小学校のころ、自分はデュマの『三銃士』『鉄仮面』などダルタニヤン・シリーズを愛読していた。胸をわくわくさせながらページをめくったあの感覚は、いまでも忘れない。
アレクサンドル・デュマは、1802年に、フランスのヴィレール・コトレで生まれた。
祖父はノルマンディ地方の貴族で、黒人奴隷の女と関係を結び、男の子をもうけた。これがアレクサンドルの父親だった。クレオール(白人と黒人の混血)だった父親は、その腕力と勇敢さを軍隊で発揮し、折からのフランス革命で、貴族でなくとも昇進できるように軍規が変わったこともあり、将軍にまで出世した。しかし、ナポレオンに反乱分子とみなされ、元将軍の父親は不遇のうちに、アレクサンドルが4歳のとき、世を去った。
アレクサンドルの母親はタバコと塩の販売店を営んで子どもたちを養った。
勉強は苦手だったが、本好きで活発な少年だったアレクサンドルは、17歳のとき、ソワッソンの街で「怪奇ハムレット」という芝居を観て感動。戯曲家になることを決意。役場の見習いをしながら、デュマは文学や歴史を勉強した。
20歳のとき、50フランの全財産をポケットに入れて、デュマはパリに出た。頼りは、持参してきた生前の父親宛ての手紙の束で、その手紙の送り主をさがし、訪ねては就職を頼んだ。熱心な就活の甲斐あって、デュマは貴族の秘書の仕事にありつき、書類の清書をしながら、歴史と演劇の勉強をし、時間を見つけては戯曲を書いた。
27歳のとき、戯曲『アンリ三世とその宮廷』が劇場にかかり、デュマは喝采を浴びた。続いて『クリスティーヌ』『アントニー』を書き、演劇界で彼は大成功を収めた。
一方でデュマは、新聞紙上に『モンテ・クリスト伯(巌窟王)』『三銃士』『王妃マルゴ』『王妃の首飾り』などを連載し、彼の小説が載った新聞はどれも飛ぶように売れた。
デュマはべつの執筆者に原稿を書かせ、自分が手を入れて仕上げるという共同作業によって膨大な作品群を生産していった。彼はまたみずから劇場経営にも乗りだし、莫大な収入を得たデュマは、豪邸を建て、そこに毎夜おおぜいの客を呼んでは、贅の限りをつくした料理と酒とでもてなし「パリの王様」と呼ばれた。
しかし、やがて政情が変化し、演劇が下火になると、金回りは急に悪化し、巨額の負債を抱えるようになり、49歳の年には裁判所から破産宣告を受けた。
58歳のころ、出版契約で思わぬ大金を手にすると、彼はそのお金で船を建造し、19歳の愛人を連れて地中海をイタリアへ向けて出航した。彼らはシシリア島でガリバルディ軍の歓迎を受け、もともと人民解放主義者だったデュマは感激し、船と大金をガリバルディ軍に提供し、みずからガリバルディの赤シャツ隊に加わった。その後、ガリバルディが、自分の治世下にあったナポリやシシリアを王に献上し、王政の下にイタリア統一が成ると、デュマは裏切られた失意のうちに、追われるようにフランスへ帰国した。
ほとんど無一文になったデュマは息子の家に身を寄せた。息子は、父親と区別するために「小デュマ」と呼ばれる『椿姫』の作者である。外出しなくなった大デュマは、外出用の服のポケットにナポレオン金貨一枚と小銭があるのを見つけ、息子にこう言った。
「いいかい、それは五十年前にお父さんがパリにやってきたときに持っていたのと同じ金額なんだよ。だから、五十年間さんざんぜいたくをしてきたが、一文も減らなかったことになる。昔も今も同じだけ財産があるんだ。そのおれを浪費家などといって非難するやつは誰だ!」(ガイ・エンドア著、河盛好蔵訳『パリの王様』講談社)
1870年12月、デュマは没した。68歳だった。
子どものころから、デュマのようになりたい。デュマのように生きたいというのは自分の希望だった。けれど、いまだに彼の爪の先ほどにも達していない自分を痛感する。アレクサンドル・デュマほど魅力的な生き方をした人はめったにいない。
(2014年7月24日)
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