1月6日は、ゴロで「色の日」。この日が誕生日の人物には、聖女ジャンヌ・ダルク(1412年)、発掘王ハインリッヒ・シュリーマン(1822年)、名探偵シャーロック・ホームズ(1854年)と、ビッグ・ネームが目白押しだけれど、なかでも自分が真っ先にその名をあげたいのは、やっぱりベンジャミン・フランクリンである。
嵐のなかにワイヤーを付けた凧(たこ)をあげ、雷が静電気だと証明して見せたフランクリン、アメリカの独立宣言の起草したフランクリン、米国の百ドル紙幣にその肖像が印刷されている、あのフランクリンである。
ベンジャミン・フランクリンは、ユリウス暦1706年1月6日に、米国の現マサチューセッツ州のボストンに生まれた(現代のグレゴリオ暦だとすこし異なる)。まだ英国の植民地だった時代のアメリカ人、である。
彼の家は、英国から移ってきたプロテスタントの家系で、末っ子の末っ子がつづいて5代目という家庭に彼は生まれた。
ベンジャミン自身も、17人兄弟の、男の子としてはいちばん末、下から数えて3番目だった。
父親は染物屋をやってていて、同時にロウソクや石けんも作っていた。
フランクリンは、もの心がついたときには、すでに文字が読めたという賢い子どもで、ラテン語の学校へ通っていたが、兄弟が多く、すべての子に高い教育費をだせない事情もあって、10歳のころから、彼はロウソク、石けん作りを手伝わされた。
フランクリン自身は子どものころ、船乗りになりたい希望を抱いていたというが、12歳のとき、父親に説得させられ、兄がやっている印刷工場に年季奉公する契約書に、いやいやサインさせられ、そこで働きだすことになる。
兄は新聞を発行しだし、利発なフランクリンは匿名の寄稿原稿を書いて、誰か見知らぬ人の投書のようにして兄の目にとまるようにしむけ、まんまと記事として新聞に載せたりしていた。
年季奉公からの脱出を願っていたフランクリンは、機会をとらえて契約解除し、なおも自分を手元にしばりつけておこうとする家族から逃げ出した。
そうして、彼は17歳のとき、ニューヨーク経由でフィラデルフィアへいった。紹介状も頼るあてもない、わずかな所持金をポケットに入れての家出だったが、これがフランクリンの運命の扉を開く旅となった。
誠実で勤勉、やる気にあふれ、高い印刷技術をもったフランクリンは、フィラデルフィアで印刷工として働きだし、ゆく先々で会った人と仲良くなり、多くの実力者のひきたてにあった。
18歳のとき、印刷機を買い入れるために英国ロンドンへ渡り、約1年半後、20歳でフィラデルフィアへ帰還。
22歳で印刷業者として独立し、以後、パンフレットや本を書き、新聞にさまざまな文章を寄稿しながら、事業を発展させていく。
彼は、図書館を作り、消防組合を作り、学術協会を作り、大学を作った。
州会書記となり、郵便局長となり、州会議員となり、義勇軍の隊長となり、州会議長となり、独立宣言を起草し、1776年、70歳のときにアメリカの独立を宣言した。
有名な凧の電気実験は、フィラデルフィア州会議員だった46歳のときである。
米国独立戦争の後は、対英国の講和会議代表となって、パリで講和条約に望み、調印している。
1790年、84歳のとき、フィラデルフィアで没。米国では国葬、フランス国会も彼の死を悼み、3日の喪に服したという。
10歳で働きはじめ、立身出世を身をもって示し、社会を整備し、国を独立させ、まさに建国の父となった。
まったく、躍動感に満ちた、おそるべき経歴で、「生きたアメリカ」という感じがする。
経歴をみると、破天荒、自由奔放という印象を受けるのだが、実際には、フランクリンは、一貫して勤勉でよく働き、倹約に努め、公徳心に富む、誠実を尊ぶ地道な人物で、生涯を通じてつねに他人にも、勤勉と誠実をすすめているのである。
フランクリンはこういっている。
「勤勉は幸運の母である」(Diligence is the mother of good luck.)
自分も、フランクリンの自伝はもっていて、愛読書のひとつである。
自分の考える「アリメカ人のいいところ」が詰まっている感じがする。
『変身』『審判』『城』を書いたドイツの作家、フランツ・カフカは、フランクリンの『自伝』を読んでこういったそうだ。
「わたしはアメリカ人が好きだ、だって、健康で楽天的だから」
自分も、カフカにまったく同感である。
(2013年1月6日)
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