3/7・音楽の魔術師、ラヴェル | papirow(ぱぴろう)のブログ

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3月7日は、『砂の女』を書いた抽象主義作家、安部公房(1924年)が生まれた日だが、仏国の音楽家、ラヴェルの誕生日でもある。
あの「ボレロ」「亡き王女のためのパヴァーヌ」を作曲したラヴェル、である。
自分がはじめてラヴェルの曲を耳にしたのは、クロード・ルルーシュ監督の映画「愛と哀しみのボレロ」のなかでだったかもしれない。
あれは映画もよかったけれど、その音楽もすごかった。映画の終わりのほうの、男性のバレエダンサーが、煽情的に踊りつづける場面に流れるバレエ音楽はすばらしかった。映画をみた後、自分は頭がぽーっとなって、手を重ね、腰をリズムカルに沈めて、あのダンサーの踊りのまねをしばらく練習していた。
それにしても、すごい音楽だ。同じテーマを延々と繰り返すだけで、聴く者の心をこれほどまでに高揚させる、こんな魔法のような音楽がこの世に存在していたのか、と思った。それが、ラヴェルの書いたバレエ音楽「ボレロ」だった。

モーリス・ラヴェルは、1875年、仏国の、スペインとの国境に近いバスク地方のシブールで生まれた。両親ともにカトリックで、母親はバスク系。父親はスイス系の発明家で、初期の内燃機関エンジン、初期のジェットコースターなどを発明した人物だった。
モーリスが生後3カ月のとき、一家はパリへ引っ越した。そこで彼は、6歳からピアノを練習しだし、14歳のとき、はじめてのピアノ・リサイタルを開いた。
パリ音楽院の学生となったラヴェルは、音楽院在学中の24歳のとき、ベラスケスが描いた「マルガリータ王女の肖像」からインスピレーションを受けた。そして書いたピアノ曲が、代表作のひとつ「亡き王女のためのパヴァーヌ」で、後にラヴェルはこの自作を管弦楽曲に編曲している。
この曲はもともと、「亡き王女を送る曲」でなく、「その昔、王女が踊ったような曲」の意味らしい。
26歳のとき、ピアノ曲「水の戯れ」、33歳で管弦楽曲「スペイン狂詩曲」などを発表し、ラヴェルの名声はしだいに高まった。
生涯を独身で通したラヴェルは、第一次大戦中に最愛の母親を亡くし、ひどく落ち込んだ。それを境に、あまり作曲が進まなくなったようだ。
1928年、53歳のとき、ラヴェルは北米への演奏旅行をおこなった。ニューヨークでは、ラヴェルは、米国の作曲家ガーシュインと連れ立って、デューク・エリントンなどのジャズ演奏を聴きにハーレムへでかけた。そのとき、ガーシュインが、
「フランスの作曲法を学びたい」
という旨を言うと、ラヴェルはこう答えたという。
「どうして二流のラヴェルになりたがるのです? 自分は一流のガーシュインだというのに」
53歳でバレエ音楽「ボレロ」、55歳のとき「左手のためのピアノ協奏曲」を発表。
57歳のとき、ラヴェルはタクシーの事故にあい、頭をひどく打ちつけた。当初は損傷は深刻そうではなかったが、彼はやがて失語症の症状をきたすようになり、しばしば放心状態になった。
病状はしだいに悪化し、痴呆症状をみるにいたり、1937年12月、ラヴェルは脳外科手術を受けることを決意する。手術後、彼はいったんは意識をとりもどしたが、すぐに昏睡状態におちいり、息を引き取った。62歳だった。

ラヴェルの名曲「ボレロ」の、同じテーマが延々と繰り返される構成は、じつは、脳障害の影響ではないかという説が、かつて米国のマスコミで取り沙汰されたことがあったという。痴呆の影響が譜面を書くときに出て、同じフレーズばかり繰り返し演奏する曲になってしまったのではないか、と。しかし、この説は、ラヴェル自身が、意図的に繰り返しを曲のなかに作り出した旨のコメントを残していることから、否定された。
それはそうだろう、と思う。
「ボレロ」の、あの魔法のような、しかし、巧妙に計算し準備された、この世にある緊張感をすべて拾い集め、ついにはそれが極度に高まりきって天に解き放つかのような曲構成が、痴呆状態の頭でたまたま出来上がった産物であるはずがない。
いま、「パヴァーヌ」を聴き、ラヴェルの天才をしのびつつ、これを書いている。
(2013年3月7日)



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