自然に親しむ国民の祝日「みどりの日」の5月4日は、映画女優、オードリー・ヘップバーンが生まれた日(1929年)だが、政治家、田中角栄の誕生日でもある。
自分が小学生のころ、田中角栄総理が誕生した。当時の彼の人気はすさまじかった。高校時代には、彼は汚職事件裁判で裁かれていた。思春期の思い出ともからみ、強烈な印象がある。よくも悪くも、戦後日本の歴代総理のなかでもっもとも存在感のある首相だった。
田中角栄は、1918年、新潟の現在の柏崎で生まれた。父親は農業や家畜の売買をしていた。
貧しい環境から身を起こし、高等小学校を卒業し、16歳の年に上京し、住みこみで働きながら、夜学に通って勉強した。夜学卒業後、建築技師となり、19歳で建築事務所を開いたが、戦争で召集され、21歳で陸軍に入隊、満州で兵役についた。
23歳のとき、肺炎のため帰国、除隊して建築会社を興し、戦中に事業を発展させた。
戦後、衆議院議員に出馬し、29歳のとき、初当選。
39歳のとき、岸信介内閣で郵政大臣として入閣。
44歳のとき、池田勇人内閣で大蔵大臣に就任。
47歳で、佐藤栄作内閣のとき、自由民主党幹事長に就任。
54歳のとき、与党自民党を真っ二つに分けての総裁選挙で、福田赳夫に勝利し、総理大臣となった。高等小学校出の馬喰の息子が総理大臣になったと、庶民の圧倒的な人気を集めた。
「日本列島改造論」をぶちあげ、日中国交正常化を実現させたが、雑誌の記事が発端になった金脈問題で首相から降り、米ロッキード社からの日航機購入をめぐるリベート問題で裁判の被告となった。控訴審中に脳梗塞で倒れた田中は、一審、二審とも有罪判決を受け、最高裁に上告中の1993年12月に没した。75歳だった。ロッキード事件の裁判は、公訴棄却となった。
子どものころ、田中角栄の自伝を読んだことがある。昼間働いていた苦学時代は、夜机に向かっていて眠らないよう、先をとがらせた鉛筆をてのひらにあてておいて、うとうとすると芯が突き刺さるようにしておいて勉強していたと、たしか書いてあった。強烈な意志の人で、お金持ち出身の大学出のエリートでない庶民派。「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれ、相談ごとや直面した問題には、
「よっしゃ、よっしゃ」
となんでも対応し行動した親分肌。それが田中の魅力だった。
ただし、田中角栄はお金と利権がつねにからむ人で、いつもお金を吸い上げ、お金をばらまいて歩いた。大臣に就任すると、その省庁の全員に靴下など金品を贈り、相手をもてなそうとするときはまずお金を渡した。賄賂を受けとり、列島改造論で日本の地価を上げておいて、こっそり前もって買ってあった土地を売って大儲けした。日本の官僚が拝金教の信者と化し、現代の日本人が家賃や住宅ローン家に苦しんでいるうちのいく分かは、田中角栄のせいだと思う。
地元新潟で、田中角栄に反発する者への迫害がいかにひどかったかも、自分はジャーナリスト筋から耳にしている。
毀誉褒貶のはげしい大政治家だった。自分としては、周恩来のような品が彼にはなかったところと、彼の拝金主義が日本を染めてしまったのがよくなかったと思うけれど、彼が掲げた理想と行動力とは、仰ぎ見るべきだと思う。
これは異説もあるけれど、中国からエネルギー協力をとりつけようとした田中の外交政策が米国の支配層の逆鱗に触れ、それでロッキード事件をふっかけられて、徹底的につぶされた。そう見るのが妥当だと自分は思う。これは米国による見せしめであり、その後の日本の首相は、米国にものを言えなくなってしまった。米国側の策略の意図はかなり露骨に見えていたにもかかわらず、他人の足をひっぱるのが好きな日本人の国民性なのか、日本人は誰も田中角栄を守ろうとしなかった。それが悔やまれる。田中角栄の路線がうまく継承されていたら、現代の日中関係はぜんぜんちがっていたと思う。
(2014年5月4日)
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