4月18日は、『文明の衝突』の政治学者ハンティントンが生まれた日(1927年)だが、東急グループを築いた実業家、五島慶太の誕生日でもある。
自分は、小さいころから「強盗慶太」の名前は、よく聞かされていた。東急グループを率い、西武の堤と争った鉄道業界の雄で、その強引な企業乗っ取り手法によって「強盗慶太」と呼ばれた人だと、祖父がよく話していた。
五島慶太は、1882年、長野県青木村に生まれた。誕生時の名は、小林慶太。貧しい山村の農家の次男だった。
小林慶太は、子どものころから志が高く、進学を望んだが、家庭の経済事情により、尋常中学校を出た後、小学校の代用教員になった。
しかし、進学への思いはやまず、20歳のとき上京。学費のいらない東京の高等師範に入学した。
高等師範を卒業後は、いったん三重県で英語教師になったが、境遇を不足に感じ、25歳のとき、あらためて上京。一高をへて東京帝国大学に入学。家庭教師などをしながら大学を卒業した。
29歳で、大学を卒業し、農商務省に入省した。
30歳のとき、皇居二重橋の設計者の娘と結婚。妻の父方の先祖の家を継いで再興し、その姓「五島」を名乗ることになった。
五島慶太は、後に鉄道院へ移り、そこで課長職を務めた後、辞任して、鉄道会社の常務取締役に就任した。
経営不振におちいっていた鉄道会社をよみがえらせ、事業を軌道に乗せた五島は、鉄道の沿線にデパートや娯楽施設、大学を誘致するなどの手法で鉄道経営を成功させ、他の鉄道会社の株式を買い集めて、つぎつぎと合併させ、巨大な東急グループを作り上げた。
戦時中は、東條英機内閣の運輸通信大臣を務めた。そのため、敗戦後は、公職追放処分となった。
やがて、追放処分が解除されると、ふたたび東急電鉄会長に就任し、経営再建、都市開発、企業の吸収合併などに辣腕をふるった。
そうして事業欲の衰えぬまま、1959年8月に没した。77歳だった。
貧しい境遇から身を起こし、一代で巨大な東急グループを築き上げた、立志伝中の人物である。エネルギッシュに事業発展に邁進しつづけた、首尾一貫した立派な生涯だった。
「強盗慶太」の呼び名は、どうやら本人のことばから来ているらしい。資金を調達して、大株主のところへ乗りこんでいって、口説き、説得して、お金を渡して株式を譲り受け、欲しい企業を自分のグループに取り込んでしまう。そういう強引な手法を、彼みずからこう言っていた。
「白昼に札束を切って、堂々と強盗を働くようなもの」
実際には、強盗でもなんでもない、合法的な吸収や合併だったわけだ。しかも、株式の買い取りに動くとき、五島はつねに大義名分を用意していた。ただ、大金を積み上げて、
「ほら、よこせ」
と脅すのでなく、ちゃんと未来の事業プランを示し、
「これが社会、人々のためになる。公共の利益になるから」
と説得したのである。
ただ「得になるから」と、損得勘定だけで動く人も、いまの世の中にはすくなくないが、資産や良識があるレベル以上になると、人はお金だけでは動かないものである。でも、「このほうが人々のためになる」と納得すれば、動かざるを得ない。これは、国内だけでなく、世界でも通用する交渉術だと思う。
五島慶太という人は、その生涯を見渡すと、まるで大きな事業を手がけるために生まれてきたような人だと感じられる。しかし、こんな天才事業家でも、1929年からはじまった世界大恐慌のころ(昭和恐慌のころ、五島が48歳のころ)には、一時、自殺を考えるほどの苦しい時期があったという。そのとき死んでいれば、五島慶太はなかったわけで、やっぱり、どんな人の人生にも、かならず苦境というのはあるので、それを乗り越えなくてはいけないのだ、と、彼の生涯に教えられた気がする。
(2013年4月18日)
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