1月4日は、フランスの点字開発者、ルイ・ブライユの誕生日。
ブライユは1809年1月4日、フランス、パリの東方にある小さな村で、馬具職人を父として生まれた。
ブライユは歩けるようになると、すぐ父親の仕事場で遊びだしたが、3歳のとき、仕事場で、錐で皮に穴を開けようとして、あやまって自分の目を突いてしまった。
彼はすぐに医者へ連れていかれ、翌日にはパリの有名な外科医のもとへ運ばれたが、結局目は治らなかった。
そればかりか、負傷した目は数週間にわたって痛み通し、感染症がもう一方の目にまで広がった。
そうしてブライユは、5歳のとき、両目とも完全に見えなくなってしまった。
幼いブライユが目を突いてしまったのは、ちょうどナポレオンがロシアへ遠征したころで、両目ともに失明したのは、敗北したナポレオンがエルバ島に流された年である。
戦乱の世だった当時のフランスの片田舎で、目の見えなくなった者の扱いは推して知るべしだが、ブライユの場合は、両親が献身的に彼を助けてくれ、本人もまた向上心に富む少年で、父親が作ってくれた杖で、村を探索して歩きまわるようになった。
また、ブライユにとって幸運だったのは、世界初の盲学校のひとつである、国立の盲学校がパリにちょうどできて、向学心旺盛だった彼がそこで学べたことだった。
当時、目の見えない者がものを伝えるには、厚い紙にとがったもので文字の形をひっかいていたらしいが、あるとき、ブライユは、フランス陸軍に「夜間書記」という伝達法があることを知り、これを目の見えない人の伝達用に応用することを思いついた。
陸軍の方法は、夜間の前線などで光がないときでも、紙に点を押し記して、一定の約束ごとをもって並べ、受けとる者は、それを指でさわることによって命令の内容がわかる、というものだった。
ただし、陸軍の点字の配列はやや複雑すぎたため、ブライユはこれを6点だけですべてのアルファベットをあらわすものに改良した。
ブライユは盲学校の教師となり、師弟たちに、自分の開発した点字を教えた。
彼の点字は生徒たちには大好評だったが、なかなか学校側の採用するところとはならなかった。点字が学校で採用されるのは、彼の死後のことになる。
29歳のとき、ブライユはこの点字のシステムの本を出版し、一方で、友人の点字を打ち出す点字タイプライターの開発に協力した。
この点字タイプライターは、後に発表されると、広く圧倒的な支持を得、1855年のパリ万国博覧会で世界にお披露目された。
ブライユは、幼少のころから呼吸器官が弱かっったが、大人になってもそれは変わらず、40歳のころにはいよいよ衰弱が進み、教師の職を辞して自宅静養せざるを得なくなった。
そうして1852年、43歳になったばかりで亡くなっている。
点字は、この文章を目で読んでいる人には、縁のない話だろうけれど、考えてみれば、ブライユにとっても、3歳のときまでは、縁のない話だったのである。
視力を失うというのは、人間にとってそうとうな痛手である。
住宅ローンの契約書に、ローン返済を背負っている本人が返済途中で死亡した場合は、残りの返済義務はなくなり、住宅は遺族のものとなる旨の免責条項が書いてあったりするが、そういうときはたいてい、本人が両目を失明した場合も、同様に返済義務がなくなる旨が記されてあると思う。
失明というのは、まったく一大事で、いざそうなったら、絶望を感じるのは人情というものである。
でも、一方で、歴史に「もしも」はないとはいうものの、もしも3歳のブライユが誤って目を突かなかったら、彼は点字のことなど考えもしなかったろう、これもまた真実だろう。
そういうことを考えあわせてみると、人間というのは、やはり、自分にないものをほしがるのでなく、また過去をふり返るのでもなく、いま自分のもっているものをもって、前を見て歩いていくべきなのだろうなぁ、と思うのである。
ルイ・ブライユ。頭が下がります。
(2013年1月4日)
●おすすめの電子書籍!
『1月生まれについて』(ぱぴろう)
ルイ・ブライユ、デヴィッド・ボウイ、モーツァルト、ビートたけし(北野武)、ちばてつや、ジョン万次郎、盛田昭夫、村上春樹、三島由紀夫など1月誕生の31人の人物評論。人気ブログの元となった、より詳しく、深いオリジナル原稿版。1月生まれの教科書。
www.papirow.com