サルトルは1960年代に来日したこともあり、実存主義哲学の伝道師として、自分が子どものころは、日本でも有名だった。自分は中学生のころ、はじめて彼の名前を知った。
ジャン=ポール・サルトルは、1905年、フランスのパリで生まれた。父親は海軍士官だった。ジャンが2歳のころ、父親は熱病で亡くなった。夫の看病疲れと死別のショックにより、ジャンは母方の祖父母のもとへ預けられた。祖父はドイツ語の教授で、たくさんの蔵書をそろえていた。祖父の書斎で、ジャンはよく本を読んだ。
サルトルは、ルイ大王学院でポール・ニザンに出会い、高等師範学校でメルロー=ポンティと知り合った。そして、教授資格認定試験の受験準備をしていた24歳のころ、同じ資格試験を受験しようとしていたシモーヌ・ド・ボーヴォワールと知り合い、二人は2年間の契約結婚を結んだ。サルトルは、こう言ったという。
「2年間のリース契約にサインしようじゃないか」
これは、正式には結婚しない、たがいに相手を束縛せず、自由恋愛を認め合うという特殊な恋人関係の契約で、結局2年だけでなく、生涯にわたってつづいた。
26歳で高等中学の哲学科の教師になったが、第二次世界大戦がはじまると、サルトルは召集され、気象班に配属された。そしてフランスがドイツに降伏し、捕虜となった。
サルトルは生まれつきひどい斜視で、彼はこれを利用し、平衡障害の病気があるといつわって釈放されパリに帰ってきた。
戦時中の38歳のとき『存在と無』を発表。戦後は教師を辞めて、著作活動に専念した。
大戦後は、世界的に実存主義哲学が流行し、サルトルはその代表的哲学者として世界各国を飛びまわり、行った先々で大歓迎を受けた。無神論的実存主義を標榜し、キューバ革命政府を支持し、中国の学生たちの毛沢東主義を用語するなど、政治的な発言も積極的にした。59歳のとき、ノーベル文学賞を辞退。
68歳のとき、右目を失明。そして1980年4月、肺水腫のため、没した。74歳だった。
評論に『実存主義とは何か』『シチュアシオン』、戯曲に『汚れた手』『悪魔と神』、 小説に『嘔吐』や未完の大作『自由への道』などがある。
サルトルの「参加(アンガジェ)」。それは自分にとってずっと最重要問題だった。
サルトルの説をわかりやすくいえば、こうである。
仮にあなたが昼にラーメンを食べるか、カレーをカレーを食べるかで迷い、結局、ラーメンを食べたとする。すると、あなたはラーメンを選び、ほかのすべての食べ物を昼食として拒否したことになる。「昼食にはラーメンを」という方向へ世界を押し進めるのに加担したことになる。このように、ひとつを選ぶことは、ほかのすべてを拒絶することであり、選択と拒絶は表裏一体であり、自由にはつねに責任がつきまとう。
歴史学、とくに現代史を学ぶ上で、この「アンガジェ」は重要で、研究者として現代の歴史の流れを見極めながら、一方で自分もその現代史のなかに生きて歴史を作っている当事者でもある。すると、行動はなかなかむずかい意味を帯びてくる。
そのことを自分にはじめて教えてくれたのは、サルトルだった。
世界に対する自分の責任とか、自分が歴史を作り手だとかいう意識のない人には、なんのことやら? かもしれないけれど、いまこそ「アンガジェ」は重要な問題だと思う。
(2014年6月21日)
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