7/15・レンブラントの美の女神 | papirow(ぱぴろう)のブログ

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7月15日はメキシコのプロレスラー、ミル・マスカラスの誕生日(1942年)だが、ネーデルランド(オランダ)の画家、レンブラントの誕生日でもある。
自分がはじめて見たレンブラントの絵は、小中学校の美術の教科書で見た彼の自画像だった。60代の自画像だったろうけれど、それがゴッホの帽子をかぶった自画像や、ほかの画家の自画像と並んで載っていた。教師が、どの絵がいちばん好きかと問うと、クラスのなかでは、ゴッホのにいちばん多く手が挙がった。自分は、レンブラントに挙げた。

至上の画家、レンブラント・ハルメンス・ファン・レインは、1606年、ネーデルランドのライデンで生まれた。父親は製粉屋だった。
画家に弟子入りし、19歳のときには画家として独立したレンブラントは、友人といっしょにアトリエを開いた。
25歳のときに、アムステルダムへ移り、28歳の年に、裕福な名門の子女、サスキアと結婚。この結婚により、レンブラントは上流階級とのつながりを得、また最高のモデルと経済的な余裕を手にした。肖像画の注文がつぎつぎと舞い込み、彼はそれをこなしながら、妻にさまざまな衣裳を着せてポーズをとらせた。また収集癖のあるレンブラントは、高価な美術品をせっせと買い集めだした。人気画家レンブラントのアトリエには、最盛期には50人からの弟子たちがひしめいた。
36歳の年に、妻サスキアが没した。また、同じころ、アムステルダム自警団から注文を受けていた団体肖像画の大作「夜警」が、惨憺たる不評を買った。現代では名作中の名作として聞こえるこの絵のなか、中央の二、三人の夜警だけが光を浴び、ほの多くの者は闇に沈みがちで、さらに自警団と関係のない少女が描かれていることが、注文した自警団側の大きな不満を買った。自警団の17人は均等割りで絵の代金を拠出していたから、それはとうぜんの不満ではあったが、レンブラントの芸術家の魂は、もはやそのようなありきたりの肖像画を描けなくなっていた。
50歳のときに、レンブラントは破産し、彼の財産は競売にかけられた。
それ以後も、レンブラントは経済的な困窮のなかで、芸術上の精進を続けた。そうして生活の困窮と、大画家としての名声のなか、1669年10月に没した。63歳だった。

自分はレンブラントが好きで、美術館で有名な自画像の実物を見たこともある。近くで見ると、レンブラントは、塗ったり、刻んだり、削ったり、あらゆる技法を画面の上にたたき込むようにして描いているのがわかった。絵全体としては、いかにも落ち着いた、深い印象をたたえて落ちついているのだけれど、一つひとつの筆跡は、
「これでどうだ、どうだ、まいったか」
と奮闘して描いているレンブラントを想像させるのだった。それにしても、あの深い「内面描写」は、いったいどういうことなのだろうと思う。

女好きで、収集好きで、散財家だったレンブラントは、人生の苦難と戦いつづけた人だった。生まれた彼の子どもたちの多くは幼くして死んでしまったし、妻には二度先立たれ、当時の法律や訴訟問題には泣かされ通しだった。一時は栄華を極めたが、やがて傾き、破産すると、その後は貧困のまま没した。
つまり、レンブラントはたしかにミューズ(美の女神)に愛された天才だったけれど、彼のミューズはあいにくお金持ちでなかった、ということなのだろう。レンブラントの、あの深みのある絵を見ると、やはり、これは日々の金勘定の帳尻をちゃっかり合わせているような人間が到達できるレベルの味わいではないのだ、と納得できる。
(2013年7月15日)



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