「昭和の日」の4月29日は、仏国の数学者、ポアンカレが生まれた日(1854年)だが、米国ジャズ界の巨人、デューク・エリントンの誕生日でもある。
自分は、スティービー・ワンダーの「サー・デューク」という歌を聴いて、はじめて「デューク・エリントン」という名前を知った。その歌詞はだいたいこんな内容である。
「音楽は、世界に通じる共通のことばだ。誰でもそれに合わせて、踊ったり、歌ったり、手拍子したりして参加できる。どこでも、みんなが感じられるんだ。そして、音楽は、いつでも、ずっとそこにあるものだ。そんな音楽を作ったパイオニアたちは、たとえば、(カウント・)ベイシー、(グレン・)ミラー、サッチモ(ルイ・アームストロング)、そして、みんなの王さま『サー・デューク(公爵閣下)』」
自分はジャズにはうといので、聴いたはじめは、サッチモしかわからなかった。それで、調べていって、「サー・デューク」とは、デューク・エリントンというビッグバンド・ジャズの大御所だとわかった。
「A列車で行こう」を演奏した人で、その曲なら聴いたことがあった。
「王さま。ふーん、そんなえらい人なのかぁ」
と思った。
エドワード・ケネディ・デューク・エリントンは、1899年、米国ワシントンDCで生まれた。昭和天皇よりぴったり二つ年上にあたる彼の両親は、ともにピアニストだった。
エドワードは、7歳のときから女性ピアニストについてピアノを習いはじめた。彼の母親は、息子のまわりを気品ある女性でかため、息子に品のあるマナーを身につけさせようとした。母親の期待通り、エドワードはゆったりとした物腰、親しみやすい優雅さを身につけ、いつも洒落た服を着ていたところから、友だちから「貴族のようだ」と言われ、「デューク(公爵)」とあだ名されるようになった。子ども時代に付けられたこの愛称が、生涯を通じて、彼の名前に冠せられることになった。
15歳のとき、カフェでソーダ水販売係として働いていたとき、エリントンははじめて作曲をした。「ソーダ水売り場ラグ」という曲がそれで、これが、生涯に千曲以上を作曲したと言われる彼の第一曲目になった。
17歳のころから、ワシントンDC周辺のカフェやクラブで演奏をはじめ、フリーの看板絵描きをしながら、バンドを組んではダンス用の演奏をするようになった。
あるとき、ダンス・パーティー用の看板描きを依頼され、その依頼主に、
「もしも、まだ演奏バンドが決まっていなかったら、ぜひ自分にやらせてください」
と頼み込んだ。それ以来、エリントンは自分のバンドのピアノ演奏者であると同時に、仕事を入れるバンド・マネージャーとなり、本格的にミュージシャンとして活動しだした。最初の演奏で、彼がもらったギャラは75セントだったという。
最初はあちこちの町のクラブやパーティーで演奏する不安定な状態が続いたが、24歳のころ、彼のバンドはニューヨークのクラブと4年間の契約を結び、この安定したバンド環境を足がかりに、輝かしい音楽キャリアをスタートさせた。以後、デューク・エリントンのバンドは数々のヒット曲を放っていく。
「ブラック・アンド・タン・ファンタジー(Black and Tan Fantasy)」
「藍色の雰囲気(Mood Indigo)」
「スイングしなけりゃ意味がない(It Don't Mean a Thing (If It Ain't Got That Swing))」
「カクテル・フォー・トゥー(Cocktails for Two)」
「A列車で行こう(Take the "A" Train)」
「黒、茶色とベージュ(Black, Brown and Beige)」などなど。
1959年、60歳のときには、ジェームズ・スチュワート主演の映画「或る殺人(Anatomy of a Murder)」の音楽をエリントンが担当した。これはジャズ・ミュージシャンが映画音楽を担当したはじめての例となり、彼はこの作品でグラミー賞を受賞している。
1974年5月、肺ガンにより没。75歳だった。
彼の最後のことばは、こういうものだったという。
「音楽は、わたしがいかに生きたかであり、わたしがなぜ生きたかであり、わたしがどのように記憶されるかである(Music is how I live, why I live and how I will be remembered.)」
「スイングしなけりゃ意味がない」「A列車で行こう」などは、自分の大好きな曲のひとつである。
渡米してJFK空港に着いたときは、自分はたいてい地下鉄のA列車に乗ってマンハッタンに向かうのだけれど、そのときは、いつも心のなかで「A列車で行こう」口ずさんでいる。そういうときの興奮といったらない。
デューク・エリントンは、米国で、はじめて硬貨の絵柄に採用されたアフリカ系アメリカ黒人だそうである。
キング牧師、モハメッド・アリ、マイケル・ジャクソンなどと同様に、米国の黒人の地位向上に大きく貢献した偉大な歴史上の人物である。
デューク・エリントンのバンドは、1964年、彼が65歳のとき、来日して、コンサートを開いていた。そのとき、新潟地震が発生し、被害を知ったエリントンは、次に予定していたハワイ公演を急きょキャンセルして、日本で募金を募る追加コンサートをおこない、収益を被災地へ寄付したという。
自分も、「デューク」と呼ばれるような品格を身につけたいものだと思う。
(2013年4月29日)
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