天下の大歌人、与謝野晶子は、1878年、現在の大阪の堺で生まれた。誕生時の本名は鳳志よう(ほうしょう)。家は和菓子屋で、彼女の上に兄のほか、姉が二人いた。
志ようは、9歳で漢学の塾に入り、琴や三味線を習い、女学校のころは『源氏物語』など古典のほか、尾崎紅葉、幸田露伴、樋口一葉などの小説を読む文学少女だった。
20歳のころから和菓子屋の店番をしながら、雑誌に短歌を投稿しだし、22歳のころ、師匠の妻帯者だった与謝野鉄幹と不倫関係におちいった。鉄幹は結局、離婚し、晶子と結婚した。それで彼女は与謝野晶子になった。
晶子は鉄幹の雑誌「明星」に短歌を発表して上京。23歳で処女歌集『みだれ髪』を出版。
「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」
「人の子の恋をもとむる唇に毒ある蜜をわれぬらむ願い」
センセーショナルな歌の並ぶこの歌集は、日本文学史上にそびえる記念碑となった。
26歳の年には、日露戦争に従軍した弟を思う詩「君死にたまふことなかれ」を発表。
「親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。」
「すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獣の道に死ねよとは、」
こうした生々しい心情吐露の詩句は社会にショックを与え、広く共感を呼んだ。
晶子は鉄幹とのあいだに12人の子どもをもうけ、育てながら『源氏物語』の現代語訳を完成し、文化学院を創設するなど精力的に働いた後、1942年5月に没した。63歳だった。
與謝野晶子の短歌は、中学生のころから読んでいた。当時もいまも、この人にはかなわない、という感じがする。肉感的な迫力のある短歌といい、軍事一色の時代に「天皇は戦いにはみずから出かけていかれない」と堂々と書く強さといい、まったく恐るべき詩人だと思う。
『源氏物語』の「胡蝶」の段に、こんなくだりがある。
そのころ、光源氏は36歳くらい。光源氏が引き取り、育てている娘・玉鬘(たまかずら)が美しく成人し、彼女のもとへいろいろな男たちが言い寄ってくる。それに嫉妬した養父の光源氏は、自分はただでさえ育ての親として愛しているのに、それに男女間の愛も加わって、こんな大きな愛をあなたに捧げる人はいないのですよ、ほかの男にとられでもしたらと心配でたまりません、と、わが娘を口説くのである。その後に、作者の紫式部が寸評を付けていて、それはこんな感じである。
「いとさかしらなる御親心なりかし(たいへん余計な親心である)」
自分がもっている与謝野晶子訳『源氏』では、ここをこう訳している。
「変態的な理屈である」(与謝野晶子訳『日本国民文学全集 第三巻 源氏物語・上』河出書房)
谷崎潤一郎ほか現代語訳者は数いるけれど、こんな風に訳した人はほかにいない。自分は「晶子訳源氏」のこういうところが好きである。
(2014年12月7日)
●おすすめの電子書籍!
『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナス、ヨーガヴィル、ロス・オルコネスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を実際に訪ねた経験をもとに、その仕組みと生活ぶりを具体的に紹介する海外コミュニティー探訪記。人と人が暮らすとは、どういうことか?
