あらかじめ信仰告白をしておくと、自分は1980年ごろからビートたけしの名前に親しんでいる彼のファン「たけちゃん教」の信者である。
たけちゃん教の教義はかんたんで、むずかしいことは考えなくていい、とにかく、瞑目し、
「たけちゃん、たけちゃん、たけちゃん……」
と、その教祖さまの名前を一心に唱えれば、かならず救われる、笑いの極楽浄土にいける、というものだ(教典もあったような気がするけれど、忘れました)。
「自分は救われない」と思っている方は、ぜひおためしください。からだがポカポカしてきますから(ほんとかな?)。
なぜ「ビートたけし」なのかというと、彼はかつて「ツービート」という二人組の漫才コンビをかつて組んでいて、その一人なのでそう呼ばれるのだが、ツービートは二人組といっても、ネタを考え、しゃべるのはもっぱらビートたけしで、相方のビートきよしは、邪魔にならない程度に合いの手を入れる、という役割分担だった。
自分がはじめて「ツービート」の名を聞いたのは、1980年ごろ、ラジオ番組でだったと思う。
当時、某というラジオ番組で、タモリがディスクジョッキーをやっていて、番組のなかで、
「しゃべるのがあぶないことばかりなので、とてもラジオでは放送できないが、いま、浅草にものすごい、おもしろい漫才師がいる」
と紹介したのがツービートだった。
そのタモリの紹介が、ひとつのターニングポイントだったと思う。
そこから火がつき、ツービートはマスコミに露出するようになり、単行本『ツービートのわッ毒ガスだ』がベストセラーとなり、1980年代の漫才ブームがはじまり、ブームの波に乗ってビートたけしは一気にマスコミの寵児となった。
ビートたけしは、1947年1月18日、東京で生まれた。団塊の世代。映画「戦場のメリークリスマス」で共演したデヴィッド・ボウイと、誕生日がちょうど10日ちがいである。
父親が塗装業を営む北野家は、経済的には貧しかったが、精神的には高潔なものがあった。
明治大学に入学したたけしは、ジャズ喫茶にいりびたり、アルバイトにあけくれる。
彼は、永山則夫や中上健次と、同時期に同じ職場で働いたこともあるという。
大学を除籍後、25歳のとき、浅草の演芸ホールで芸人見習い。
ツービートを結成し、過激な差別ギャグで、カルト的人気を誇った。が、売れっ子になるのは、33歳のころからはじまる漫才ブーム以降のことである。
36歳のとき、映画「戦場のメリークリスマス」に主演。これが第二のターニングポイントになる。
当時、日本でもっとも忙しいタレントといわれたたけしが、ひと月以上も日本を離れて海外ロケに取り組んだ。彼にとっては本格的商業映画の初体験だったが、これでたけしの映画への扉が開かれた。扉を開けてくれたのが、世界的な映画監督、大島渚で、共演者が英国のスーパー・スター、デヴィッド・ボウイというのだから、たけしの映画デビューは幸福だったと思う。
39歳のとき、弟子たちを連れて、出版社、講談社に殴り込みにいき、逮捕され、前科者となる。愛人といっしょのところを、雑誌にスクープされたのに腹を立てての暴挙だったが、これが第三のターニングポイントになる。
屋台をひいても、弟子たちを食べさせていくとの覚悟を決めてのテロ遂行で、ここでたけしの生きる流儀が固まった。
47歳のとき、酔ってパイクを運転し、転倒事故を起こす。一命はとりとめたものの、タレント生命である顔が大きく損傷し、事故以前と以後では、たけしの顔は大きく変わってしまった。これが第四のターニングポイント。この死と向かい合った経験によって、たけしのなかに死生観が生まれ、彼の存在感に凄味が増した。このときの療養中に、彼は病室で写経のように絵を描きつづけたが、このときの絵が、後の彼が監督し、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受けた「HANABI」に使われ、映画の主調低音となる。
以後、彼は、ビートたけし、または北野武として、タレント、映画監督、俳優、作家、芸術家、大学教授など、まさにマルチな才能を発揮しつづけてとどまるところを知らない活躍ぶりは、周知のとおりである。
その活躍ぶりを賞して、かつて彼を除籍した大学は、彼に卒業証書をだしたそうである。
自分の感じるには、ビートたけしは、その登場したときから、ほかの漫才師やタレントとは、明らかにちがう匂いがしていた。それは、知性的という匂いだ。
下町の貧乏なペンキ屋の息子で、粗野で無教養を看板にして売りだしたたけしだが、看板とは裏腹に、ぜんぜん知性的な雰囲気をもっていた。
彼と同時代に活躍した有名タレントとして、タモリ、明石家さんまが挙げられるだろうけれど、タモリは、まあ、いってみれば、宴会芸の人である。さんまは、ひとり漫談の人である。しかし、たけしはまったくちがう。どんな芸人とも異なっている。
彼を見た人、会った人を笑わせながら、かならずそのなかにひそかに、針のひと刺し、爪のひとかきを忍ばせていて、相手の心に知的衝撃の傷跡を残さずにはおかない、そういう苦みをもった表現者だと、自分は感じる。
この甘みなかの苦々しさは、音楽でいえば、ザ・ビートルズや、デヴィッド・ボウイの楽曲に通じるものである。
自分が、ほかのタレントとはまったくちがうレベルで、ビートたけしにひかれるのは、おそらくその知的な苦みのせいだと思う。
たけしが1994年にバイク事故をおこしたとき、担ぎ込まれた病院で、たまたまその夜、当直をしていた医者に話を聞いたことがある。(詳細は拙著『1月生まれについて』参照)
とにかく、病院側の必死の救命努力により、たけしの命は救われた。あのとき死んでいれば、現代の「世界のキタノ」は存在しなかった。
「命なりけり、小夜の中山」というわけだが、有名になることは、生命を永らえさせることにもつながるのである。
天が彼にまだ死ぬことを許さなかった、そういう見方もできる。それにしても、助かって、ほんとうによかった。
(2013年1月18日)
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