山本周五郎は、1903年、山梨の現在の大月で生まれた。本名は、清水三十六(しみずさとむ)。清水家はマユの仲買や馬喰などをしていた。
三十六が4歳のとき、大雨による水害にあい、これを機に三十六の家族は東京へ出た。
7歳のとき、一家は東京から横浜へ引っ越し、三十六は横浜の小学校に通った。
小学校四年生のとき、教師にその文才を認められ、
「きみは小説家になれ」
と言われ、これが三十六の心の支えとなった。
13歳で小学校を卒業すると、三十六は東京の質屋に住みこみで働く徒弟となった。その質屋の名前が「山本周五郎商店」といった。
20歳のとき、関東大震災で被災して、山本周五郎商店は解散。
清水三十六は関西へ逃げて、転々としながら新聞や雑誌の記者をした後、21歳のころ、東京へもどり、雑誌社の編集記者になった。
23歳のとき、文芸誌に小説『須磨寺附近』が載り、これが出世作となり、その後、専業作家となって時代小説を書いた。
40歳のときには『日本婦道記』で直木賞に選ばれたが、これを辞退。それ以後も「すでに読者から賞をもらっているから」として、数々の文学賞を辞退した。
『樅の木は残った』『赤ひげ診療譚』『青べか物語』『ながい坂』など名作を山のように書き、1967年2月、肝炎のため没した。63歳だった。
ペンネームの「山本周五郎」は、丁稚奉公時代の主人が、彼に働きながら英語や簿記の学校に通わせてくれた、その感謝をこめて、店の名前を名乗ったらしい。
おおらかな人間味のある人物を時代小説に書いた山本周五郎だが、本人は「曲軒(きょくけん)」とあだ名されるへそ曲がりだった。作家、尾崎士郎がつけたあだ名らしい。
山本周五郎がまだ駆けだしのころ、文藝春秋社の創業者である菊池寛のところへ原稿をもちこんだことがあった。文壇の大御所だった菊池寛が、原稿を批評すると、
「小説について貴方の教えを乞いたいとは思いません」(早乙女貢『わが師山本周五郎』第三文明社)
と、原稿を持ち帰ったという。
後の山本の直木賞受賞は、このときの嫌悪感が尾を引いていたのかもしれない。
狷介をもって鳴る山本周五郎は、あまり人を近寄らせず、とうぜん弟子をとらなかったが、唯一、出入りを許された弟子が早乙女貢だった。自分は生前の早乙女貢と話したことがあって、彼が師匠の山本周五郎について語るのをすこし聞いた。
山本周五郎は、時代小説を書くのなら、ユーゴーやデュマなど外国作家のものを読んで勉強するべきだとすすめ、早乙女に本を貸してくれたという。
師匠の山本はこんなストリンドベリーのことばをよく引用したそうだ。
「苦しみ働け、常に苦しみつつ常に希望を抱け、永久に定着を望むな、此の世は巡礼なればなり……」(同然)
山本周五郎は、日本人らしい人情味のある時代小説を書いた人だけれど、その骨法としては、じつは西洋的な作家だったのかもしれない。
(2014年6月22日)
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