「天下の二枚目」といわれたスター鶴田浩二は、1924年に生まれた。本名は小野栄一。
自分は静岡県磐田市出身なので、小さいころから、天竜川をはさんだ西どなりの浜松市で鶴田浩二は生まれ育ったと聞かされて育った。宮城県の男が菅原文太なら、静岡県は鶴田浩二である(いまだと柴田恭平かしら)。
家庭の事情で、目の見えない祖母と二人暮らしだった栄一は、極貧のなかで育ち、14歳のときに、時代劇のスター高田浩吉の劇団に入団した。
19歳で大学の商科に入ったが、すぐに学徒出陣がはじまり、海軍航空隊に所属した。
敗戦後、師匠・高田浩吉の世話で映画界に入り、鶴田浩二となった。
25歳の年に「フランチェスカの鐘」で初主演。以後「人生劇場シリーズ」「博徒シリーズ」など、主に任侠もの映画で活躍し、二枚目として圧倒的な人気を誇った。29歳で一日のギャラが当時のお金で300万円という日本最高額のギャラの記録を作った。
46歳のときに歌った「傷だらけの人生」が大ヒット。「古いやつだとお思いでしょうが……」の名ぜりふで知られるこの曲で有線大賞を受賞した。その後も映画やテレビで活躍した後、1987年6月、肺ガンのため没した。62歳だった。
鶴田浩二は好き嫌いがはげしく、同じ俳優仲間でも、宇野重吉、三国連太郎、山城新伍らとは仲が悪く、丹波哲郎、松方弘樹、梅宮辰夫などをかわいがったという。
「傷だらけの人生」を歌う鶴田浩二は、左手を耳にやり、右手にハンカチを添えてマイクをもった端正なスタイルで知られたが、昔聞いた話ではあれは、耳が悪いので後ろのオーケストラの音がよく聴こえるように手をあてがうので、また、汗っかきなため、マイクを手渡されたつぎの歌手が気持ち悪くないようにハンカチを添えてマイクをもったらしい。
子どものころ、自分が聞かされた話によると、目の不自由な祖母さんと二人暮らしだった鶴田浩二は、徴兵され、特攻隊員として出征していく際、お祖母さんは目が見えないから、孫を裸にして、からだじゅうをさわって感触をたしかめて送りだした、と聞いた。感慨深い光景である。
でも、いろいろ調べてみると、こうした話は事実とは微妙に食い違っているようだ。
彼の母親は、兵庫県にいた浩二の父親側の家族に結婚を反対され、やむなく生まれたばかりの息子を連れて浜松へやってきてべつの男と入籍したらしい。
目が不自由な祖母に預けられ、二人で暮らしていたのはほんとうのようだが、浩二が徴兵されたときにはすでに祖母は他界していた。だから、からだをさわった云々の話は時期がずれている。また、兵役についた鶴田浩二は航空隊所属ではあったが、特攻隊員でなく、特攻機を整備する予備士官だったらしい。
やっぱりショービジネスの世界の逸話は、いろいろなうわさに尾ひれがついてふくらんでいるし、霧に包まれていて、ほんとうのところはなかなかわからない。はっきりわからないほうが、美しくていいのかもしれない。
鶴田浩二や高倉健のような、慎み深い感じの二枚目スターというのは、流行らなくなって久しく、さびしい。菅原文太を逝ってしまった。「傷だらけの人生」は、子どものころからの自分の愛唱歌である。
(2014年12月6日)
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