飼い主観察日記③〜ある夫婦の物語〜 | 世界の切れっ端

世界の切れっ端

〜ひっそりと生息中@TOKYO〜

息をしていたら2月が終わってしまった・・・。あーん毎月更新する予定だったのに!

ということで、1月に書き始めて、うっかりすっかり3月です。

今回で完結。ちょっと長いです。

 

時間が経ちすぎで絵柄が変わっているし、後半は妄想大爆発ですが、お許しくださいませ。

 

***

 

我が飼い主は、昭和20年代前半生まれ。

「となりのトトロ」が戦後10年後くらいの時代設定らしいので(間違ってたらすいません)、飼い主もちょうど、その頃の時代をサツキやメイちゃんくらいの年齢で過ごしていたわけです。

 

奈良は大規模な空襲がなかったとはいえ、まだまだ戦争の傷跡が激しい中、地元ではお寺が保育園の替わりをしていた。

その保育園とは、「ルンビニー保育園」という名前だったそうなんですが。

 

「“ルンビニー”って、わかるやろ。お釈迦様が産まれた場所の名前や!」

 

こちとら奈良の平和な村から、とんでもない怪物が爆誕しとるでな。

 

↓「ルンビニー保育園」卒園者の70年後

 

 

 

車の中で飼い主が語る。

 

「親戚の子がその保育園に通っててな。仲良かったから、同じところに行きたいって言ったんや。でも家からちょっと離れてたから、保育園に近い“木村の家”(※私の祖母の実家。つまり飼い主の母親の実家)に預けられたんよ。

 

昔はよう木村のお墓参りにも行ったんやけど、ここ50年くらいは行けてなくてなぁ。。

 

確か、ここずーーーっと走って行ったら、田んぼの中に森があるねん。その森に向かって進んだら近くにお墓が見えてくるはずや。」

 

まさかの森が目印。

 

トトロの森みたいな、ぽっこりとした感じかな?

森は森でも、まさか「腐海」じゃないよね。。

この不織布のマスク、例のウイルスは防げても、腐海の毒気は防げませんが、大丈夫ですか。

 

らん らんらら らんらんらん・・・♪(ナウ●カレクイエム)

 

 

「あったあった!あれやあの森や!あの手前のとこにお墓みたいなの、かたまってるやろ!」

 

田園の中にぽっこり佇む森を発見。確かにその手前に、墓地になっている一角があった。

 

これから50年ぶりに、飼い主の母方の、更に母方の墓探しが幕を開けた。

 

 

 

墓地の区画内をぐるぐる回って、ようやくお目当て(?)のお墓を発見。

私にとっては曽祖父・曽祖母にご挨拶。

 

「・・・ここになぁ。しゅんいっつぁんのお墓もあるはずやねん」

 

「“しゅんいっつぁん”??誰それ」

 

「あんたのお婆ちゃんの兄ちゃんや」

 

「お婆ちゃんにお兄さんおったん?3人姉妹だけやと思ってた」

 

「2人お兄さんおったんよ。どっちも戦死しはったんやけどな。」

 

「・・・」

 

 

 

“吾子(あこ)”ってな、小さい子に対する昔の愛称やねん。だから私のことを“吾子ちゃん”って、木村の家の人は呼んでくれたんよ。

 

ほんで木村の家に、“喜代美さん”っていう人がおってな。みんな“おばちゃん”て呼んでたけど。

 

・・・なんか、女中さんみたいな扱いされてはったけど、、、実はしゅんいっつぁんのお嫁さんやったんやなぁ。

 

お母ちゃんの姉ちゃんたち(※飼い主にとっての叔母達)は、めちゃくちゃ怖かったけど、喜代美さんはほんまに優しかったんや。

 

 

 

 

幼かった飼い主によく物語などを読んで聞かせてくれたらしい。

喜代美さんにとっても義実家、飼い主にとっても母方の実家で、お互いちょっぴりよそ者同士。

そんなこともあってだろうか、保育園児の飼い主は、喜代美さんを母親のように慕っていたようだ。

 

「ほんまに優しくしてくれはってなぁ。。」

 

 

 

昭和27年頃。

 

おばちゃん、と言ってもおそらく当時はまだ20代だっただろう喜代美さん。

 

この時はもう既に未亡人だった。

 

 

あったあった!!これやー!やっぱり、はるみちゃん、建てたんやわ!」

 

杖を投げ出さんばかりに、大興奮で別のお墓に駆け寄る飼い主。

 

熱心に手を合わせながらポツポツ語る言葉を繋ぎ合わせると、喜代美さんという女性の人生が見えてきた。

 

***

 

当時、親戚筋同士で結婚することの多かった田舎のこの村。

喜代美さんも木村家の血縁者だったかもしれない。

 

戦争が始まる頃に木村家に嫁いできて、そして数年経つ頃には、長男の駿一さんも戦地に旅立ってしまった。

 

一人嫁ぎ先に残された喜代美さん。

存命だった義父と、義理の妹達の面倒を見ながら、毎日毎日、神仏に手を合わせていたに違いない。

 

戦地から届く手紙を楽しみに、郵便受けを見ては一喜一憂し、近所で戦死者が出る度に、恐怖で生きた心地はしなかっただろう。

 

 

現実は悲しいかな。

 

 

昭和20年5月3日。駿一さん、享年26歳。

 

 

喜代美さんがどんな思いだったか、想像するに余りある。

 

 

 

 

 

 

 

終戦を迎えた後、戦地から引き揚げて来る人の中に、もしかしたらと、一縷の希望を持っていたかもしれない。

再会に湧く近隣の家族や、産まれて来る親類の子供達を見る度に、複雑な気持ちになっただろうし、

料理の味付けが上手くできた度に、「ああ、駿一さんに食べさせてあげたかった」と、想いを寄せただろう。

 

時々、人知れず涙していたんだろうな。

 

 

 

 

 

子供のいなかった喜代美さん。

 

いつか自分の子供に読んであげたかった昔語の数々を、幼かった飼い主に語って聞かせてくれたようだ。

“吾子ちゃん”との日々が、少しでも慰めになっていたら良いのだけれど。

 

 

 

 

 

「しゅんいっつぁんが戦地に行く前にな、『自分の代わりに木村の家を守ってくれ』て言われたらしいわ。だから他の所によう行かんで、ずっと木村の家に残ってはったんや」

 

 

飼い主の母方の血縁者を思い浮かべると、おそらく器量は良かっただろう喜代美さん。

まだ20代の彼女には、再婚話が何度も挙がったと思われる。まだ先が長い残りの人生と、若くして亡くなった駿一さんへ後ろめたさの間で、心が揺れたことだってあっただろう。

 

それでも他の人の所に嫁がなかった理由は、なんだったんだろうか。

きっと誰も止めなかったはずだろうし、誰も責めなかったはずなのに。

 

 

 

「どうして独りなの?」と聞かれる度に、

 

「旦那さんはおるんよ、会われへんだけで。」そう答えることで、駿一さんが生きた証を示すことができた。

きっとそれが心の支えだったんだろうか。

 

 

喜代美さんの気持ちを想像して、風呂場でちょっと泣いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

駿一さんとの約束を糧に、喜代美さんは木村家に残った。

嫁いでいく妹達を義母の代わりに送り出し、年老いてゆく義父の面倒を見続けた。

 

 

 

 

激動の昭和が過ぎる頃、喜代美さんは60代で亡くなった。

 

駿一さんを見送ってから、もう40年近く経っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

喜代美さん、駿一さんは真っ先に迎えに来てくれましたか??

 

もう、はちゃめちゃ喜びいっぱいで再会してて欲しい。

40年分、いやそれ以上に、甘えまくって下さい。

 

 

 

 

二人の会話を想像してみる。

 

「俺が余計なことゆうたから、お前はよそに嫁に行けんとずっと独りやった。可哀想なことしてしもた」

 

「そんなことあらへん。40年なんてすぐや。それに吾子ちゃん、えらい私に懐いてくれて、ほんま可愛らしかったんよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

せやけど、なんやあの後ろにおる凶悪そうな猫は!?

 

ほんまやなぁ、目つきも悪いし、物騒やわぁ。

 

俺は戦地におったからわかるんや。あれはなぁ、もう2〜3人くらい●しとるで。

 

いややわ。まさか吾子ちゃん、あんなんとつるんでるんやないやろね?

 

 

 

すいません、その凶悪な猫、吾子ちゃんの娘ですぅ!!!

 

 

 

 

後に飼い主のいとこが、形式上、駿一さんと喜代美さんの子供ということなって、新しく二人のお墓を建てたそうです。

 

法名碑では、亡くなった年齢が20代の駿一さんと60代の喜代美さん。

見ただけではわからないけれど、この二人は夫婦で、今は静かな鎮守の森近く、一緒に仲良く眠っています。

 

 

***

 

 

拝啓、木村喜代美さま。

 

あなたが亡くなられてから40年近く経っていますが、あまりに生き様がかっこいいので、勝手に絵にして、こうしてインターネットに載せて全世界に晒しています。ごめんなさいね!!

 

あと、あなたが大事に育ててくれたあの“吾子ちゃん”は、お陰様で今日も元気です。

 

吾子ちゃんの娘より。

 

 

<おしまい>