謎の4世紀
―西暦4444年、片道タイムマシン顛末記―
まえがき
歴史には、ときおり途方もない穴があいている。
土を掘れば、土器が出、鉄が出、骨が出る。だが、土は名前を語らない。誰が誰を愛し、誰が誰のために涙を流したのか、文字の残されていない時代は静かに口をつぐむ。
西暦4444年、人類は片道しか行けない時間跳躍技術を手に入れた。二度と戻れないと知りながら過去へ旅立った7人の男女がいた。
本書は、四千年後の世界へ届いた彼らのささやかな手記と、一通の手紙の記録である。これは歴史の謎を暴く大冒険の記録ではない。戻れぬ時間を覚悟した人間たちが、古代の列島で出会った名もなき人々と交わした、静かな愛と生の記録である。
序
西暦4444年。
地球は、まだ、なんとか、あった。
海面は三度上がって二度下がり、都市はおおむね北へ移り、赤道近くの国々は季節という語彙をとうに捨てていた。人類は月に六つ、火星に二つ、木星圏に一つ、細々と足場を築いたが、そのどれもが本気の植民地というよりは、地球がもし駄目になったときのための、しみったれた保険であった。
そういう時代に、タイムマシンが発明された。
ただし、完成形ではなかった。
過去には行ける。未来には行けない。
そして、行ったきり、戻って来ない。
十六年で三十七人が送り出され、三十七人が消えた。旧石器時代へ送られた地質学者、平安京へ送られた民俗学者、ワーテルローへ送られた戦史家。誰一人、4444年の側へ戻らなかった。
それでも学者たちは諦めていなかった。とりわけ、日本史を専門とする者たちが。
なぜならこの国には、まだ埋まっていない穴がぽっかりと開いていたからだ。
西暦266年から413年まで、147年間。
その百四十七年、日本列島にはほとんど何の記録も残っていない。中国の史書からもある時期を境にこの島の名がふっと消える。次に現れるとき、そこには「倭の五王」がいて、鉄と馬と大きな墓が、いつのまにか出来上がっている。
考古学は土を掘る。掘れば掘るほど土は雄弁になる。だが、土は名前を語らない。名前が要る。名前と、顔と、声が。
「最初の戦国時代だったはずだ」と、ある老教授は言った。「そこには、信長のような男がいたはずだ。あるいは、女が。何もなかったはずがない。ただ、書き残す者がいなかっただけだ」
会議は三日間もめ、四日目に決まった。
片道でもいい。誰か、行かせよう。
武器は持たせよう。飛び道具も、防具も、記録装置も。四世紀の人間には決して抗えぬだけの、火器を。
「大丈夫だ」と、若い技官は言った。「向こうには鉄砲がありませんから」
こうして選ばれた、七人。
生化学者、剣道七段、元自衛官、言語学者、料理人、記者、そしてなぜか一人だけ紛れ込んだ、映画監督。
彼らは4444年6月の朝、ヒノキの匂いのする転送室から、西暦300年ごろの日本列島のどこかへ、順番に、一人ずつ、押し出された。
戻って来た者は、いない。
以下は、彼らが向こうで書き、埋め、あるいは刻み、千年、二千年、三千年、四千年ののちに、ようやく4444年へ届いた七通の記録である。ポイントは、最後の一通の手紙である。
一章
生化学者・柊 蘭の記録
〈記録用タブレット・音声起こし/推定 西暦301年 春〉
三日目にして、私は自分の学問がほとんど無力であることを理解した。
微生物のことなら誰にも負けないつもりだった。4444年の私は、月面のドームで腸内細菌の三千種を諳んじる女だった。ところがここでは「よく熱を出す、色の白い、痩せた女」でしかない。
着地したのは湿地だった。膝までぬかるむ泥に足を取られ、私は時間跳躍後三十秒で転んだ。次に四十秒で泣いた。それから一分後、遠くで人声がした。
低い、しかしはっきりと言葉だった。
私は言語学者ではない。だが、四千年前の日本語であっても、それが人間の声であることくらいは分かった。私はタブレットを泥から拾い上げ、震える指で録音ボタンを押した。それが始まりだった。
私を拾ったのは四人の女だった。全員、私より頭一つ小さかった。ひとりが年長で、あとの三人はまだ若かった。皆、湿った布を頭に巻き、腰から下に麻のような布を垂らしていた。上半身は剥き出しだった。
年長の女は私を見て何かを言った。私はぽかんとしていた。女はもう一度、少しゆっくり言った。「ドコノ、ヒト」と聞こえた。
私は咄嗟に、北から来た、と嘘をつこうとした。口から出たのは「未来から、来ました」だった。
女はまばたきをして、笑った。他の三人も笑った。とても良い笑い方だった。彼女らは私の言葉を、遠い方言の一つだと思ったようだった。
以後、私は「北のほうから流れて来た、頭のおかしい、しかし薬草に詳しい女」として、この集落に置いてもらうことになった。
集落には七十人ほどが住んでいた。水田と呼ぶには小さすぎる湿地の一画で、彼らは稲のような草を育てていた。米粒は私の知っているものよりずっと細く、色は薄い茶色だった。
私は、自分に許された知識のうち、この時代に害を及ぼさないものだけを分けようと決めた。歴史を変えることへの恐れと、正直に書けば、変えてしまう自信すらなかったからだ。
だから私は、まず手を洗った。
食事の前に、傷を負ったときに、赤子に触れる前に、水と灰で手を洗った。最初、彼らは笑った。次に、真似をする女が一人出た。それから三人になった。半年後、集落の子どもが死ぬ数が、少し減った。少しだけ。
私は、この少しに生涯を賭けることにした。
タブレットの電池は、太陽光パネルで細く延命しながら五年もった。私は毎日記録を続けた。集落の名を私は「イハト」と聞き取った。近隣に「クゴ」「ヌマウチ」「トオヤマ」があり、いずれもイハトと親戚関係にあった。北へ二日行くと「大きな家の人々」が住んでおり、その長は「ヒコ・アタ」と呼ばれていた。南へ三日行くと海があり、海の向こうから時々鉄の道具を持った男たちが来た。彼らは「カラ」から来たと言った。
三年目の秋、私はイハトの若い狩人と結婚した。彼の名はここには書かない。四千年後の誰かに、彼の名を発音してほしくない。
四年目の春、私は娘を産んだ。娘は私に似ず、目が細く、髪が黒く、笑い方が、最初に私を拾った年長の女によく似ていた。
タブレットの電池は、娘が二歳の冬に完全に死んだ。
だから、これから先の記録は木の板に刻むことにする。金属の針で、堅い木に、片仮名で。四千年後、これが読める者がいるかどうかは分からない。読める者がいなくても構わない。私は書くために書いているのではない。忘れないために書いている。
私が誰であったか。どこから来たか。何を捨て、何を選んだか。
娘が大きくなったら、手を洗うことの意味を教える。傷を熱い湯で洗うことを。乳飲み子には火を通した水を飲ませることを。それ以上のことは教えない。私はここでは預言者にはならない。
一つだけ、心残りがある。
この時代の列島に、「クニ」という感覚がまだ薄いことに驚いている。イハトの人々は自分たちを「イハトの者」とは呼ぶが「日本人」とは呼ばない。当たり前だ。日本という言葉がまだない。
だが、南から来る「カラ」の男たちは明らかに自分たちをまとまりとして意識している。北の「ヒコ・アタ」も少しずつ周りの集落を束ね始めている。
何かが、始まろうとしている。
私はそれを、たぶん十分には見ないまま、この集落で生きていくのだろう。
娘の名を「ミハト」と付けた。イハトの、水のように澄んだ子、という意味である。
柊 蘭、記す。たぶん三〇六年、春。
二章
剣道七段・毛利 剛の記録
〈自筆・墨・和紙/推定 西暦309年 夏〉
俺は剣道七段である。東京都選手権三連覇、全日本三位。竹刀を握って四十年、真剣を握って十年、そして四世紀の日本に落ちてから三年になる。
書いておく。剣道は、実戦ではあまり役に立たない。
正確に言おう。心構えは役に立つ。間合い、呼吸、残心、相手の重心を見る目。これらは命を救った。だが、竹刀の動きそのものは、この時代の戦い方とはまるで違う。
この時代の男たちは刀を振り下ろさない。彼らは突く。刺す。抉る。そして必要があれば噛みつく。
俺が最初に殺した男は二十歳そこそこの痩せた若者だった。俺の右腕に木の槍を突き入れようとしていた。俺は持って行った拳銃で彼を撃った。距離三メートル。一発。彼は仰向けに倒れ、しばらく足を痙攣させて動かなくなった。
俺はそのあと二時間、川辺で吐いた。
拳銃には弾が三十発あった。二年で使い切った。使い切ってからは四世紀の刀を手に入れた。鉄というより鋼ですらない、なまくらの、しかしこの時代では十分に貴重な、鉄の板のような剣である。
俺はいま、ある王に仕えている。
王と書いたが、そう呼んでよいのか迷っている。彼の支配地は直径にして五十キロほど。人口はたぶん三千人。彼は自分を「オホ・ヒコ」と名乗る。大きな彦、すなわち大きな男子という意味である。名前ではない、ほとんど称号だ。
オホ・ヒコは俺より背が低く痩せており、しかしずっと強い。
彼は俺の拳銃をたった一度見ただけで、その原理を理解した。火薬の化学ではない。それを持つ者と持たぬ者の差を、である。彼は弾が尽きたと知ると俺を殺さなかった。傍らに置いた。
「お前は遠くの音を知っている。その音が消えても、お前の耳は残っておる。俺の傍で聞け」
俺は彼のためにいくつかの戦を戦った。
最初の戦は東の湿地の連中との境界を巡る小競り合いだった。三十対四十、双方合わせて七十人の戦で死んだのは十一人。俺は二人斬った。二人目は女だった。彼女は俺の顔を見て一瞬動きを止めた。この時代の男の顔とあまりに違ったからだろう。俺はその一瞬に彼女の喉を突いた。
俺はもう川辺では吐かない。吐く暇がなくなった。
二年目の戦は南の「カラの人々」との鉄を巡る取引の破綻から始まったまともな戦だった。オホ・ヒコ側二百人、カラ側たぶん百五十人。俺は初めて指揮をした。
俺は剣道七段であると同時に4444年の男である。頭にはハンニバルもナポレオンも孫子もクラウゼヴィッツも、うっすらとだが入っていた。予備兵力、側面攻撃、退路を断つ、降伏の受け入れ方。俺はオホ・ヒコに彼が生涯知らなかったであろう言葉を教えた。
オホ・ヒコは途中で口を挟まなかった。話が終わると言った。
「面白い。だが俺のやり方でやる」
そして彼は俺の言った側面攻撃を、彼のやり方でやった。結果、俺たちは勝った。
書いておく。
俺はここへ来る前、自分は歴史を観察しに来たのだと思っていた。いまはもうそうは思わない。俺は歴史の中にいる。俺が斬った七人は記録には残らないだろう。だが彼らが残していたはずの子や孫や、その孫たちは、いまこの世に存在しない。俺は四千年後の日本人のいくばくかを消した。
これは罪である。
罪を認めた上で、それでも俺はオホ・ヒコの傍で剣を振るう。なぜなら彼を好きになってしまったからだ。
オホ・ヒコは俺よりはるかに賢い。はるかに勇敢だ。朝、露に濡れた草を素手で握りそのまま自分の顔を洗う。負けた敵の将を殺す前に必ず一杯の水を飲ませる。笑うとき口を大きく開けて子どものように笑う。
彼は俺が生きているうちにこの列島の東半分を束ねるだろう。俺はそれを見届けたい。見届けて、そのあとたぶん彼のために死ぬ。
俺は剣道七段である。拳銃を撃ち尽くした男である。二人の女と五人の男を斬った男である。いま、四世紀の日本で一人の王に仕える一人の家来である。
これで良い。
毛利 剛、四〇九年の夏。オホ・ヒコの館二階の板の間にて。
追記。オホ・ヒコの名は彼の死後、この地の人々によって別の名で呼び直されるであろう。俺はその別名をあえてここに書かない。彼らには自分の足で掘ってもらいたい。
三章
元自衛官・久保田 修の記録
〈自筆・炭・樹皮/推定 西暦308年 秋〉
飛び道具を持って行けば大丈夫だと、あいつらは言った。
俺は笑ってから装備を点検した。9ミリ拳銃、弾倉三本。折り畳みライフル一挺、弾倉五本。閃光手榴弾三個。ナイフ二本。浄水フィルター、非常食三十日分、簡易テント、太陽光充電器、記録用タブレット。それに抗生物質、鎮痛剤、下痢止め、消毒液。俺は元自衛官である。選ばれたのは俺が失うものを持たなかったからだ。それは分かっていた。恨みはない。
着地したのは山の中腹だった。298年秋。針葉樹の森。標高たぶん六百メートル。北東方向に細い煙。
俺は煙のほうへは行かなかった。逆方向へ二時間歩き、稜線を越え、谷を渡り、また稜線を越え、そこでキャンプを張った。
書いておく。俺はこの時代の人間となるべく接触しないと決めた。
俺は彼らのことを知らない。彼らの病気に俺は免疫がない。俺の病気に彼らは免疫がない。俺が咳一つしただけで集落一つが消える可能性がある。俺はそれをしない。
だから俺は山に住むことにした。一人で。
最初の一年は地獄だった。狩りは思ったより難しかった。自衛官としてサバイバル訓練は受けていたが、それは三日間生きのびる訓練であって三十年生きのびる訓練ではなかった。罠を作り、失敗し、作り直し、また失敗し、飢え、下痢をし、体重を十五キロ落とした。
二年目、鹿を一頭仕留めた。その日、俺は泣いた。
三年目、俺は山を下りた。歯が抜け始めたからだ。ビタミンCが足りなかった。俺はこの時代の人々が食べている名も知らぬ木の実と発酵させた何かが必要だった。
俺は山の東側の小さな集落に忍び込んだ。夜、月のない夜、物置から干した木の実の袋を一つ盗んだ。翌朝、山の中でそれを煮て食べた。涙が出るほど美味かった。
以後、俺は月に一度集落に忍び込む盗人になった。必ず彼らが気付かない量だけを盗んだ。木の実、塩、時には少量の穀物。盗んだぶんの代金として、針、鋏、小さなナイフを集落の中にそっと置いてきた。
俺は彼らの姿を遠くから何度も見た。彼らは俺の姿をたぶん一度も見なかった。
俺はこの時代の日本の最初の妖怪になった。
集落の子どもたちは山に置いていってくれる何かがいる、と信じ始めた。母親たちはそのぶんの物を外に出しておくようになった。俺はそれを受け取り、山の中で静かに生きた。この静かな取引を十年続けた。
十年目の冬、俺は風邪を引いた。風邪は肺炎になった。肺炎は俺の抗生物質でも止まらなかった。抗生物質はとっくに賞味期限を過ぎていた。
洞穴で三日間うなされた。
四日目の朝、洞穴の入口に女が一人立っていた。俺が盗みに入る集落の若い女だった。彼女は俺の顔をじっと見た。4444年の日本人の顔を。
彼女は何も言わなかった。木の椀を俺の傍に置いた。中には熱い何かの汁が入っていた。
彼女は毎朝汁を持って来る。俺は彼女の名を知らない。彼女は俺の名をたぶん知らない。話す言葉が通じないから話さない。
だが彼女は俺の額に冷たい布を当てる。俺は彼女の手を握る。それだけである。
それだけで俺は幸せである。
山に住む妖怪に汁を運んだ女。彼女がいたことだけは忘れないでほしい。
久保田 修、三〇八年、たぶん十一月。
四章
言語学者・八雲 千秋の記録
〈自筆・墨・木簡束/推定 西暦325年 冬〉
言語学者として私は最も贅沢な立場を与えられた、と最初は思っていた。
日本語の起源を自分の目で確かめられる。上代日本語の音韻、朝鮮諸語との接触、アイヌ語族との関係。私が4444年に書きかけていた論文のすべての空欄を埋められるはずだった。
現実は違った。
第一に、私が着地したのは瀬戸内海に浮かぶ小さな島だった。人口約四十人。孤立度が高い。ここで話されている言葉はこの時代の日本語の主流からはたぶんかなり離れている。第二に、この島には少なくとも三つの言語が入り交じっていた。島の年寄りが話す言葉。若い者が話す言葉。そして時々船で立ち寄る南の島の男たちが話す言葉。三つは少しずつしかし決定的に違った。
つまり私はいきなりこの時代の言語接触の最前線に放り込まれたのである。
私は狂喜し、そして震えた。
私は持ち込んだ手帳の余白を埋め尽くし、やがて木簡へと言葉を書き足していった。木簡に換算すれば数百枚を超える。私は島の年寄り五人全員から彼らの子ども時代の言葉を聞き取った。彼らは最初警戒し、次に私が言葉を集める頭のおかしい女であることに気付き、驚くほど多くを語ってくれた。歌、諺、地名、身体の部位の名、色の名、死者を弔うときの決まり文句。
書きながら私は悟った。
この時代の言葉は4444年の日本語の直接の祖先ではない、と。祖先の一つではある。だがこの時代の列島には少なくとも七つか八つの互いに通じない言語圏がある。私が採集している島の言葉はその一つに過ぎない。4444年に日本語と呼ばれているものの直接の祖先は、もっと東の、もっと大きな集団の言葉だ。私の島の言葉はやがて呑まれ、消える。
私は消える言葉を記録している。
それでいい、と思った。
当初私は4444年に持ち帰るための日本語起源論を書こうとしていた。しかし持ち帰る手段はない。私は片道切符でここへ来た。
だから書き方を変えた。
いま私はこの島の人々のために書いている。
私はこの島の言葉の辞書を作っている。島の若い者たちに字を教えている。字は私が便宜的に作った六十一個の記号である。波と鹿と人の顔を組み合わせたような記号だ。島の子どもたちは意外な速さで覚える。
私は彼らにこう言う。
「お前たちの言葉はいずれ消えるだろう。だが消えるまでの間、これで書き残せる。お前たちの母が歌った歌を、お前たちの子どもの子どもに伝えられる」
子どもたちは意味をたぶん半分も理解していない。だが彼らは書く。自分の名を、母の名を、飼っている犬の名を板に刻む。板は島の物置に積まれていく。
これは歴史への明らかな介入である。私はそれを恐れていないと言えば嘘になる。だが4444年の歴史書には、日本の文字使用は五世紀か六世紀に大陸から入ってきた漢字に始まると書かれている。私の六十一個の記号がその大きな流れを変えることはたぶんない。私の記号はこの島の中で二世代か三世代細々と使われ、やがて島ごと静かに消えるだろう。
それでも消える前に書けたなら良い。
私はこの島で結婚しなかった。子も産まなかった。記録者でありたかった。記録者は記録の対象とあまり深く絡み合わないほうがいい。それが学者としての最後の矜持だった。
いま四十七歳である。この時代としては老女である。たぶんあと十年も生きない。私が死んだあと、私が集めた木簡は島の物置にしばらく残るだろう。そしてたぶん腐る。
腐ってよい。私は書くことで既に報われている。
言葉は話されるためにあり、書かれるためにはない。私が集めた歌は私が生きている間に島の子どもたちが口ずさんだ。それで十分である。
四千四百四十四年の学会よ。私の論文は書かれない。代わりにこの時代の一つの島の四十人の名も無き人々が、自分たちの母の言葉で自分たちの死者を悼み、自分たちの子どもを笑わせた。
それが言語学というもののたぶん本当の姿である。
八雲 千秋、三二五年、冬、瀬戸の小島にて。
五章
料理人・水島 弦の記録
〈口述・のちに弟子が木簡へ/推定 西暦331年 春〉
俺は料理人である。
4444年の東京、六本木で自分の店を持っていた。ミシュランの星三つ。予約は半年待ち。一皿の値段はこの時代の一人の男が一年働いて稼ぐぶんに近かった。
なぜタイムマシンに選ばれたのか理由ははっきりしている。「向こうへ行けば食える保証がない。だから料理人が要る」議論の場でそう言った学者がいたそうだ。彼か彼女には感謝している。料理人としてこの時代に来られたことをいまでは心から喜んでいる。
着地点は平地だった。緩やかな川、その両側に広がる湿った土地。稲というよりは稲の遠い親戚がまばらに育っていた。人々は稲だけでは足りず、栗、どんぐり、貝、魚、鹿、猪、そしてあらゆる山菜を食べていた。
俺は涙が出た。
4444年の俺は素材の少なさに常に苦しんでいた。海の魚は八割が養殖、野菜は温室育ちの決まった品種、肉は培養肉、香草は合成香料。本物の素材を求めて月と地球を行き来する男だった。
ところがこの時代の川辺にはすべてがある。
着地して三日目、この時代の女に拾われた。彼女は俺が持っていた小さな鍋、チタン製、を見て珍しい旅人だと思ったらしい。彼女は俺を自分の家に連れて行った。家には彼女の母と弟が二人いた。父は前の年の秋、猪に殺されたのだとあとで知った。
その日の晩、俺は彼女らの前で料理を作った。
材料は彼女が集めてきた湿地の芹に似た草、川で獲った小さな魚三匹、それに俺が持って来ていた4444年の塩。鍋に水を張り、魚を骨ごと煮出し澄んだ汁を作り、そこに芹を沈め最後に塩をほんの一つまみ落とした。
三人はそれを飲んだ。母は二口飲んで泣き出した。
理由をいまでもはっきりとは分かっていない。たぶん魚と草だけでこんなに美味い汁ができるのかという驚きだったのだろう。この時代の奴らは魚は魚、草は草として別々に火を通して食べる。混ぜるという発想がない。出汁という概念がまだはっきりとは成立していない。
俺はこの時代に出汁を持ち込んだ。いや、発見させた。彼女と彼女の母に、鰹に似た魚の身を天日で干す方法を教えた。干した魚を薄く削って水で煮出す方法を。海藻を焼いてその焦げを汁に少量落とす方法を。
半年後、彼女の家の食卓には四種類の汁があった。一年後、隣の家にも汁があった。三年後、集落のほとんどの家に汁があった。
五年後、俺はこの地域を治める大きな男の館に呼ばれた。大きな男は俺の作った汁を飲んだ。しばらく目を閉じていた。それから言った。
「これを毎日俺のために作れ」
俺はそれから死ぬまで彼の料理人になった。
書いておく。俺はこの時代に料理を発明したのではない。この時代にも料理はあった。彼らは彼らの流儀で彼らの食材を彼らの火で調理していた。俺が持ち込んだのは組み合わせ方の少しの技術に過ぎない。
しかしその少しの技術は思ったより遠くへ伝わった。俺の大きな男は周辺の首長たちに俺の料理を振る舞った。首長たちはそれぞれの土地に噂を持って帰った。噂は料理そのものよりも速く伝わった。
俺はこれを罪だと思っていない。食は命だからだ。俺が持ち込んだ技術でこの時代の何人かが少しだけ長く生きるだろう。少しだけ美味いものを食べるだろう。少しだけ家族と笑うだろう。
それは罪ではない。
俺はこの時代に俺の店を開いた。店舗はない。看板もない。だが俺の料理を食べたことのある者はこの地域にたぶん二千人はいる。彼らは俺の名を知らない。彼らは俺のことを北から来た汁の男と呼ぶ。それで十分である。
俺は4444年で三つ星だった料理人である。いま、四世紀の日本で無名の汁の男である。幸せである。
一つだけ書き残しておきたい。
俺はこの時代に日本料理の原型をたぶん無意識にいくつか置いてきた。それは4444年に日本料理と呼ばれているものとどこかで繋がっているかもしれない。繋がっていないかもしれない。確かめる術はない。
だがもし繋がっているのなら、もし4444年のある寿司屋のある一杯の吸い物が、俺が四世紀のこの湿地であの若い女と彼女の母と共に飲んだあの汁の遠い遠い末裔であるのなら、それは料理人としてこれ以上の幸福はない。
水島 弦、口述。三三一年、春。弟子シホが木簡に書き写した。
六章
記者・野々村 詩織の記録
〈自筆・墨・和紙/推定 西暦360年 秋〉
私は記者だった。
4444年の地球圏最後の紙の新聞社にいた。同僚は八人。読者は地球全体で四万人。データは十年で腐るが紙は百年もつと信じている変人たちの新聞だった。
タイムマシンに乗ることに迷わなかった。空白の四世紀を埋めたかったからだ。
私は四世紀の日本に着地して三十年生きた。いま五十九歳である。この時代としては明らかに長寿である。
なぜこんなに長く生きられたのか。動き続けたからだ。
一つの土地に留まらなかった。私は記者だった。取材する女だった。四世紀の日本列島をほぼ歩き通した。北は今の東北南部のたぶん宮城のあたりまで。南は今の九州北部のたぶん福岡のあたりまで。西は瀬戸内海の島々を渡り歩いた。東は今の静岡のあたりまで。
歩数たぶん一千万歩を超える。
七十以上の集落に滞在し、聞いた話を書いた。私が書いた木簡と樹皮の紙の束はいま、いくつかの集落に分けて預けてある。
私は記者としてこの時代の最初の全国紙をたった一人で作ろうとした。
書いておく。失敗した。
第一に、この時代の集落の間には私が想像していたほどの共通の何かがなかった。彼らは隣の集落の話に興味を持たない。興味を持つのは自分の集落の、自分の畑の、自分の家族の話である。「全国」という概念がまだない。
第二に、私は書きすぎた。この時代の人々にとって文字はまだ恐ろしいものである。私が木簡に何かを書くと、それを見た者は時に震えた。彼らは書かれることを呪われることと混同しがちだった。
第三に、これが最大の理由だが、私は疲れた。
三十年歩いた。三十年聞いた。三十年書いた。膝はもう駄目である。目は遠くの字が見えない。記憶は時々4444年と四世紀とを混同する。
いま、瀬戸内海のある小さな島にいる。
この島には私と同じ4444年から来た老女がいる。八雲千秋という名の言語学者である。私は彼女の存在を他の集落の噂話から二年前に突き止めた。彼女に会うために船に乗り、この島へ来た。
私たちは五十九年ぶりに日本語で話した。
正確に言うと、私は着いたその日の夕方、八雲の家の戸を叩いた。戸を開けた八雲は私の顔を見た。私も彼女の顔を見た。選ばれた七人の中で直接顔を合わせたことはなかった。訓練基地で遠くに見ただけである。
八雲はしばらく何も言わなかった。それから言った。
「あなた、あの記者の人ね」
私は頷いた。泣いた。
八雲は私を家に上げ、この時代の素朴なしかし美味い汁を出した。魚と芹の汁である。私はこの汁が水島という料理人が遠くの土地で発明したものと後で知ってまた泣いた。
私たちはその晩朝まで話した。
話しながら私は自分が書き溜めてきた木簡の束を少しずつ彼女に見せた。八雲はじっと読んだ。時々質問した。「この集落とこの集落は婚姻関係があった?」「この首長とこの首長は同世代?」
八雲は夜が明けかけたころ言った。
「野々村さん。あなたが書いたものは史料です」
私は三十年ぶりに記者として笑った。
以下は私が八雲の島に住むようになってからまとめている、四世紀日本列島・略年代記の序文である。
西暦二七〇年ごろ、瀬戸内海の東西で鉄の流入経路を巡る複数の小規模な争いがあった。西暦二九〇年ごろ、今の奈良盆地南部で複数の集落が連合し、最初の大きな首長を戴くようになった。西暦三一〇年ごろ、その連合は東の今の伊勢湾岸まで勢力を伸ばした。西暦三三〇年ごろ、九州北部で朝鮮半島南部の伽耶との交易が恒常化した。西暦三五〇年ごろ、今の近畿全域で大型の墳墓の築造が始まった。
これらのどれもが、あくまで私、野々村詩織が三十年間歩いて聞いて集めた話の要約に過ぎない。しかしこれはこの時代のこの列島のたぶん唯一の書かれた同時代史である。
私はこれを埋める。八雲の島の洞穴の奥に木簡の束と樹皮の紙の束と共に埋める。四千年雨が入らないように蝋を塗り油紙で包み素焼きの壺に入れて埋める。
四千年後、これが掘り出されるかどうかは私には分からない。掘り出されなくても構わない。掘り出されても構わない。
私は書いた。書いたという事実だけが私の最後の記事である。
野々村 詩織、三六〇年、秋、瀬戸の小島にて。
七章
映画監督・アキラ・スワの記録
〈自筆・墨・和紙/推定 西暦378年 夏〉
なぜ俺が選ばれたのか。委員長は俺の映画を好きだったらしい。それだけで十分な理由だった、と今では思う。
俺は映画監督である。4444年、五十本の劇映画と二百本以上の短編を撮った。ある年、ヴェネツィアで金獅子賞を獲った。ヴェネツィアはその頃既に海の底に沈みかけていたが、映画祭は水上ドームで続いていた。
俺の映画のテーマはいつも空白だった。歴史の空白。記録の空白。記憶の空白。人の心の空白。俺は埋められないものを埋められないままに映すのが好きだった。
タイムマシン計画の委員会は七人目に俺を選んだ。俺は機材をほとんど持って行かなかった。カメラもなし。録音機もなし。あるのは俺の目と耳と大量の墨と和紙と筆。
俺は絵と文字であの時代を書くことにした。
俺の着地点は今の京都盆地の北端あたりだった。到着したのは晩春、桜が散った直後。まず寝転がって空を見た。
空は青かった。
4444年の東京の空は青くなかった。あの時代の空は灰色でも白でもなく、ある種の透明なしかし何かで薄く曇った名付けようのない色をしていた。俺は五十歳になって初めて本物の青を見た。
俺はその青を忘れないうちに和紙に書いた。
「三七八年、たぶん四月。空、青。ふかい青。青というよりは存在そのもの。この青を記録しろ。この青がこの時代のすべての始まりだ」
以下、俺が四世紀の日本で目撃したもののいくつかを順不同に書いておく。
その一。
着地して二年目にある祭りを見た。夜の山の中の小さな社の篝火の傍で若い女たち十二人が輪になって踊っていた。動きは俺が4444年で見たことのあるどの舞踊とも違っていた。もっと素朴で、もっと激しく、もっと呪術的だった。
俺は輪の外で震えながらそれを見た。
その夜、宿にした農家の隅で蝋燭の光でその踊りを絵に描いた。十二人の女、輪、篝火、影、そして彼女らの髪。彼女らの髪は火の光を受けて金色に輝いていた。
俺はその絵にこう書き加えた。
「これはたぶん後世に神楽と呼ばれるものの祖の祖である。しかしこれはまだ神楽ではない。これは名前を持たない何かである」
その二。
五年目にある戦を遠くから見た。平地で二つの軍勢がぶつかっていた。片方が三百人ほど。もう片方が二百人ほど。俺は丘の上からそれを見た。距離約八百メートル。彼らは蟻のように見えた。
蟻たちは互いに突き刺さり、倒れ、また立ち上がり、また倒れた。一時間ほどで決着がついた。負けた側の残った百人ほどが南へ走った。勝った側は彼らを追わなかった。勝った側は負けた側が置いていった鉄の道具と旗と、まだ動いている負傷者たちを集めた。
負傷者たちは殺された。
俺はそれを絵にしなかった。代わりにこう書いた。
「戦の絵は描かない。戦は絵にすると美しくなってしまうからだ。これはただ人が人を殺したというだけの話である」
その三。
十年目にある男に会った。俺よりずっと若く三十歳くらいで、しかし既に四つの集落を束ねていた。名はカムナギと聞き取った。神を招く者という意味らしい。彼は首長でありながら同時に祭司でもあった。
三日目の夜、彼は俺にこう聞いた。
「お前は遠くから来たと聞いた。遠くのどこから来た」
俺は答えなかった。答え方を知らなかった。
彼は俺の沈黙をしばらく待った。それから笑った。
「言わなくていい。俺はお前が遠くから来たことだけ知っていればよい。遠くから来た者は遠くを見る目を持っている。俺はその目が要る」
その夜、和紙に彼の顔を描いた。高い頬骨。細いしかし強い目。少しだけ笑ったときの口の端の上がり方。
俺はその絵にこう書き加えた。
「この男がたぶんこの時代のこの列島の最も重要な男の一人である」
俺はいまこの記録を書いている。六十二歳である。この時代としては老人である。カムナギの館の離れの小さな部屋を与えられて、そこで絵と文字を書き続けている。俺の絵は館の中でちょっとした名物になっている。
四千四百四十四年で俺の映画は時に二百万人に見られた。いまは俺の絵は多いときで五人に見られる。しかしその五人の顔を、俺は4444年の二百万人よりもはっきりと覚えている。
映画監督としての俺のたぶん最後の悟りはこれである。
観客の数は意味を持たない。観客の顔が意味を持つ。
俺はこの記録をカムナギに預ける。彼はこれを読めない。字を知らない。だがこれが大事なものであるということは分かってくれる。彼はこれを館の奥の木の箱にしまってくれると約束してくれた。
四千年後、この箱がどこかから掘り出されるかどうかは俺には分からない。たぶん掘り出されない。
それでも俺は書く。書くこと自体が俺の最後の映画である。
カット、と俺はいま心の中で叫ぶ。
カット。俺の映画はこれで終わる。
アキラ・スワ、三七八年、夏、山城国のどこか、カムナギの館にて。
終章
――一通の手紙――
以上六つの記録は、それぞれ異なる時代、異なる土地で、異なる形で書かれた。
柊蘭の片仮名を刻んだ木の板は、彼女の娘ミハトの子孫によって代々家の守りとして伝えられた。三十七代後、その一族は大きな戦乱の中で滅んだ。木の板は家の焼け跡の床下から、4444年ではなくそれより数世紀前の時代に掘り出された。掘り出した者はそれを読めなかった。彼はそれを寺に寄進した。寺はそれを蔵の奥にしまった。蔵は時が経ち朽ち、木の板は他の古文書と混じり合いやがて忘れられた。
毛利剛の和紙の記録はオホ・ヒコの死後、彼の墓に副葬品として埋められた。墓は四世紀後半に築かれたこの列島でも屈指の大きな墳墓である。4444年時点でその墳墓はまだ発掘許可が下りていない。宮内庁に相当する組織がそれを皇統に連なる可能性のある陵墓として管理している。毛利の記録は墳墓の中で湿気に少しずつ蝕まれながらなおそこにある。
久保田修の樹皮の記録は彼の死後、看取った女によって山の洞穴の中にそのまま残された。女は洞穴の入口を石で塞いだ。洞穴は五百年後のある大地震で崩れた。樹皮は崩れた岩の下で粉々になり他の落葉や土と区別がつかなくなった。
八雲千秋の木簡と六十一個の記号は彼女の死後、島の子どもたちによってしばらく使い続けられた。三世代のうちに島の若者たちは本土との交易を強め本土の言葉を話すようになった。八雲の記号は使い手を失った。木簡は島の物置でゆっくりと朽ちた。二十世紀のある考古学調査で、その島の物置の跡から謎の記号が刻まれた木片が数点発掘された。研究者たちはそれを用途不明の地方的な呪符と分類した。
水島弦の料理は記録されなかった。しかし彼が持ち込んだ出汁の概念と素材の組み合わせの技術は口伝でこの地域から周辺へ拡がった。彼の名は忘れられた。彼の技術だけが名を持たぬままこの列島の食卓に静かに残った。4444年の日本料理と彼の料理との直接の系譜関係は証明できない。しかし無関係であるとも証明できない。
野々村詩織の木簡と樹皮の紙の束は、八雲の島の洞穴に蝋と油紙と素焼きの壺で丁寧に埋められた。壺は四千年雨に触れず湿気に触れず地震で少しずつ位置を変えながらしかし割れずにそこにあった。
そして、この壺だけが4444年に届いた。
西暦4444年8月17日午前十時三十二分。
タイムマシン計画は七人送り出したのち正式に凍結されていた。誰も戻って来ないからである。転送室は閉鎖されヒノキの匂いは消毒液の匂いに置き換わりやがて資料倉庫に転用された。
その日の朝、瀬戸内海のある小さな島で、四世紀に八雲千秋が住んでいたあの島で、一人の考古学者が洞穴の奥から素焼きの壺を掘り出した。
壺は割れていなかった。
壺の中には油紙に幾重にも包まれた木簡の束と樹皮の紙の束と、それに一通の和紙の手紙があった。
和紙は酸化して茶色く変色していたが字ははっきりと読めた。字は4444年の平仮名と漢字が混じった現代日本語で書かれていた。字を書いたのは野々村詩織である。手紙は彼女が埋める直前に最後に書き加えたものと後の研究者たちは推定した。
以下がその手紙の全文である。
四千四百四十四年のみなさんへ
もしこれを読んでいる人がいるならば。
まず報告します。
私たち七人は全員こちらへ無事に着きました。事故はありませんでした。そして全員こちらで生きました。
柊蘭は東北のある湿地で集落の女として生き、娘を産みました。彼女はこの時代に手を洗うという概念を静かに持ち込みました。
毛利剛は今の近畿地方のある王のもとで剣を振るい、その王が大きな連合を築くのを助けました。彼はその王を心から愛しました。
久保田修は山の中で一人で生きました。彼はこの時代の集落に道具を贈り続けました。彼を看取った女の名は私たちも知りません。
八雲千秋はいまの瀬戸内海のある島で消えかけていた言葉を記録し続けました。彼女は島の子どもたちに字を教えました。彼女はいま私の隣でこの文章を静かに見ています。
水島弦は今の中部地方のある地域で料理を教えました。彼が教えた出汁はいまこの列島のいくつかの地域に拡がっています。
アキラ・スワは今の京都盆地のある首長の館で絵を描き続けています。彼の絵はその首長の宝物になっています。
そして私、野々村詩織は三十年間この列島を歩きました。歩いて聞いて書きました。書いたものはこの壺の中にあります。読んでください。ただしあまり期待はしないでください。私が書いたものはこの時代のごく一部を私という一人の記者が私の目で私の耳で切り取った断片に過ぎません。
でもそれが私たちにできた精一杯です。
みなさんに伝えたい大事なことが三つあります。
一つ目。
この時代のこの列島には信長のような男はいませんでした。正確に言います。いなかったというよりは、そういう理解でこの時代を捉えることが間違っていたということです。
この時代はたしかに動乱の時代です。しかしそれは一人の英雄が天下を統一するために戦う時代ではありません。まだ天下という概念が無いからです。この時代の首長たちはそれぞれの土地でそれぞれの理由でそれぞれの規模で争ったり結んだりしました。彼らの中には後世の目から見れば確かに傑出した人物もいました。毛利が仕えたオホ・ヒコもアキラが記録したカムナギもその一人です。
しかし彼らは自分たちを英雄とは思っていませんでした。彼らは自分たちの集落を自分たちの家族を自分たちの田を守ろうとしたただの少しだけ賢い、少しだけ強い、少しだけ運の良い男たちでした。
歴史の空白を後世の物差しで英雄が埋めるべき穴として捉えると、たぶんこの時代の本当の姿は見えません。
この時代は無数の小さな名も無き人々の無数の小さな名も無き選択の積み重ねの時代です。
それが一つ目です。
二つ目。
私たちはこの時代を変えました。たぶん変えました。おそらく変えました。ほんの少しだけしかし確実に変えました。
柊は集落の子どもの死亡率を少し下げました。毛利はいくつかの戦の勝敗を少し動かしました。久保田は山の中に道具を置きました。八雲は島に記号を教えました。水島は料理を伝えました。アキラは絵を描きました。私は書きました。
これらすべては4444年の日本に繋がっているのか。それとも繋がっていないのか。私達には分かりません。もしかしたら私たちがこの時代に来なかった別の歴史では4444年の日本は今とは少し違う姿をしていたのかもしれません。あるいはまったく変わっていないのかもしれません。
歴史は変えられるのか変えられないのか。私たちはその問いに答えを持ちません。
ただこう思います。私たちが変えたかどうかにかかわらず、私たちはこの時代を生きました。
生きたということがいちばん大事だったと今は思います。
それが二つ目です。
三つ目。
これがいちばん大事です。
もう誰も送らないでください。
タイムマシンは片道です。私たちはそれを知って来ました。それはいい。私たちは大人でした。私たちは選ばれたと思うことにしました。
でも次はいりません。
理由は二つあります。
一つ。私たち七人はそれぞれの土地でそれぞれの人生を生きました。そのうちの何人かはこの時代の人と深く深く結びつきました。私たちがこの時代にこれ以上追加の未来人を迎える必要はありません。私達の子や孫はもうこの時代の人です。4444年の人が彼らの世界にこれ以上割り込むのは不要です。
もう一つ。歴史の空白は空白のままで良いと私たちはいま思っています。
私たちがこの壺で送るものはたしかに四世紀日本のいくつかの姿を伝えるでしょう。しかしこれは私たち七人がたまたま目撃したたまたま書いた断片に過ぎません。
この時代の本当の豊かさはこの時代に生きた名も無き人々の名も無き心の中にあります。
それは掘り出せません。それは書き残せません。それは記録できません。
それはそこにあったということだけが真実です。
だからみなさんはこれを読んでそれでもこの時代をまだ分からないと思ってください。分からないままでいてください。
空白は埋めないということが時にいちばん正確な埋め方です。
最後に。
私たち七人の名前を4444年の記録から消してほしいとは言いません。私たちは志願して来ました。私たちの名は記録に残ればいいと思います。
しかし私たちのこちらでの生涯を英雄譚として書かないでください。
私たちは英雄ではありません。
私たちはそれぞれの土地でそれぞれの生活をしていた七人の4444年生まれの普通の人間でした。
たまたま四世紀にいた普通の人間でした。
柊蘭はたぶん三一〇年ごろ東北の集落で病のために亡くなりました。幼い娘のミハトを残しての早世でしたが最後まで微笑んでいました。
毛利剛は四一二年、老衰でオホ・ヒコの後を継いだ孫の館で死にました。八十歳を超えていました。
久保田修は三〇八年山の洞穴で看取ってくれた女の手を握りながら死にました。
八雲千秋はいま私の隣にいます。彼女はたぶんあと数年で死にます。私もあと数年で死にます。
水島弦はたぶん三四〇年ごろ彼が仕えた大きな男の館で死にました。最期に彼の弟子の一人が彼のために汁を作ったと聞きました。
アキラ・スワは三八〇年ごろまだ山城のどこかで絵を描いていました。彼のその後の消息を私たちは知りません。
これで七人分全員の報告を終わります。
4444年のみなさんどうかお元気で。私たちはこちらで幸せでした。
不思議なことに片道で来て片道で生き片道で死ぬと決まっていた人生の中で、私たちは4444年で生きていたときよりも深く生きたと感じています。
それはたぶん戻れないからです。
戻れないと決まっているとき、人は今この瞬間を今この場所を今この人をいちばん強く抱きしめます。
私たちはみなさんにそれを伝えたかったのかもしれません。
さようなら。
四世紀の日本より、西暦三六〇年秋。瀬戸の小島にて。
野々村 詩織(七人の代表として)
追伸。この手紙が届きますように。届かなくても書いたことに悔いはありません。
――手紙、以上。
考古学者は手紙を震える手で卓に置いた。
彼女は4444年のその日の午後、緊急学会を招集した。
学会は三日三晩続いた。
四日目の朝、学会は一つの結論を出した。
「発掘物は真正である。手紙は真正である。しかしこの壺の中身は公開しない」
理由は手紙の三つ目に書かれていた。空白は空白のままで良い。
4444年の学者たちはその願いを尊重した。
七人の名は密かに殿堂に刻まれた。彼らの記録の存在は限られた研究者だけに伝えられた。壺は専用の保管庫に収められた。手紙は複製が一部だけ作られそれも非公開の書庫に封じられた。
書籍の最後に一つだけ書き添えておきたい。
その日の夕方、閉鎖された転送室の埃をかぶった机の上に、一輪だけ白い花があった。
誰が置いたのかは記録されていない。
(了)
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あとがき
物語を最後までお読みいただきありがとうございました。
人は誰しも過去を振り返り「もしあの時に戻れたら」と考えることがあります。あるいは失われた過去の記憶や記録をどうにか埋めようと焦がれることがあります。
しかし片道切符で古代へと旅立った7人の男女が選んだのは、過去を変えたり未来へ名を残したりすることではなく、いま目の前にある時間を惜しみなく生きるということでした。戻れないと腹を括った瞬間にこそ、人は出会った相手の温度を感じ、手をつなぎ、今日の一杯の汁に救われるのだと思います。
四千年の隔たりを超えて素焼きの壺に託された彼らの言葉が、目まぐるしく過ぎ去る現代を生きる皆様の心に静かな温もりとして届けば幸いです。


