幸田露伴は、慶応3年7月23日(1867年8月22日)に江戸で生まれた。本名は幸田成行(しげゆき)。幼名を鉄四郎といった。父親は江戸幕府の家臣だった。
小さいころ、病弱だった成行は、塾に通って素読を学び、草双紙、読本を愛読した。中学では尾崎紅葉と同級生だったが、家計が苦しくなり退学。
後に、現在の青山学院大学の前身である東京英学校に入学したが、これも中退した。
14歳のころ、給費生として入学した電信技術の学校をへて、電信技師の公務員として北海道の余市に勤務した。
しかし、文学への思いやまず、20歳のとき、とつぜん辞職し、蒸発した。
「身には疾あり、胸には愁あり、悪因縁は逐へども去らず、未来に楽しき到着点の認めらるるもなく、目前に痛き刺激物あり、欲あれども銭なく、望みあれども縁遠し、よし突貫して此逆境を井でむと決したり。五六枚の衣を売り、一行李の書を典し、我を愛する人二三にのみ別をつげて忽然出発す。」(「突貫紀行」『露伴全集 第十四巻』岩波書店)
放浪しながら東京にたどりつき、父親がやっていた紙屋を手伝いながら、読書をし、小説を書いた。
22歳のとき海外を舞台にした小説『露団々』を発表。これが出世作となり、続けて『風流佛』『五重塔』など、文学史上に残る名作を書いて、大作家となった。明治の一時期は、かつての同級生、尾崎紅葉とともに絶大な人気を誇り「紅露時代」と呼ばれた。
小説のほか、史伝、評論、注釈書も多く著し、41歳の年から乞われて京都帝国大学で教鞭をとり、国文学を講義したが、辞職。以後、研究と執筆に専念した。
広く尊敬を集めていた幸田露伴は、1937年(昭和12年)に文化勲章が設けられると、その第1回の受賞者に選ばれた。
1947年7月、千葉の市川で没した。80歳だった。
幸田露伴の小説『運命』『連環記』をはじめて読み、自分は世の中にはこんな小説もあるのかと驚いた。名文として名高い『五重塔』の嵐の描写なども空前絶後である。
谷崎潤一郎がどこかで、現在の日本で文語文を自由自在に書ける人間は幸田露伴だけなのではないかと書いていたけれど、まったくその通りで、それまで自分は文語文というのは、決まりきった定型文の羅列だとばかり思っていたところが、露伴の文語文を読むと、まさに自由闊達に、血わき、肉おどる、感情のこもった文章がおもしろく、また、みごとな美しさでもって並んでいるのだった。もしも一字一句訂正するところのない完璧な文章というものがあるとしたら、幸田露伴の文章を指すのだろうと思った。
日本と中国の古典、歴史に精通する博覧強記の上に、露伴の場合は、自分の頭でちゃんと考えて、古典にこうあるけれど、おそらくこれはこちらの文献を写したもので、もとの文献にしても、これこれこういう理由でまちがっていて、おそらく実情はこうだったろうと推定するというレベルまで突き詰める知性の高さに驚かされた。幸田露伴は日本文学が達し得たひとつの頂点だと思う。
(2014年7月23日)
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