1/26・盛田昭夫の楽観主義 | papirow(ぱぴろう)のブログ

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1月26日は、ソニーの創立者のひとり、盛田昭夫の誕生日。
自分が「盛田昭夫」の名前をはじめて知ったのは、小学校の高学年のころだった。
当時、小学校の図書館には、少年少女世界文学全集とか、怪盗ルパン全集とかいった本に混じって、世界伝記全集といった感じの子ども向け全集本が並んでいた。
本好きの小学生だった自分は、文学やルパンも好きだったけれど、伝記も好きで、エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、チャーチル、ケネディ、ガンジーといった定番の子ども向け偉人伝をよく読んでいた。
小学校の図書館にあった伝記の全集は、ぜんぶ読んだかもしれない(文学全集は8割がた、ルパン全集はぜんぶ読んだ)。
現在では、ひょっとするとビル・ゲイツやマーク・ザッカーバーグがとり上げられているのかもしれないけれど、当時は、現役のビジネスマンが伝記の素材としてとりあげられることはまずなかった。
ところが、ある日、学校の図書館の棚を見ると、伝記全集の棚に『世界の松下、ソニー、ホンダ』という本が並んでいた。
「ふうん、なんだろう、これは。ソニーという名前のえらい人がいるのかな」
そんなふうに思って、借りて読んでみた。
お察しの通り、その本のなかでは、松下幸之助、井深大、盛田昭夫、本田宗一郎といった日本の実業家が紹介されていた。このビッグネーム4人を1冊に閉じ込めてしまうという、いま考えるとものすごい企画本だけれど、とにかく、それで自分ははじめて盛田昭夫という名を知ったしだいだった。

盛田昭夫は、1921年1月26日、愛知県の造り酒屋の家に生まれた。昭夫が店を継げば、第15代目当主となるはずの古い家柄だった。
23歳で大阪帝国大学の理学部物理学を卒業した盛田は、海軍の技術中尉となり、24歳のときに、海軍で井深大(まさる)と知り合う。
知り合ってすぐ敗戦となり、その翌年の1946年、井深と盛田は東京通信工業という会社を興す。
これが現在のソニーで、SONYの名前は、英語の「音(sound, sonic)」の語源であるラテン語の「Sonus」と、アメリカで男の子を呼ぶときの「ソニー(Sonny)」をかけ合わせたものらしい。
ソニーの井深と盛田は、海軍時代の経験から、国家プロジェクトと結びついた巨大企業に戦いを挑むことを避け、民間向け、一般消費者向けの製品開発を目指した。
それでも、開発費や社員の給与など、メーカーの研究費、維持費は莫大で、はじめのころは、ソニーの社員の給料は、盛田の実家からでていたともいう。
そうやってやりくりして、ソニーは、日本初のテープレコーダーを作り、日本初のトランジスタラジオを作った。
ソニーは国内企業にとどまることをいさぎよしとせず、アメリカへ進出する。
39歳のとき、盛田はソニー・アメリカの社長となり、日本の企業としてはじめてアメリカで株式を発行した。
そして、42歳のとき、彼は家族を連れてニューヨークへ引っ越した。アメリカの市場開拓に真剣にとりくみだしたのだった。

アメリカ市場開拓当時の有名な逸話に、盛田が下請け製造をことわった一件がある。
いま、手元に資料がないので、アバウトな話になるけれど、大筋はこうだったと思う。
ある日、アメリカの大企業に、自社製品を売り込みにいった盛田は、相手にこういう意味のことをいわれた。
「うちであつかって、うちの販売網で売ってやるから、おたくの製品に、うちのブランド名をつけて納品してほしい」
盛田はことわった。彼は、他社の下請けメーカーにだけはなるまい、と心に決めていたからだった。
すると、相手はこういった。
「しかし、きみの会社の名前では、誰も知らないから、売れないよ」
盛田は、現在はSONYは無名だが、将来にはかならず有名になる、そういって帰ったという。

55歳のとき、いまでも語り種となっているベータマックス裁判が起こる。
ソニーは米国で、家庭用ビデオ録画装置ベータマックスを発売し、
「これで『刑事コロンボ』を見て、裏番組の『刑事コジャック』を見逃すということがなくなります」
という意味のコマーシャルを打った。わかりやすい、キャッチーな宣伝文句だったと思う。
ところが、これにユニバーサル、ディズニーなどのハリウッド勢が文句をつけてきた。映画会社が制作し著作権をもっている映像を、勝手にコピーするのは著作権の侵害だとして、訴えてきたのである。
ソニーの盛田は示談にもちこまず、法廷闘争を受けて立った。
このとき、もしもソニーがハリウッドに譲歩したり、あるいは裁判でハリウッド側の主張が通っていたら、現在の全世界の家庭の風景は、いまとはまったくちがうものになっていたかもしれない。
家庭でのテレビ録画の是非が問われた、歴史の大きなターニング・ポイントだった。
地裁では、ソニー側が勝った。
ところが、高裁では、ハリウッド側が逆転勝訴した。
結局、つぎの連邦最高裁で決着をつけることになったが、米国では、高裁での判決が最高裁でひっくり返される例はわずかしかなく、ほとんどは高裁の判決通りで決まり、というのが常識らしい。
盛田のソニー側と、ハリウッド側は、たがいにロビー運動を起こし、オピニオン広告をだし、国会議員を巻き込んでの全米的な論戦を繰り広げた。
盛田は、この法廷闘争を「ソニー対ハリウッド」でなく、「アメリカ国民対ハリウッド」という構図の裁判として米国民に訴えた。
ソニーは、アメリカ国民のために戦っています、アメリカ国民が自由にテレビ番組を録画できる権利を守るために、と。
そうして、連報最高裁での判決は、5対4でソニー側の勝訴というきわどいものだった。裁判がはじまって8年後の決着だった。
盛田昭夫はソニーの社長、会長を歴任し、1999年10月、肺炎のため没した。78歳だった。

盛田昭夫は、日本国内だけでなく、世界の人々から敬愛されたビジネスマンだった。
理学部物理科出身の技術者なのに、セールスマンとして先陣をきって世界市場を駆けまわった。
スポーツマンで、社交家で、勉強家だった。
生前は、よくテレビのドキュメンタリー番組などで見かけた顔で、いつも快活で、よくしゃべる、スマートな人だった。
自分は、盛田の自伝『MADE IN JAPAN』の文庫本を以前もっていたが、いつの間にかどこかへいってしまった。
その本に書いてあったか、あるいは、盛田の追悼テレビ番組で見たのかわからないけれど、たしか彼は生前、こういう意味のことをいっていたと思う。
「わたしは楽観主義者である。未来を悲観する材料は多々あるけれど、人類はきっと技術でもって、それを乗り越えて、うまくやっていくと思っている」
彼の楽観論は、
「まあ、そのうちなんとかなるだろう」
という「果報は寝て待て」論ではなく、
「知恵をしぼり、技術をもってすれば、かならずよくなる」
という信念である。
ああ、盛田昭夫流の楽観論でもって、前向きにいきたいものだ。
(2013年1月26日)

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