6/16・俳人、荻原井泉水の「詩情」 | papirow(ぱぴろう)のブログ

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6月16日は、ゴロ合わせで「麦とろの日」。この日は、白人による北米大陸侵略に抵抗したネイティブ・アメリカン(アパッチ族)のジェロニモが生まれた日(1829年)だが、俳人の荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)の誕生日でもある。
無季自由律の俳句を提唱した人である。

荻原井泉水は、1884年、東京の芝(浜松町のあたり)で生まれた。本名は、幾太郎で、のちに藤吉に改名した。父親は雑貨商だった。
中学生のころから、俳句を詠んでいた荻原は、一高を出、東大の文学部言語科に進んだ。荻原は、大学在学中の22歳前後から「井泉水」の号を用い、河東碧梧桐の新傾向俳句運動に参加した。五七五にとらわれず、もっと自由に、五五三五、五五五三などの形式で俳句を詠んでみようという運動だった。
荻原は、大学卒業後、大学院に進み、25歳のころから、新聞の俳句欄の選者となった。そうして、彼は新傾向俳句の運動が不徹底だとして、俳句から季語の制約をも取り払った無季自由律俳句を訴えだし、ついに河東碧梧桐と、たもとを分かった。
季語や五七五などの形式にしばられず、自由に詠む。俳句には、句の魂である、光、力がなくてはならない。短いことばで暗示的に表現することで、その奥にある大きな自己、自然を思わせる、そういう俳句こそ、荻原井泉水たちが提唱した無季自由律の俳句だった。
荻原と志を同じくする俳人には、
「咳をしてもひとり」と詠んだ尾崎放哉、「鉄鉢の中へも霰」と詠んだ種田山頭火がいる。
彼ら無季自由律の俳人たちは、集まって句会を開く風ではなく、それぞれがひとりで旅をし、また隠遁生活を送り、句作を続ける、そういう傾向があった。
荻原は、40歳のころ、妻と母親を相次いで亡くし、小豆島へ遍路の旅に出、また京都や高野山の寺にこもって住んだ。
1976年5月、脳血栓のため没。91歳だった。以下のような俳句がある。
「まど、外からあけてふきのとですよ」
「いわおにじを吐く」
「棹さして月のただ中」
「空を歩む朗々と月ひとり」

自分は子どものころ、学校の国語の授業で無季自由律を教わったが、当時はよくわからなかった。けれど、季語や五七五の韻律の枠組みから飛びだすべきだという考えは、もしも俳句が芸術であるならば、とうぜん起こるべき必然的な欲求だという気が、いまはする。
荻原は、季語を俳句から排除せよと言ったのではなくて、季語がなくても、俳句は成立する、と言いたかったようだ。
季語を入れ、五七五にことばを整えれば、なんとなく俳句として恰好がついてしまう。詠んだ当人も、俳人気取りで、満足する。しかし、それは果たして俳句だろうか? そこから形式を取っ払ってなお、短詩の一形態であるはずの俳句であり得ているだろうか?
もしも俳人が詩人の仲間であるなら、頼るべき形式をなくして、それでも詩情がそこに詠みこまれているはずだ。そこに俳句の魂があるはずだ。荻原井泉水の主張を、自分はそう受けとっている。

生まれて、結婚して、子どもを育てて、孫ができると、人生として、なんとなく恰好がついてしまう。でも、そうした一生の年齢的行事をとっぱらって、それでも「人生」と呼べるものがそこにあるかどうか。人生にもしも「意味」があるなら、そういう問題になってくる。
(2013年6月16日)



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