子は五十九歳の女性で、被験者の訓練責任者だった。
彼女は榊 遥の四歳年下の妹である。
姉が所長で、妹が訓練責任者。この人事は就任当時、少なからず議論を呼んだ。しかし悠子は姉のコネで採用されたわけではなかった。彼女は二十年以上、災害地・紛争地への非常時派遣員の訓練を担当してきたその道の第一人者だった。片道で過去へ送られる被験者たちを精神的・実務的に鍛え上げるのに、彼女以上に適した人材は地球圏にはいなかった。
しかし、姉妹の間には微妙な緊張があった。
姉・遥は、被験者を「送り出す」側の責任者。
妹・悠子は、被験者を「送り出せる状態にまで仕上げる」側の責任者。
悠子は七人全員を一年から二年かけて訓練した。彼女は七人全員の体力、精神力、専門技能、そして「戻れない」という事実への精神的な受容をテストし、鍛えた。
七人全員が輪に入る前の最後の一週間を、悠子と二人きりで過ごした。
その一週間は公式には「最終適応期間」と呼ばれていたが、実質的には別れの期間だった。
——
悠子は七人全員に同じ質問を最終週の最後に投げかけた。
「あなたは、なぜ行くのですか」
答えは七通りだった。
柊 蘭。「私は四千四百四十四年で意味を感じられなかったからです。腸内細菌の三千種を暗記していても、私は一度も誰かの命を直接救ったことがありません。向こうではたぶん、一人か二人は救えます。それだけで行く意味はあると思います」
毛利 剛。「剣道七段のこの技を実戦で試してみたいと、若い頃思っていたことがあります。もう若くない。でも、まだ試したい。それだけです」
久保田 修。「私は一人で生きるのが得意です。四千四百四十四年でも一人で生きてきた。向こうでも一人で生きられる。ただ、こちらで一人で生きるより、向こうで一人で生きるほうが少しだけ意味がある気がします」
八雲 千秋。「言葉が消えていくのを見たいからです。四千四百四十四年でも言葉は消えています。しかし私はそれを記録できていない。向こうならたぶん記録できます」
水島 弦。「四千四百四十四年の食材は貧しいです。向こうの食材は豊かです。それだけですと言いたいのですが、たぶんそれだけではありません。私は料理を必要としている人に食べさせたい。四千四百四十四年の私の客は料理を必要としてはおらず、料理を消費していました。向こうの人はたぶん料理を必要としています」
野々村 詩織。「記者だからです。空白があるなら埋めにいくのが記者の仕事です。埋められなくても、埋めにいったという事実だけで記者は記者でいられます」
アキラ・スワ。「なんとなくです。すみません、これしか言えません。映画監督はなんとなく動く生き物です」
——
悠子はこれらの答えをすべて彼女の手帳に書き留めた。手帳は革表紙の古いもので、彼女の母の形見だった。
七人分の答えを書き終えた日の夜、悠子は姉の家を訪ねた。
姉妹は月に一度、姉の家で食事をしていた。この夜もその日だった。
姉の家は浮島の南端にあった。狭い二部屋の質素な住居だった。姉は料理をしなかったため、妹が作った。
——
「姉さん」と悠子は鍋をかき混ぜながら言った。
「うん」
「七人目のあとの八人目の話、進んでるんだって」
「進んでる」
「候補、誰」
姉はしばらく黙っていた。
「まだ正式には言えない」
「じゃあ、非公式で」
「悠子」
姉は妹の名を久しぶりに呼んだ。
「あなたに聞きたいことがある」
「なに」
「あなた、七人の訓練を終えて、いまどう思ってる」
悠子は鍋の火を弱めた。
彼女はしばらく鍋を見ていた。それから彼女は姉の顔を見た。
「もう送らないほうがいいと思ってる」
姉は頷いた。
「理由は」
「七人とも、あちらの人になるつもりで行ったからよ」
姉は頷いた。
「続けて」
「あの子たち、七人とも四千四百四十四年で生きるのを諦めて行ったんじゃない。四千四百四十四年で生きるのをたぶん間違えたと感じて行ったのよ。生き方を間違えた。生きる場所を間違えた。生きる時代を間違えた。だから行ってしまえば、あちらではたぶん本来の自分として生きられると思って行ったの」
「うん」
「これ以上送るなら、送るべき人はいないと私は思う。八人目に相応しい人はいても、その人を送るべきではないというのが私の結論よ」
姉は深く頷いた。
「悠子」
「うん」
「私も同じことを考えてる」
「じゃあ、姉さん」
「明日、私は凍結を宣言する」
——
姉妹はその夜、鍋を二人で食べた。
食べながら悠子は思い出していた。八雲千秋が輪に入る前の日、彼女にこう言ったことを。
「悠子さん。あなたは私たちを送り出す訓練をしました。でも、あなた自身は『送り出されない訓練』をしましたか」
悠子は答えられなかった。
八雲は少し笑って続けた。
「私たちは行きます。あなたは残ります。残るほうのほうがたぶん難しいですよ。行くほうは『もう戻れない』と決めれば、それで覚悟が決まります。残るほうは『まだ生きねばならない』という、無限の覚悟の更新が必要です」
悠子はそのとき涙が出た。
八雲は彼女の頭をそっと撫でた。
「悠子さん。私たちはあなたを覚えています。向こうへ行っても」
——
いま、悠子は鍋を食べながら姉に話した。
「姉さん。八雲さんのあの言葉。『残るほうのほうが難しい』って。あれ、私、まだ答えられていない」
姉は頷いた。
「答えられなくていいのよ。答えられないまま明日凍結を宣言する。それが私たちの答えなの」
姉妹は静かに鍋を食べ終えた。
——
榊 悠子のこの時点での決意はそうだった。
翌日、彼女は姉の凍結宣言を支持する側に立つ。
彼女はそれをあらかじめ決めていた。



第五章 予算・広報担当・堂島 直(どうじま なお)
堂島 直は三十七歳の男性で、七分所の予算と広報を一人で担当していた。
彼は技官ではなく事務官だった。しかし彼のいない研究所は成立しなかった。なぜなら予算を取ってくるのも、記者会見で嘘をつかずに嘘をつくのも、政府の査問委員会で泣きそうになりながら耐えるのも、すべて彼の仕事だったからである。
彼はこの研究所に来て九年になる。九年で彼は髪の四分の一を失い、胃薬を日に三回飲むようになった。娘は七歳になった。妻は彼を二年前に諦めた。(離婚はしていない。しかし妻は月に十日以上、実家にいた)
——
六月十六日、日曜日。
堂島は月曜日の予算査問委員会の想定問答集を作っていた。
査問委員は五人。全員が政府のそれぞれ違う部局の、それぞれ違う思惑を抱えていた。
想定される質問はいつも同じだった。
問一。「七人送り出して、七人とも戻って来ていない。この計画は失敗ではないか」
答え。「戻って来ないことは計画の既知の前提です。失敗ではありません。(本音:戻れないという時点で、失敗の定義次第では失敗である)」
問二。「四千四百四十四年にこれだけの予算をかけて、過去のことを調べる意味はあるのか」
答え。「歴史的空白を埋めることは、我々の文明の自己理解に不可欠です。(本音:これに答えられる者は、この研究所にたぶん一人もいない)」
問三。「戻って来ない被験者の家族への補償はどうなっているのか」
答え。「規定に従い、生涯給与相当額を一括で支払っています。(本音:金では償えないことを金で償っている)」
——
堂島は想定問答集を書き終えて、椅子に深く腰を沈めた。
彼は天井を見た。
「もう駄目だ」と、彼は口に出した。
彼はこの計画を続けたくなかった。
続けたくなかったというより、続ける意味を彼は失っていた。
九年前、彼はこの研究所に来たとき若く野心的だった。歴史の空白を埋めるプロジェクトの広報担当。彼は自分を時代の最前線に立っていると感じていた。
しかし九年経って、彼はこう思うようになった。
——歴史の空白は埋まらない。
——なぜなら、埋めに行った者が戻って来ないから。
——戻って来ないということは、埋まったかどうかこちらには確認しようがないということである。
——確認できないものを「埋まった」と主張することは詐欺である。
——私は九年間、詐欺の広報担当をしていた。
——
彼は翌日、月曜日の朝、榊所長に辞表を出すつもりだった。
彼の書いた辞表は鞄の中にあった。
彼は鞄を開けて辞表を取り出し、読み返した。
「所長様。九年間お世話になりました。私はこの計画の広報をこれ以上続けることができません。理由は、私がこの計画の意義を信じられなくなったからです。信じられないものを信じている振りをして政府に、市民に伝えることは私の職業的良心が許しません。深く感謝しつつ、辞職を申し出ます。堂島 直」
彼は辞表を鞄に戻した。
そして彼は自分のデスクの引き出しを開けた。
引き出しの一番奥に、一枚の写真があった。
——
写真は四人の家族写真だった。
堂島と妻と、七歳の娘。
そして写真の右端に、五歳のときに死んだ堂島の息子。
息子は生まれつき心臓に問題があった。四千四百四十四年の医療でも彼の心臓は直せなかった。彼は五歳の誕生日の翌週に死んだ。
堂島がこの研究所に来る二年前の話である。
——
堂島はなぜこの研究所に来たのか。
彼は自分でもはっきりとは分かっていなかった。
しかし彼は時々こう思った。
息子が生きていた五年間のあの時間。あの時間はどこへ行ったのか。
四千四百四十四年に息子はいない。しかしあの五年間はあった。それは確かにあった。堂島は息子の顔をいまでも覚えている。息子の笑い声を覚えている。息子の小さな手が堂島の指を握った感触を覚えている。
あった時間はどこへ行くのか。
もし時間が消えないなら——もし時間がどこかに残っているなら——その残っている時間のどこかに、息子はまだいるのではないか。
堂島はそれを信じていた。信じていなかったが、信じたかった。
彼はこの研究所に来て九年、そのことを誰にも言わなかった。
——
彼は写真をしばらく見つめた。
そして彼は辞表を机の上に置いた。
しかし彼は辞表を翌日、榊に出さなかった。
なぜなら——彼はその夜、夢を見たからである。
その夢の話も、この物語の最後で書く。
——
彼は辞表を鞄に戻した。
代わりに彼は新しい紙を取り出し、こう書いた。
「所長様。私はこの計画の凍結を正式に提案いたします。八人目以降の送り出しを中止し、既に送り出した七人からの書き残しの受信に全予算を振り向けるべきです。詳細は月曜日の朝、直接伺います。堂島 直」
彼はその紙を鞄に入れた。
彼は椅子から立ち上がり、灯りを消して事務室を出た。
——
堂島 直のこの時点での決意はそうだった。
翌朝、彼はその紙を榊所長の朝の卓上に置くことになる。
榊は既に同じ結論に達していた。しかし彼女は堂島の紙を丁重に受け取ることになる。



第六章 装置整備技術者・伏見 蒼太(ふしみ そうた)
伏見 蒼太は四十二歳の男性で、青い輪の整備責任者だった。
彼はこの研究所の誰よりも青い輪のことを知っていた。
輪の環状液体の正確な組成(それは機密である)、輪の金属部分の微細な歪みの経年変化、輪の外部電磁場との干渉パターン、そして——輪が時々ひとりでに鳴る、その音の意味。
伏見は青い輪を生き物として扱っていた。
彼は輪に名前を付けていた。輪の正式な型番は「TS-4440-Aプロト」だが、彼は輪を「キョウカ」と呼んでいた。京華とも共花とも書けたが、伏見自身は漢字を決めていなかった。ただ口頭でキョウカと呼んだ。
なぜそう呼んだのか。彼は誰にも説明しなかった。
——
伏見は輪と話をした。
夜、誰もいない転送室で彼は輪の前に座り、輪と話をした。
「キョウカ。今日は久保田さんを送ったな。装備の点検、輪に入る直前までしていた。お前、あの人の緊張、感じただろう」
輪は答えなかった。しかし伏見は輪が何かを感じているのを知っていた。
輪の環状液体の流速が送り出しの前後で微妙に変化することを、伏見は七年前から記録し続けていた。流速の変化パターンは被験者ごとに異なった。柊のときは緩やかで規則的だった。毛利のときは急峻で力強かった。久保田のときは抑制的で静かだった。八雲のときは優雅で複雑だった。水島のときは温かく穏やかだった。野々村のときは鋭く正確だった。アキラのときは揺らぎがちで、しかし深かった。
これらの変化を、伏見はこう解釈した。
輪は被験者を記憶している。
——
伏見はこの解釈を鶴岡に話したことがあった。
鶴岡はしばらく黙って聞いた。それから彼は言った。
「伏見さん」
「はい」
「あなたのその解釈は、公式には支持できません。物理的な根拠がありません」
「はい」
「しかし——」
鶴岡は続けた。
「非公式には、私はあなたの解釈を否定しません。私自身、輪が被験者ごとに微妙に違う挙動を示すことは七年観察してきました。物理ではまだ説明できません。でも説明できないことは『存在しない』ということではありません」
伏見は頷いた。
——
いま、六月十六日の夜。
伏見はまた転送室に来ていた。
キョウカは静かに鳴っていた。
「キョウカ。俺、今日決めたんだ」
輪は答えなかった。
「明日、俺、所長に言う。お前を止めてくれ、って」
伏見は青い輪に触れた。
輪は暖かかった。
「お前はたぶん、七人分の記憶を持ってる。それを消したくない。でもこれ以上送り出すたびに、お前の中の記憶の密度が上がっていく。俺はそれが怖いんだ」
彼は深く息を吐いた。
「お前はいま、七人分。それで十分だ。八人目を送ったら、お前はたぶん変質する。俺の勘だ。物理的な根拠はない。でも、勘だ」
輪はまた答えなかった。
しかし輪の環状液体の流速が微かに変わった。
伏見はそれを感じた。
——
伏見は輪の傍らにしばらく座っていた。
彼は思い出していた。
七人目、アキラ・スワを送り出したあの日。アキラは輪に入る前、伏見のほうを振り返ってこう言った。
「整備の人。この輪、いい輪だ。俺は向こうで、この輪の絵をたぶん描く。輪の色は何色に描いたらいい」
伏見は答えた。
「青、です。ただの青じゃなくて、存在の青、です」
アキラは笑った。
「存在の青、か。分かった。そう描く」
そして彼は輪の向こうに消えた。
——
伏見はいま、その青を見ている。
存在の青。
彼はこの青が四千年後、いや四千百年前のいまの四世紀のどこかで、アキラの筆によって和紙に写し取られたことを知らない。しかし彼はなぜか、それを知っている気がしていた。
——
伏見 蒼太のこの時点での決意はそうだった。
翌朝、彼は鶴岡と榊に輪の停止を正式に提案する。
提案は既に受け入れられていることを、彼はまだ知らない。



第七章 記録係・七尾 匡(ななお ただし)
七尾 匡は二十四歳の男性で、七分所の記録係だった。
彼はこの研究所の最年少の正職員だった。仕事は単純だった。すべてを記録すること。会議の議事録、送り出しの詳細記録、被験者の最終インタビュー、装置の日々の状態、そして技官たちの日常の会話。
会話の記録は公式には任意である。しかし七尾はそれを日課にしていた。彼はいつも小さな録音機を胸ポケットに入れていた。技官たちはそれを知っていたが、誰も嫌がらなかった。七尾は記録したものを勝手に外に漏らさないということが皆に信頼されていた。
——
七尾はなぜ記録係になったのか。
理由は彼の生い立ちにあった。
彼の父はこの研究所の二代目の装置整備技術者だった。
父は七尾が六歳のとき、タイムマシンの初期実験事故で消えた。
正確に言うと父は被験者ではなかった。父は整備中の事故で青い輪の前身装置に巻き込まれたのだった。装置は当時まだ極めて不安定だった。父の体は装置ごと十七世紀のどこかへ送られたと、事後の解析では推定された。しかしそれはあくまで推定だった。父の体が実際にどこへ行ったのか、いつの時代に着いたのか、着いた先で彼が生きたのか即死したのか、これらすべてはいまも分かっていない。
七尾は母に育てられた。母は七尾が十九歳のときに病気で死んだ。
七尾は天涯孤独だった。
彼は大学を卒業してこの研究所に来た。志望動機を聞かれ、面接でこう言った。
「父の行方を知りたいからではありません。父の行方を知ることはたぶんもうできないと理解しています。私が来たいのは、父のような人をこれ以上増やさないためです。増やさないためにはすべてを記録する必要があります。記録はたぶんそれだけで抑止になります。書かれると知っているから人は慎重に動く。私は書く役に就きたいです」
彼は採用された。
——
七尾はこの五年間、驚くほど大量の記録を蓄積した。
紙のノートで四百二十七冊。
デジタルのテキストファイルで約六千万字。
音声記録で約一万四千時間。
写真で約十二万枚。
これらは七分所の公式アーカイブと、七尾の個人アーカイブにそれぞれ分けて保管されている。
七尾はこれらを四千年残すことを目指していた。
「四千年残る記録はどうやって作れますか」と、彼はある日鶴岡に聞いた。
鶴岡は笑った。
「難しいですね。石に彫るのがいちばん確実です。ただし内容は極めて短く要約する必要があります」
「六千万字を要約したら何字くらいになりますか」
「たぶん、七千字くらいに」
七尾は頷いた。
「では、七千字に要約します」
——
七尾はこの五年間、四千年残るための要約作業を進めていた。
彼はこの作業を「七千字プロジェクト」と名付けていた。
七千字はまだ完成していなかった。
——
六月十六日の夜。
七尾は事務室で七千字の最新草稿を読み返していた。
草稿はこう始まっていた。
「西暦四四三八年から四四四四年までの七年間。日本、時間工学研究所・第七分所。所員四十六名。うち被験者として過去へ送られた者、七名。過去へ送られた者はいずれも戻って来ていない。送り出したのはこの研究所の以下の技官たちである——」
そして続いていた。
「所長・榊 遥。理論物理学・鶴岡 慧。転送室オペレーター・巳沢 千夏。訓練責任者・榊 悠子。予算・広報・堂島 直。装置整備・伏見 蒼太。記録係・七尾 匡。そして以下記載する他の三十九名の所員たち——」
七尾は四十六人全員の名前と簡単な経歴と、この研究所での役割を書いていた。
四十六人分で約三千字。
残りの四千字で、彼は七人の被験者の最終インタビューの要旨を書いていた。
一人あたり約五百七十字。
——
七尾はその最新草稿を印刷した。
印刷した紙を、彼は大きな封筒に入れた。
封筒にはこう書いた。
「四千年後の誰かへ」
彼は封筒を机の上に置いた。
彼は翌朝、この封筒を榊所長に渡すつもりだった。
彼は榊にこう頼むつもりだった。
「所長。この七千字を石に彫らせてください。研究所の地下に埋めます。四千年後、たぶん掘り出されます。掘り出されたとき、私たちが何をしていたのか、七人がなぜ行ったのか、これで伝わります」
——
七尾はその翌朝、榊に封筒を渡した。
榊は封筒を受け取り、読んだ。読み終えて彼女は少し笑った。
「七尾さん」
「はい」
「石に彫る代わりに、もっと良い方法があります」
「どんな」
「七人の書き残しの量子的な受信を待つ、という方法です」
七尾はまばたきをした。
「所長。それはたぶん届きません。私は鶴岡先生のあの論文の噂を知っています。届く可能性は極めて低いと」
榊は頷いた。
「その通りです。しかし可能性はゼロではない。もし届いたら七千字は要らなくなります。届かなかったら、あなたの七千字を彫ります。どちらにせよ、あなたの五年間の仕事は無駄にはなりません」
七尾は頷いた。
「分かりました。では、待ちます」
——
七尾 匡のこの時点での決意はそうだった。
彼は待つことにした。
商談や実験の成果を焦ることもなく、彼はただ待ち続けることになる。
四十九年間、彼はこの研究所で待つ。
彼は七十三歳で病を得る。彼が倒れる直前、瀬戸内海の小さな島で素焼きの壺が掘り出されることになるのだが、それはまだ先の話である。



終章 ——三つの夢、そして、六月十七日の正午——
六月十六日の夜。
三人の技官がそれぞれ夢を見た。
榊 遥は若い頃の恋人の夢を見た。
恋人は白亜紀後期に送られたきり消息不明の男である。夢の中で彼は三十歳のままで、白亜紀の湿った森の中に立っていた。彼は榊を見て笑い、こう言った。
「遥。もういい。もう送るな。ここは思っていたより悪くない。俺はこちらで幸せだ。お前もそちらで幸せになれ」
榊は目が覚めた。彼女はしばらく天井を見ていた。
彼女は朝、決意した。八人目は送らない。
——
鶴岡 慧は、彼がまだ書いていない論文の続きの夢を見た。
論文の続きにはこう書かれていた。
「量子的な受信の条件は以下の通りである。送り出す側が送り出しを明示的に放棄したとき、そのとき初めて、送り出された側の書き残しは量子経路を通じて送り出す側に届く可能性が生じる」
鶴岡は目が覚めた。彼はしばらく暗闇を見ていた。
彼は朝、決意した。論文を公表する。
——
堂島 直は死んだ息子の夢を見た。
息子は五歳のままで、四千四百四十四年の堂島のリビングに立っていた。息子は堂島を見て笑い、こう言った。
「パパ。時間は消えないよ。ぼくの五年問も消えていない。ちゃんとあそこにある。だからパパ、もう他の人を探しに行かせないで。ぼくはここにいるから」
堂島は目が覚めた。彼はしばらく隣で寝ている妻の背中を見ていた。(その日、妻は実家から帰って来ていた)
彼は朝、決意した。辞めない。凍結を提案する。
——
六月十七日、月曜日。
正午。
七分所の会議室に四十六人が集まった。
榊 遥が演壇に立った。
彼女は原稿を持って来なかった。
彼女はこう始めた。
「みなさん。今日、この研究所の送り出し計画を正式に凍結します」
会議室が一瞬静まった。
続けて彼女は言った。
「理由はたくさんあります。しかし、いちばん大きな理由はこうです。七人は既に十分に生きています。私たちはこれ以上、彼らの世界に追加の未来人を送り込む必要はありません」
彼女は続けた。
「私たちのこれからの仕事は、待つことです。七人の書き残しが届くのを待ちます。届くまでに何十年かかるか分かりません。私たちの誰かは届く前に死にます。私もたぶん届く前に死にます。しかし届くまで、この研究所は存続します。私たちは待ちます」
彼女は深く頭を下げた。
「みなさん、これまでありがとうございました。そしてこれから、待つことに付き合ってください。よろしくお願いします」
——
会議室は静かだった。
やがて、拍手が起こった。
拍手は長く続いた。
——
その日の夜、伏見 蒼太は青い輪の前に座り、こう言った。
「キョウカ。お前はこれから眠る。眠って、七人の書き残しが届くのを待つ。俺もお前と一緒に待つ」
輪は答えなかった。
しかし輪の環状液体の流速が微かに変わった。
伏見はそれを感じた。
——
以後、七分所は「待ちの研究所」になった。
被験者は送られなくなった。
装置は伏見の手で丁寧に整備され続けた。輪は青いまま、静かに鳴り続けた。
榊 遥はその後二十一年生きた。彼女は八十四歳で死ぬ前に、後任の所長にこう伝えた。「必ず待ってください。届きます」
鶴岡 慧は論文を公表した。論文は学界に少なからぬ衝撃を与えた。しかし彼はその後の議論にあまり参加しなかった。彼は六十七歳で静かに退官した。
巳沢 千夏は送り出しを続けなかった。彼女は青い輪の整備補助として伏見の下で働き続けた。彼女は四十歳で恋人と結婚し、四十二歳で娘を産んだ。娘の名は七夏(ななつ)と付けた。七人の記憶を忘れないためである。
榊 悠子は被験者の訓練をしなくなった。しかし彼女は姉の遺した仕事——残ることの訓練——を始めた。彼女は遺された技官たち、そして消息不明の被験者の家族たちに残る覚悟を教えた。彼女は七十六歳まで生きた。
堂島 直は辞めなかった。彼は予算を取り続けた。「待つための予算」を政府から絞り出すのが彼の以後の仕事だった。彼は髪の半分を失った。彼は五十九歳で心臓発作で死んだ。彼の妻はそのとき、彼の傍らにいた。
伏見 蒼太は青い輪を整備し続けた。彼は輪に話しかけ続けた。彼は六十三歳で退官した。退官のとき、彼は輪にこう言った。「キョウカ。俺はもう来られない。あとは若い人に任せる。でも、俺はお前を忘れない」
——
そして、七尾 匡。
七尾は最年少だった。彼がいちばん長く待った。
彼は四十九年待った。
——
四四九三年、七月十七日。
七分所はまだあった。
所員は既に常勤で十二人しかいなかった。予算は堂島の後任の後任の後任が細々と繋いでいた。青い輪は伏見の後任のそのまた後任が整備していた。
七尾は七十三歳で、その研究所でまだ記録係をしていた。彼は既に白髪だった。彼は独身のまま老いていた。
七月十七日の朝。
七尾はいつものように事務室に出勤した。
彼は自分のデスクの上に素焼きの壺が置かれているのを見た。
壺は彼が置いた覚えがなかった。
壺は明らかに古いものだった。四千年、いや四千年以上経っていると彼は直感した。
壺の口は蝋で密封されていた。
七尾はしばらく壺を見ていた。
それから彼は震える手で壺の蝋を剥がした。
中には木簡の束と樹皮の紙の束、そして一通の和紙の手紙があった。
——
七尾は手紙を開いた。
手紙はこう始まっていた。
「四千四百四十四年の、みなさんへ」
七尾はしばらく読めなかった。
視界が涙で滲んでいた。
彼は椅子に腰を下ろした。
彼は深呼吸を七回した。
それから彼は読み始めた。
——
彼が手紙を読み終えたのは正午だった。
彼は手紙を丁重に机の上に置いた。
彼は立ち上がり、事務室を出た。
彼は廊下を歩いた。廊下は四千四百九十三年の七月の日差しで明るかった。
彼は所長室のドアをノックした。
「入って」
彼はドアを開けた。
新しい若い所長——榊 七夏(さかき ななつ)、巳沢千夏の娘の娘——が机の前に座っていた。彼女は三十四歳だった。
「所長」
「はい」
「届きました」
——
以後、その日の夕方、緊急学会が招集された。
学会は三日三晩続いた。
四日目の朝、学会は結論を出した。
「発掘物は真正である。手紙は真正である。しかし、公開はしない」
理由は手紙の三つ目に書かれていた。
「空白は、空白のままで良い」
——
七尾 匡はその日の夕方、青い輪の転送室に行った。
輪はまだ静かに鳴っていた。
彼は輪の前に座った。
彼は輪に話しかけた。
「キョウカ」
彼は伏見がそう呼んでいた名を、初めて口に出した。
「届いた。四千百三十三年経って、届いた。俺、待ってた甲斐があった」
輪は答えなかった。
しかし輪の環状液体の流速が微かに変わった。
七尾はそれを感じた。
——
七尾はその夜、家に帰った。
彼は机に向かった。
彼は白紙を取り出した。
彼はこう書き始めた。
「四千百三十三年、待ちました。届きました。書き残しは五人ぶん。それに代表者一名字の手紙。全員、こちらから見て当時既に死んでいます。生前の彼らを覚えている者は、この研究所にはたぶん私、七尾 匡一人だけです。私もあと数年で死にます。だから書きます。書いて残します——」
——
彼がそのとき書き始めたのが、この『前日譚』である。
彼は七分所の四十六人ぶんの記録を遡り、七人の技官——榊 遥、鶴岡 慧、巳沢 千夏、榊 悠子、堂島 直、伏見 蒼太、そして彼自身、七尾 匡——の群像としてそれをまとめた。
彼は五年かけてそれを書き上げた。
書き上げた原稿は彼の遺書と共に榊七夏に託された。
七夏はそれを七分所の地下の専用保管庫に収めた。
保管庫の扉にはこう彫られていた。
「送り出したのは我々である。届いたものは我々が受け取った」
——
七尾 匡は五年後、七十八歳で死んだ。
彼は独身のまま死んだ。
彼の机の上には鉛筆と白紙、そして「存在の青」と呼ばれる青い絵の具の小瓶が置かれていた。
彼は生前、この小瓶を大切にしていた。彼は時々この小瓶を開け、指の先に少しだけ青を取り、それを和紙に点として置いた。
彼の遺した和紙には、無数の青い点があった。
——
無数の青い点。
一つ一つが、たぶん四十六人ぶんの記憶の痕跡だった。
そしてその中の七つの点は、遥か遠くの四世紀の湿地と、王の館と、山の洞穴と、瀬戸の小島と、いくつかの川辺と、山城の離れの部屋に繋がっていた。
——
——前日譚、了。

送り出したのは我々である。
届いたものは我々が受け取った。


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あとがき
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
本作品は、古代日本の謎に包まれた4世紀(いわゆる「空白の4世紀」)へと時空を超えて渡った人々を描いた前作『謎の4世紀』と対をなす物語として執筆いたしました。
前作が「過去の時代へ降り立ち、二度と戻れぬ世界でいかに生き、何を残したか」という「行く者たち」の物語であったのに対し、本作は「なぜ彼らは片道しか作れなかったのか」「なぜ送り出しを止めたのか」という「残された者たち」の責任と誓いをテーマにしています。
SFという枠組みを借りてはいますが、ここで描きたかったのは「人と人とのつながり」と「過ぎ去った時間への愛おしさ」です。
誰かをどこかへ見送った経験を持つすべての人へ、そして今自分がいる場所で精一杯生きているすべての人へ、この静かな救いの物語が届くことを願ってやみません。
また、本電子書籍の制作・校正にあたり温かいご助言やご感想を寄せてくださった読者の皆様、そして陰ながら支えてくれた家族に、この場をお借りして心より感謝申し上げます。
四千年という時の隔たりを超えて結ばれた彼らの「青い点」のように、この物語が皆様の心の中に小さくも温かい灯火として残り続けることを祈っております。



謎の4世紀